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気になる人々 勝海舟忍者群屋敷に住む

杉さんぼく

服部半蔵、いうまでもなく武将忍者であるのは、誰しもに知られています。

その墓が東京の四谷西念寺にあり、墓維持に窮した時の事。

そこで勝海舟が相談を受けた(明治16年月26日)関連の記述が、海舟日記にあります。

…梶田(政光)、服部半蔵へ三円遣わす…(3月14日)

海舟と服部半蔵、どう繋がるんでしょうね。

男谷家邸で生まれた海舟は、父男谷小吉が御家人勝家に婿入りして、名乗ることになる勝の由来を調べさせたことがあります。
そして近江坂田郡勝村(長浜勝町)だったことを知ると共に、男谷の遠祖が近江国の山上郷から、落ち武者として越後(柏崎)に土着したのもあわせて知りました。

いずれも近江の出、そして勝家、物部尾輿子孫の太郎冠者季時が勝村(長浜市勝町)に住んだことから名乗り、その子の左近時明は今川氏、孫の市郎左衛門時直は徳川氏に仕え、玉薬奉行配下同心となります。

そこに、服部半蔵正成支配の伊賀同心が加わり、戦乱に活躍しました。

つまり、伊賀同心と隠密行動をした玉薬組同心(箪笥方)でした。

時直の江戸入り以後、代々勝家は大箪笥組、玉薬同心として火薬や鉄砲玉等の製造管理する任にありながら、公儀隠密方役割をも果たしています。

居住区は、忍者拝領屋敷の多い伊賀町、忍町の東、御箪笥町でした。

こうした事どもを知ってか、明治2年(1869)冬の事、徳川慶喜が海舟の永年の労をねぎらった折りの話です。

海舟は皮肉を込めて答えます。

「…私の先祖は伊賀同心で、権現様の冬、夏両御陣とも先手組で、鉄砲持って敵に向かった、そんな二度の軍(いくさ)が済んでも矢張りり同心だ。ソコを考えればナンでもないわさ」

海舟、忍、忍んで忍者を愛おしんだ結果の、まさに義邦(ヨシクニならぬギノクニ)の、長命、艶福にてコレデオシマイの一生でした。

2015/11/10 Tue 20:08 [No.189]