杉さんぼく
本名和栗吉次郎(1822[1836?]〜1894)、墓に刻まれたように後年名乗る井汲=いくみ姓は、剣を学んだ師の備中津山藩士井汲唯一に由来します。
彼は元治元年12月18日の「倉敷-下津井屋事件」(下津井屋が米の買い占めをする不正を、大橋と云う町役人が代官所に訴えますが、まるで時代劇のように、その代官は下津井屋と結託していて、身柄を釈放し、逆に下津井屋が、大橋は不逞浪士と交流あり、と逆訴して、これに対して大橋は数人の同志と一緒に、下津井屋を襲撃して、4人を惨殺、放火した、という事件=明治2年・和栗吉次郎嘆願書)に連座して大坂に来て、ぜんざい屋(武者小路家臣)本多大内蔵に入り込みます。
ここで、「大坂に登り…共に事を謀り…来る20日を以て計画を実行すべく」(那須盛馬書簡)の、土佐藩士の大坂蜂起計画を知ることになります。
当時、獄中にあった武市瑞山の獄外書簡にも、「大坂一挙もいかが候や…只々1日も早くあれかしと祈る事に御座候…」「大坂一挙の事、頗る急務に御座候…」とありますから、確かにそうした計画はあったのでしょう。
和栗には、京の池田屋事件の事が頭にあったのかも知れません。
「谷三十郎と申す者、(大坂)八軒家に寓居罷あり、馴染みに御座候」(井汲恭平関係文書)と、早速、この件を、同郷の新選組幹部の谷三十郎に持ち込み、新選組に入隊を得ます。
入隊を期に、名を兄に因んで、谷川辰蔵と名乗りました。
そして、維新前後に井汲恭平と改名し、倉敷に帰郷しています。
維新前の無断脱国や、下津井屋事件でのその遺族の訴えに罪を問われますが、官軍兵士での軍功で不問にされました。
1894年(明治27年)1月2日、井汲恭平として黒谷に墓石を刻み京都で死去。
なぜか、墓石側面に「泉州堺」の文字、堺県の下級官吏だった由縁でしょうか、それとも何か泉州堺にまつわる縁者か何かにつながりある曰くがあるのでしょうや。
2015/09/11 Fri 10:14 [No.129]