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  1. [203] 天正10年(1582年)5月29日、織田信長は1年3ヶ月ぶりに上洛する為、安土城を発した。供廻は僅かに小姓2,30人だった。この供廻の少なさが信長の致命的な失態だったといえる。信長の旗本馬廻はこの時どうしていたか?大半は安土城のある近江国内に在住していたと思われる(人数は不明)。『信長公記』には「上洛後すぐに中国筋へ発向なされるので、出陣の用意をととのえておき、お知らせが有り次第出陣するように、と  ・・・・ >> 続き本能寺の変直前の動向 藤原改新 2015/11/29 15:47
    1. [215] 中国出陣を目前に控えていたはずの信長が、在京中に大規模な茶会を開く予定だったのではないかと言われている。上洛に合わせて、安土から大量の茶道具を本能寺に搬送させていた。右筆である楠長諳が書いた「御茶道具目録」には、38種の茶道具が記載されている。いずれも信長愛蔵の品々で、九十九茄子、珠光小茄子、万歳大海、珠光茶碗、牧谿絵、千鳥香炉など、名物逸品がそろっていた。そしてこの目録は博多商人の島井宗室に宛て  ・・・・ >> 続き本能寺の変直前の動向 2 藤原改新 2015/12/05 18:49
      1. [245] 信長が最後に上洛する8日前に嫡男の三位中将信忠も上洛している。信忠の上洛もこれが最後となった。
        では、信忠の上洛にはどのような目的があったのか?

        信忠は5月中旬、安土城での徳川家康と穴山梅雪の接待の場に同席した後、21日、家康、梅雪一行とともに京都に入った。二人は信長から京都、大坂、奈良、堺を遊覧するよう勧められており、信忠はその警固役も兼ねての同行だったと思わ  ・・・・ >> 続き
        本能寺の変直前の動向 3
        藤原改新 2016/02/08 01:40
    2. [251] 慶長8年(1603)、徳川家康が上洛の際の宿舎として造営したのが、観光客で賑わう『二条城』。

      しかし、一番最初の『二条城』は、永禄12年(1569)に、織田信長が室町幕府第15代将軍足利義昭の為に築城したもので、

      歴史上では区別の為に
      『旧二条城』とされている。
      場所は、上京区下立売通室町西南角(平安女学院の敷地内)。> 続き
      旧二条城・二条御所(二条殿)
      京都歴史研究会・代表 2016/03/11 20:40
    3. [252] 誤植がありました。

      誠仁親王の前の文章訂正します。
      関白二条晴良邸の跡地に建ったのが二条御所(別名:二条殿)です♪
      織田信忠終焉の地
      京都歴史研究会・代表 2016/03/11 20:52
      1. [258] 光秀の謀反が実は家康を討つ為だったという説が有る。光秀が軍勢を洛中の本能寺へと向かわせるにあたって、「家康を討つ為だ」と喧伝したことは、イエズス会資料や明智軍の兵士の回想『本城惣右衛門覚書』にも見えられるので、ほぼ事実だろう。しかし、これは中国へ出陣するはずなのに、反対方向の京都に向かって進軍することを兵士達に怪しまれないようにする為の偽装だったことは明らかである。又、京都に自邸や家臣の屋敷を持っ  ・・・・ >> 続き本能寺の変直前の動向4 藤原改新 2016/04/07 12:22
        1. [263] 光秀は謀反を決行するにあたり、機密保持を重視し、家老衆にも 出陣直前まで心中を明かさなかったことが『信長公記』で確認できる。だから、配下の与力大名に対しても事前に通告すらしていない。では、光秀の与力大名である丹後の細川藤孝•忠興父子と大和の筒井順慶の動向はどの様なものだったのか?

          『信長公記』巻十五によれば、5月17日、信長に家康饗応の役目を解かれた光秀が  ・・・・ >> 続き
          本能寺の変直前の動向5
          藤原改新 2016/04/25 22:25
  1. [30] 『井伊家史料 幕末風聞探索書 安政五年編』の安政五年八月 京都町奉行与力渡辺金三郎より長野主膳へ密勅降下、青蓮院宮・鷹司・三條等密議の件探索報告より、「薩州候御家来鵜澤信三」なる人物が出てきます。実は薩摩藩士 日下部伊三次の変名なのです。この人物の生涯は文化11年(1814年)、元薩摩藩士・海江田訥斎連の子として誕生。出生当時、父は脱藩して水戸藩にいたので常陸国多賀郡で生まれる。
    > 続き
    気になる人々 その1
    大ふへん物 2015/07/18 18:08
    1. [66] 金輪五郎(本名 志渡長治)諸説ある生年があり、20代後半から30代後半か。

      秋田は阿仁銀山町、真木沢鉱山の台所手代(労働者の指揮監督役)をしていた志渡家の次男として誕生。

      17〜18歳の頃、久保田の城下に出た後、渋江内膳家へ下男奉公しながら直真影流を学ぶ。
      得意手を片手横面打ちだったとした。

      身長5尺前後の短躯ながら五人力  ・・・・ >> 続き
      気になる人々 金輪五郎
      杉さんぼく 2015/07/27 22:49
      1. [67] 相楽総三について触れたい。

        というのも、学者志士相楽総三が郷学校設立を熱望していたのは全く知られていないからです。
        以下、森安彦国文学研究資料室教授の講演(1994/7/28)を参照に紹介しましょう。

        まず、ここに荏原郡(東京世田谷)に、郷学校を作った髪結い渡世の常次郎なる人物がいます。
        明治維新政府は、財源のないままに各村で寺子屋と  ・・・・ >> 続き
        気になる人々 髪結い渡世常次郎と相楽総三
        杉さんぼく 2015/07/27 22:59
        1. [72] 見廻組以外の大野應之助門人余話

          金輪五郎友行(本名 志渡長次郎1833〜1868/12/29)
          秋田藩下の阿仁銀山(阿仁合町)、真木沢鉱山の台所手代(労働者の指揮監督役)志渡平四郎の次男として誕生。
          志度氏の先が金輪で、久保田藩佐竹3人扶持の苗字帯刀を許された家柄である。

          17〜18歳の頃、久保田の城下に出た後  ・・・・ >> 続き
          気になる人々 大野応之助門下
          杉さんぼく 2015/07/28 10:54
          1. [73] 京都の人見勝太郎と共に遊撃隊として闘った隻腕の粋な幕臣剣客、伊庭八郎に触れます。

            心形刀流伊庭八郎秀穎、幕臣、元治元年徳川家茂上洛に随行、遊撃隊として鳥羽伏見の戦いで負傷し、東帰後、西軍の後方を衝く箱根の戦いで左腕を負傷、左手首を失いました。
            しかし、その身体で敵を追い払って今に名を留めその後、箱館に至り歩兵頭並として善戦しました。

            確かに、池  ・・・・ >> 続き
            気になる人々 伊庭八郎
            杉さんぼく 2015/07/28 20:49
          2. [77] 金戒光明寺の墓地に
            大野應之助の墓があり、

            一昨年探しましたね
            墓石が横たわってました

            ちなみに、河上玄斎ではなく、河上彦斎(げんさい)ですね〜
            Re: 気になる人々 大野応之助門下
            京都歴史研究会代表 2015/07/29 20:27
        2. [197] 赤報隊相楽総三に絡んだ話。

          赤報隊池田勝馬こと黒駒の勝蔵は、土佐の那須信吾と繋がりのあるのはあまり知られていないでしょう。

          それだけにまた、東海の侠客水野弥太郎や黒駒勝蔵は赤報隊の致命傷でした。

          早い時期に長谷川伸氏は、「相楽総三とその同志」以前に「伝法さむらい」を著していますが、主人公に桜井常五郎を配し、農民あがりのヤクザな赤報隊  ・・・・ >> 続き
          気になる人々 幕末博徒と相楽総三
          杉さんぼく 2015/11/14 20:23
          1. [198] そう言えば、国定の長岡忠次の忘れ形見・大谷千乗(後に刑部国次を名乗る)も赤報隊に関わっていたとかどうとか…。(小説に、山田風太郎著「旅人国定龍次」「魔群の通過」がある)

            話し変わって、岩倉卿絡みの尾張藩青松葉事件についてです。
            当時、岩倉卿の動きとはかけはなれていた位置のが三条卿。

            この方はあまりポリシーのないお公家さんで、その分早くから行動力  ・・・・ >> 続き
            気になる人々 青松葉事件と相楽総三と西郷吉之助
            杉さんぼく 2015/11/14 20:32
          2. [259] 吉井良隆宮司から、第54代良昭宮司の代になってる西宮神社吉井家の話をします。

            その傍系の吉井宮司と言えばやはり貞俊権宮司が、伊勢本街道で馴染みが深いんですが、なぜか、「良」がつくのにこの権宮司さんは貞俊と言うお名前で、残念ながら故人になられてしまいました。

            それにしても、吉井一族は皆さん健筆家です。

            西宮史話の良隆宮司以前なら、14  ・・・・ >> 続き
            気になる人々 赤報隊・飯田武郷と西宮
            杉さんぼく 2016/04/09 09:01
      2. [147] 山国隊、藤野齋と千葉重太郎について触れます。

        それは明治元年11月に始まります。

        山国隊が因州藩の属農兵隊という事で、因幡藩江戸屋敷納戸役(金銀.衣服.調度出納)千葉重太郎が、藤野齋を因州裏判所(藩財政)に周旋した間柄により、帰郷に際し、それまでの立て替え金373両の返却督促に千葉重太郎が来ました。

        今、帰郷費用を裏判所に借財申請し  ・・・・ >> 続き
        気になる人々 藤野齋と千葉重太郎
        杉さんぼく 2015/10/06 06:48
        1. [148] やがて翌7日になって、ようやく山田から、裏判所と千葉より500両を借り出す事に成功、借金清算して東京を後に出来ました。
          こうした経緯に藤野の心に残ったのは、山田のような藩官僚への不信と憤懣のなにものでもありません。
          考えれば、龍馬と土佐藩京都官僚にも似たような何らの関係があったのでは、と勘ぐれます。
          かくして出征者35人中、戦死4人病死2人他負傷の山国隊、明治元年11  ・・・・ >> 続き
          気になる人々 続・藤野齋と千葉重太郎
          杉さんぼく 2015/10/06 06:51
          1. [149] タイトルが 藤野斎でなく
            藤木斎になってます。
            誤植の訂正の仕方を知りたいですね〜。
            Re: 気になる人々 続・藤野齋と千葉重太郎
            京都歴史研究会代表 2015/10/08 16:12
            1. [160] タイトル藤木斎になって、すんまへん。

              単なる打ち間違えで深謝で…。
              誤植訂正の打ち方分かりません〜。
              Re^2: 気になる人々 続・藤野齋と千葉重太郎
              杉さんぼく 2015/10/15 20:02
    2. [74] 続いて、以下も河田左久馬関連。
      昭和43年の名著「山国隊」(仲村研著-学生社)によれば、昭和40年代の河田左久馬景與相続人は、河田須賀江さん(80歳)だったとあります。
      当時、鎌倉の鳥取藩主池田家子孫の池田家に、なぜかその家臣の子孫も同居されていた、と言うわけです。

      河田左久馬景與には、妻喜久子さんとの間に一男四女がいて、唯一の長男頼功は明治30年急逝、そ  ・・・・ >> 続き
      気になる人々 河田左久馬
      杉さんぼく 2015/07/28 20:58
      1. [75] 続いて…の項より、こちらが先でした。

        鳥取因幡の内紛事件、本圀寺事件について〜。

        文久3年8.18政変前夜の17日に本圀寺にて勤王派河田左久馬等によって、黒部側用人を襲い、別働隊は佐幕派早川、加藤他を襲撃した事件です。

        河田左久馬と言えば、龍馬つながりがありますね。

        なぜか小説的なエゾ地開拓や鬱陵島新国開拓に  ・・・・ >> 続き
        Re: 気になる人々 河田左久馬本圀寺事件
        杉さんぼく 2015/07/28 22:52
        1. [177] 天朝だ、大樹公方さまだ、と喧しいあの時代はどこの藩、家中でも、勤王佐幕の内部抗争はありました。

          しかし、水戸人は何人の人が尊王攘夷の名で、外に向かわず、内に闘いの内乱抗争で亡くなったのでしょう。

          福井は敦賀の地、1000人余りが水戸から長行したその果ての、天狗党の悲劇353人の墳墓、敦賀湾近くの松原神社には411柱が祀られていて、今も子孫探しをしている研  ・・・・ >> 続き
          気になる人々 敦賀天狗党惨殺
          杉さんぼく 2015/10/28 03:27
          1. [178] 長行の果てに頼る慶喜公は、元冶元年12月17日に禁裏総督として間近の近江海津まで出張っていました。
            天狗党を討つべし、と手柄に逸るその弟昭徳(昭武)も来て布陣します。

            結局、事が済むや慶喜公は「この際の処置決まり安心に候」と書いたりもしていますから、自分の立場にほっとしたのでしょう。

            或いは皮肉な事に、以下のような逸話もあります。
            <  ・・・・ >> 続き
            気になる人々 続・敦賀天狗党惨殺
            杉さんぼく 2015/10/28 03:34
            1. [179] 天狗党死の長行路(出発時は1000余人が800数余人になり、この中の500人余りは水戸郷校で学んだ若者農民たちだった)で、揖斐根尾川へ向かう途路に、西郷吉之助使者として中村半次郎が来て、本道を西に進んで慶喜公に降伏すれば…と勧めているのは、西郷の意見か薩摩の意見かは計りかねる点は否めず、寺田屋事件の前例があるだけに、この点に疑問も残ります。

              大久保同様に、前述したように西郷も  ・・・・ >> 続き
              気になる人々 続々・敦賀天狗党惨殺
              杉さんぼく 2015/10/28 03:37
              1. [180] 敦賀市水戸烈士遺徳顕彰会は、小学生向け解説の小冊子まで無料で作られて顕彰していますね。

                ましてや、敦賀と水戸はなんのゆかりもなしなのに。

                観光ばかりに先行する京都の殿様観光では、ここまではしません。

                もう少し、他県人の供養顕彰に力を注いで欲しいと思わざるを得ません。

                この例では、東吉野の天忠(誅)組遺跡、墳墓も  ・・・・ >> 続き
                気になる人々 続々々・敦賀天狗党惨殺
                杉さんぼく 2015/10/28 03:48
                1. [181] 武田耕雲齋辞世

                  討つもはた
                  討たるるもはた 哀れなり
                  同じ日本の 乱れと思へば

                  咲く梅の
                  花ははかなく 散るとても
                  馨りは君が 袖にうつらん

                  という武田耕雲齋の和歌にちなんだのか、水戸から運ばれた水戸紅梅が多数植樹されています。

                  武田耕雲齋の孫に当たる武田金次郎、まだ年少  ・・・・ >> 続き
                  気になる人々 続々々々・敦賀天狗党惨殺
                  杉さんぼく 2015/10/28 03:52
      2. [172] 田中河内介父子に対し、科人‐とがにんと云う烙印を押された―、との認識で言われる方がいます。

        しかしながら、これは正しくなく、ましてや科人(咎人)ではないのではありません。

        柿本人麻呂のいろは歌ではありませんが、やはりは罪科=とがなくて死すと思われます。

        同じ例に、長州人による中山忠光卿惨殺事件があります。

        中山  ・・・・ >> 続き
        気になる人々 田中河内介父子
        杉さんぼく 2015/10/21 13:04
    3. [128] 小栗忠順について〜
      幕末維新の短い期間に任免を70数回繰り返した小栗の、後世に残した事業に有名な横須賀製鉄所(横須賀造船所)があります。
      この製鉄所建設に関して、小栗は慶応元年、推進派の外国奉行柴田日向守を仏に派遣し、資器材、要員、生糸販売等の専売機関となるコンパニー創設の方法協議に着手、柴田報告をもとに「交易商社」コンパニーの建設書を幕府に提出しました。
      順調にいけ  ・・・・ >> 続き
      気になる人々 小栗忠順
      杉さんぼく 2015/09/11 10:11
      1. [189] 服部半蔵、いうまでもなく武将忍者であるのは、誰しもに知られています。

        その墓が東京の四谷西念寺にあり、墓維持に窮した時の事。

        そこで勝海舟が相談を受けた(明治16年月26日)関連の記述が、海舟日記にあります。

        …梶田(政光)、服部半蔵へ三円遣わす…(3月14日)

        海舟と服部半蔵、どう繋がるんでしょうね。
        > 続き
        気になる人々 勝海舟忍者群屋敷に住む
        杉さんぼく 2015/11/10 20:08
        1. [190] 龍馬の本家になる才谷屋文書(六代直益順水日記)の記述に、日下茂兵衛と言う土佐のネズミ小僧なる、享保の頃の怪盗の事が記されています。

          本当にいたのだろうか、と伝説説、実在説の論議がある中、才谷屋文書に実在説の記載があったのです。

          享保六年九月四日夜、蓮池町牢舎の罪人日下茂兵衛といふもの、相牢の者の銀を盗み取り、牢をぬけ欠け落ち仕る…。

          > 続き
          気になる人々 土佐の忍び小僧・日下茂兵衛
          杉さんぼく 2015/11/10 20:26
    4. [129] 本名和栗吉次郎(1822[1836?]〜1894)、墓に刻まれたように後年名乗る井汲=いくみ姓は、剣を学んだ師の備中津山藩士井汲唯一に由来します。

      彼は元治元年12月18日の「倉敷-下津井屋事件」(下津井屋が米の買い占めをする不正を、大橋と云う町役人が代官所に訴えますが、まるで時代劇のように、その代官は下津井屋と結託していて、身柄を釈放し、逆に下津井屋が、大橋は不逞浪士と交流  ・・・・ >> 続き
      気になる人々 新選組隊士-井汲恭平
      杉さんぼく 2015/09/11 10:14
      1. [161] 人斬り以蔵、誰が言い出したか。

        幕末維新での同時代資料には、人斬り半次郎とか、人斬り新兵衛、そしての人斬り以蔵…、結局は、維新後に語られ創られた呼称でしょう。

        そんなひとりに明治を迎えた人斬りに河上彦齋がいます。
        人斬り彦齋?、俺は人斬りか、人斬りと言われるほど人を斬った事などないぞ、と言ったとか。
        この例は、半次郎、桐野利秋も同様で  ・・・・ >> 続き
        気になる人々 岡田以蔵
        杉さんぼく 2015/10/15 20:40
        1. [162] 大塩事件に触れます。

          天保8年2月19日(1837年3月25日土)の朝、自らの屋敷に火を放って、大坂町奉行与力大塩平八郎中齋が救民救済の為に決起しました。
          大塩平八郎の乱として世に伝わる、明治維新より30年前の事です。

          幕末維新を語る時、その始まりをこの@大塩平八郎の事件と見るか、或いはAペリー来航と見るかの評価が分かれます。
          > 続き
          気になる人々 大塩平八郎
          杉さんぼく 2015/10/16 04:33
          1. [163] その一例に清河八郎の話をします。
            この清河八郎が安政2年、母親他を伴って京都を始め伊勢や金毘羅、岩国等を廻った日記「西遊草」を残しています。
            むろん大坂にも泊っています。
            しかし、清河八郎なら大塩平八郎事件に興味持ちそうと思うのに、各地では旧跡に興味を示しながらも大塩事件遺跡には全く触れていません。
            「心斎橋通は大坂第一にぎはひの町にて、夜店のにぎはひをびた  ・・・・ >> 続き
            気になる人々 続-大塩平八郎〜清河八郎
            杉さんぼく 2015/10/16 04:46
            1. [164] 幕末期に活躍して人気を博した歌舞伎俳優(ワザヒト)に、三代目中村仲蔵(1809〜1886)が書き残した一代記・手前味噌(日本演劇文献研究会編1944/青蛙書房1969復刊)があります。

              それによるとこの仲蔵さん、景気が悪い上に大塩事件でよりいっそう景気が悪くなった大坂の町に、活気と景気を盛り上げようと、役者たちによる盆踊りを挙行して成功した、と書いています。
              > 続き
              気になる人々 続-大塩平八郎〜三代目中村仲蔵
              杉さんぼく 2015/10/16 04:49
              1. [165] 天明5年(1834)、大坂の医者らしい穿鑿好きの好事家が書いた「浮き世の有り様」全13巻(日本庶民生活史料集成J巻/1970/三一書房)の中で、大塩平八郎の乱に関しては、天保8年雑記6〜8巻に記載があり、かなりの記述が割かれています。

                今でいえば、大した取材力の筆走りです。

                第6巻には瓦版の写しがかなりの枚数を費やしていますから、瓦版はずいぶん出たのかも  ・・・・ >> 続き
                気になる人々 続-大塩平八郎〜浮き世の有り様
                杉さんぼく 2015/10/16 04:55
        2. [205] 高知の北東は薊野真宗寺山にある岡田家墓地に、岡田宜振(タカノブ)とあるのが以蔵の墓です。(あの有名な沢田マンションの横からも登れた)

          仲人まがいの世話好き好人物だった、とされる父義平の代に高知に出てきたようで、その以前は岡田家の墓もある神通寺村(香美市)に住んでいました。(未見)
          いわゆる、黒岩某から郷士株を買った譲受(ゆずりうけ)郷士でした。

          > 続き
          気になる人々 岡田宜振(以蔵の弟)
          杉さんぼく 2015/12/01 08:36
  1. [254] @織田信雄

     信長の次男、織田 信雄
    (のぶかつ:1558〜1630)
    母は生駒吉乃(生駒家宗の娘)。生駒屋敷にて生まれた。
    大和宇陀松山藩の初代藩主。

    初め、伊勢北畠家の養子に入り、第10代当主として具豊(ともとよ)、信意(のぶおき)を名乗り、御本所と敬称された。
    (最終的に北畠家を掌握した)

    > 続き
    織田信長の関係者たち
    京都歴史研究会・代表 2016/04/02 12:00
    1. [255] @織田信雄続き、
      そして織田同士は戦わないようした。
       大坂の陣のとき、信包は死没していたが、信雄は先に片桐且元の殺害計画があることを本人に知らせ大坂を脱出させ、徳川に大坂の内情を知らせ、自らも脱出した。

       信雄の戦功から(家康の織田家を存続させる温情か)、元和元年(1615)、上野国甘楽郡(かんらぐん,群馬県)に2万石・大和国宇陀郡に3万石の  ・・・・ >> 続き
      Re: 織田信長の関係者たち
      京都歴史研究会・代表 2016/04/02 12:03
      1. [256] @織田信雄…続々…
        上野国小幡藩では養蚕など事業に務め、楽山園を造園(現代でも名園として知られる)。江戸後期、養蚕事業は地域の一大地場産業となり、明治期の富岡製糸場へと繋がっていく。

        安土城近くの桑實寺は天智天皇の時代に建立され、養蚕が行われていた。信雄はそれを見て思いついた感がある。

        やがて領地を子供らに分け与え、晩年は京都に移り  ・・・・ >> 続き
        Re^2: 織田信長の関係者たち
        京都歴史研究会・代表 2016/04/02 12:07
      2. [257] @織田信雄ラスト、

        ◆信雄系列⇒上野小幡藩、宇陀松山藩、山形天童藩
        ◆有楽斎系列⇒戒重(かいじゅう)藩、後に岩田藩、芝村藩と改称、柳本藩
        ◆信包(のぶかね)系列⇒(丹波氷上郡の柏原藩)

        信雄の五男:高長(たかなが)が、宇陀松山藩の第2代藩主。高長系織田家初代となり。

        三男:信良が信雄の所領の一部、上野国で甘楽,多  ・・・・ >> 続き
        Re^2: 織田信長の関係者たち
        京都歴史研究会・代表 2016/04/02 12:15
  1. [246] 3月歴史講演会のご案内

    ◆日時:平成28年3月20日(日)
        13時〜16時30分

    ◆会場:河原町五条下ル
        ひとまち交流館 京都     2階第1会議室

    ◆入場無料、予約無し先着30名

    ◆演目:寺田屋騒動と
        田中河内介の悲劇
    二部構成、
    ◆  ・・・・ >> 続き
    3月歴史講演会のご案内
    京都歴史研究会・代表 2016/02/26 16:22
    1. [253] マイナーな話しながら、京都歴史研究会の3月20日はおかげさまで盛況、会場定員30人部屋が予定オーバーした36人例会となりましたね。

      32部の資料が行き渡らずで、それでも参加者の皆さん、知らなかった、勉強になった、と喜んで下さり、数名の会員入会もあったよし、重畳です。

      何よりも、嬉しかったの田中河内介の分家で、田中河内介父子のような陶芸家壽寶・綏寶親子さん  ・・・・ >> 続き
      3月歴史講演会は大盛況でしたね!
      杉さんぼく 2016/03/25 00:01
  1. [250] 昭和2年の回天志士墨寶(森田金藏)にある薩摩中島治部なる人物が判らないので、気になってます。

    中島治部通行券
    辰九月三日
    京都發足越後新發田城迄通行

    兵部卿宮附屬
    薩摩藩
    中島治部家来壹人

    なかなか珍しく面白い資料です。
    気になる人ですが判らない
    杉さんぼく 2016/03/09 12:21
  1. [125] 太宰治が坂本龍馬に触れた話があります。

    ある友人が突然太宰を訪ねて来た時の事を後に振り返って太宰が言った次の一言。

    「あの時は坂本龍馬でも来たのかと思ったよ」

    この友人を義母に紹介した折りも次の様に言う。

    「僕たちは明治維新の志士くらいの気概はあるんですからね、オッ母サン。坂本龍馬や高杉晋作だってこんなものです  ・・・・ >> 続き
    龍馬余談
    杉さんぼく 2015/09/11 09:56
    1. [126] 30年以上前の11月15日昼のTV「おもいきりテレビ」での放送、「今日は何の日」を記憶されている方はおられるだろうか。

      この日は龍馬暗殺デーだったから、昭和初期の坂東妻三郎主演「坂本龍馬」からの暗殺場面ラストシーンが流されました。

      この感想をみのもんた司会者が、ゲストコメンテーターの實吉達郎氏(広島出身の動物学者)にコメントを求めました。
      > 続き
      龍馬惨殺秘話余談
      杉さんぼく 2015/09/11 09:58
      1. [127] 土佐藩内抗争についての鳥取藩慶応丁卯雑記資料(慶応3年11月23日挙記-東大資料編纂所)を紹介しておきます。
        これにより、倒幕までの藩論統一までいってない事がうかがえます。

        「元来、土藩ノ内探索候処、藩士相分レ一途ハ白川組諸浪士相集リ頻リニ暴論の徒ノミ建論増長ニテ、今一途ハ後藤象次郎同意周旋ノ徒ハ、右暴論ノ徒ヲ取鎮メ居候由……梅太郎先月上旬頃、土州ヘ帰入致居候処、北  ・・・・ >> 続き
        龍馬惨殺余談
        杉さんぼく 2015/09/11 10:03
        1. [146] 東大維新資料編纂所の資料に、鳥取藩丁卯筆記と云うリアルタイムな探索方記述があります。

          「…右三人の死骸、神道の式をもって…高台寺の南隣、国阿上人の旧跡霊山山内、村上歳太郎請け持ちの山地に埋葬に相成り、右山地埋葬の場所へ続きをもって一見仕り候ところ…檜木五寸角くらいの標木、長さ五尺くらい三本建て並べこれあり…坂本龍馬紀直柔神霊、裏に慶応三年丁卯十一月十六日神去三十三才とあい記し  ・・・・ >> 続き
          龍馬奥津城余談
          杉さんぼく 2015/10/06 06:37
          1. [191] 龍馬さんの兵法目録が、おまさんらぁ、それが行方不明なのを知っちゅうか…とテレビ局に掛かって来た電話から、FNS大賞ノミネートされたテレビ番組が、2002年10月(高知は7月)に放送されました。

            高知から出た今回の発見ニュース(2015年11月)、やっと世に出てきたか、と言うところです。

            指定暴力団会長(当時)を尊敬しているという○氏が、竹中清水氏から中内  ・・・・ >> 続き
            消えた龍馬兵法目録13年振りに出現!
            杉さんぼく 2015/11/10 21:13
            1. [234] 2002年10月(高知は7月)に放送されて以来、行方知れずの龍馬兵法目録。

              広域指定暴力団会長(故人)を尊敬しているという○氏が、桂浜龍馬会なる架空団体名で桂浜の闘犬センター(現在はない)に展示していたのを、龍馬生誕150年の折りでしたかに確かに見ました。

              結局、そのいきさつがTVに出た以上世に出せず、金策に困って内々に売却したのかも知れません。
              > 続き
              桂浜馬龍馬会として龍馬兵法目録を持っていた〇氏は故人になっていた!
              杉さんぼく 2016/01/07 00:45
        2. [207] 実録・維新十傑「坂本龍馬-中岡慎太郎」(昭和10年平凡社)を書いた、講談師として名を馳せた伊藤仁太郎痴遊が、昭和2年2月4日に東京放送局で放送した「龍馬の死」で、龍馬暗殺者として、十津川浪士・山田五郎右衛門の名前をあげています。(同書)

          はて…。

          伊藤痴遊ほど維新資料を集め、読み込んでいる人はいないだけに、この名前はどこから来たのでしょう。
          <  ・・・・ >> 続き
          龍馬惨殺 伊藤痴遊談
          杉さんぼく 2015/12/02 22:12
          1. [208] また、以下のような話もあります。

            痴遊氏が龍馬暗殺遭難について新聞に書いたら、浜松の代議士候補にもあがる中村四郎兵衛という人の書簡から、元新選組隊士の話を紹介しています。

            …小生知己に永田克忠と申人有之…、同氏も新選組の一人にて、病気の為、刺客に加わらず候へ共、全く坂本暗殺者は今井信郎、渡辺一郎、高木啓次郎三人に相違無之、今井は祿七俵の所、右功により六百  ・・・・ >> 続き
            龍馬惨殺 伊藤痴遊余談
            杉さんぼく 2015/12/02 22:26
        3. [211] 龍馬惨殺day
          慶応3年(1867)★11月15日
          (新暦1867☆12月10日)

          平成27年(2015)(☆11月15日★旧10/4)
          (★11/15→旧暦★12/25)
          (☆12/10→☆10/29)

          平成28年(2016)(☆11月15日★旧12/13)
          (★11/15→旧暦★12/13)
          > 続き
          龍馬惨殺日の新旧暦(平成27年〜30年)
          杉さんぼく 2015/12/03 06:19
          1. [212] 龍馬惨殺day
            慶応3年11月15日(新暦1867年12月10日)

            この日、1867年12月10日(慶応3年11月15日)の月

            新月 13日 17時 42分
            半月(上弦) 20日 14時 19分
            満月 28日 19時 21分
            半月(下弦) 7日 0時 32分

            龍馬惨殺日の夜は、下弦か  ・・・・ >> 続き
            龍馬惨殺日は満月だったか?
            杉さんぼく 2015/12/03 06:54
      2. [214] 龍馬惨殺本のお薦めには、「龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた」(中島信文著-彩流社刊2012)です。

        曰わく「暗殺通説は、事件現場にいなかった土佐藩要人ら一部関係者による証言から事件後出来上がっており、…全て、土佐藩の武士が関係、関与しないと近江屋事件は無理がある」として、実によく調べています。

        「龍馬を殺したるは実弟只三郎なり」と、実兄・手代木勝任が  ・・・・ >> 続き
        龍馬惨殺のお薦め本
        杉さんぼく 2015/12/03 07:11
        1. [239] 龍馬の本家になる才谷屋文書(六代直益順水日記)の記述に、日下茂兵衛と言う土佐のネズミ小僧なる、享保の頃の怪盗の事が記されています。

          本当にいたのだろうか、と伝説説、実在説の論議がある中、才谷屋文書に実在説の記載があったのです。

          享保六年九月四日夜、蓮池町牢舎の罪人日下茂兵衛といふもの、相牢の者の銀を盗み取り、牢をぬけ欠け落ち仕る…。

          > 続き
          才谷屋順水日記余話(龍馬の本家)
          杉さんぼく 2016/01/20 06:43
    2. [243] 数日前の朝日新聞「教えて」欄で、「建立」(こんりゅう)の読みについて、鈴木明雄企画委員が答えていました。
      身近に、他の読みでは「立=りゅう」の読みは見当たらない、と。
      しかし、坂本龍馬を立馬と読む例のあるのが龍馬関係者なら、知られています。

      新選組隊士で、後に高台寺党として分離した服部武雄こと三郎兵衛良章36歳が、慶応3年11月19日(1867)新選組との  ・・・・ >> 続き
      建立の読みに寄す〜立馬余談
      杉さんぼく 2016/02/02 14:47
      1. [244] お龍さんは、

        おりゅうさん でしたか?
        Re: 建立の読みに寄す〜立馬余談
        京都歴史研究会・代表 2016/02/05 22:19
        1. [247] お龍さんは、お良でしょう。
          龍馬自身が同じじゃなあと、手紙で言ってますね

          よってお龍の読みを「おたつ」と読んだか書いてある若きお龍写真は、疑問符が付きます。
          お立とは言わずお良ですね。
          さんぼく 2016/03/01 17:22
  1. [240] ◆1月23日(土)15:00〜17:30

    京都大学人文科学研究所
    本館1Fセミナー室1にて
    ◇近世後期における水戸藩の儒教儀礼―[喪祭儀略]と[喪祭式]を中心に―

    ◇報告者:田 世民
    (淡江大学副教授、京都大学人文科学研究所招聘准教授)
    の講演会を聴講してきた!

    中国や朝鮮でも、時代につれて仏  ・・・・ >> 続き
    水戸光圀が薦めた儒教の葬儀
    京都歴史研究会・代表 2016/01/30 22:24
    1. [241] 寛文2年(1662)、歴代藩主を祀る『祠堂』(家廟)を水戸城内に建てて、儒式祭祀を始めた。

      光圀は寛文6年(1666)家礼に基づく喪祭儀礼を解説した『喪祭儀略』を和文で撰述させ、藩士らの墳墓を坂戸と常磐に授け、自葬儀祭を勧めた

      これは光圀が権力者だから出来たことかも知れない

      そして喪祭  ・・・・ >> 続き
      続き…水戸光圀が薦めた儒教の葬儀
      京都歴史研究会・代表 2016/01/30 22:26
    2. [242] 【感想】
      今まで私は、仏式の考え方で墓参りをしていて、神道や儒教の墓の形やしきたりが分かっていなかったので、少しは理解出来て、勉強になった。

      講演後の懇親会に 急に参加させて頂き、和やかな中にも教授の皆様のお話を 真横で聴くことが出来て、それも貴重な体験になった。

      その上、ほとんど夕食はご馳走になり恐縮した。

        ・・・・ >> 続き
      Re:講演会感想
      京都歴史研究会・代表 2016/01/30 22:29
  1. [238] 蠣崎波響は松前12代松前資広の五男に生まれる。13代の道広は異母兄。母は松前藩家臣長倉長左衛門貞義の娘・勘子。家老職を継いだ長男波鶩(広伴)も画家として知られる。なお、幕末期の家老であった下国崇教も一時期波響の養子であったことがある。

    生まれた翌年に父が亡くなり、兄道広が跡を継いだため、家禄五百石の家老蠣崎家の養子になる。幼い頃から画を好み、8歳の頃馬場で馬術の練習を見て、馬  ・・・・ >> 続き
    蠣崎波響 危機を救った画家家老
    藤原改新 2016/01/17 10:02
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