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気になる人々 岡田宜振(以蔵の弟)

杉さんぼく

高知の北東は薊野真宗寺山にある岡田家墓地に、岡田宜振(タカノブ)とあるのが以蔵の墓です。(あの有名な沢田マンションの横からも登れた)

仲人まがいの世話好き好人物だった、とされる父義平の代に高知に出てきたようで、その以前は岡田家の墓もある神通寺村(香美市)に住んでいました。(未見)
いわゆる、黒岩某から郷士株を買った譲受(ゆずりうけ)郷士でした。

以蔵は、詩文経書等に通じた父義平・和漢学問にも身につけた母里江の血を受けた事もあってか、当初は書を竹村東野氏、剣を麻田勘七氏に学んだ(殉難録稿)、とあります。

やがて13、4歳になった頃、麻田勘七氏弟子武市半平太さんに、以蔵を入門させました。

この以蔵さんには6歳下の弟がいて、土佐勤王党名簿に名を連ねた宜登=のち登稔、通称「慶次=啓吉」がいます。

薊野真宗寺山に行くと、以蔵の墓と共に「岡田登稔墓」「岡田登稔妻墓」とあるのが弟夫婦の墓です。

以蔵亡き後、家督は宜稔=啓吉さんが引き継いで、会津戦争に従軍、佐賀の乱では敗れた江藤新平を、自宅に泊めたりもしています。

この宜稔=啓吉さん、残念ながら、39歳で亡くなり(明治15年)、遺児の男子、虎輔さんは札幌農学校から大蔵省〜タバコ産業界に名を残し、次男の諒児さんは、大蔵省〜四国税務署長を務めました。

ちなみに以蔵の母、里江さんは89歳まで長命(明治39年歿)しています。

この宜稔氏の子孫宅には、まだまだ資料があるとされているだけに、人斬り以蔵に憚る事なく、もっと世に出て欲しいものです。
(参考/松岡司著=岡田以蔵正伝2014)

2015/12/01 Tue 08:36 [No.205]