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  1. [7] 甲子(カッシ・きのえね) 文化元年(1804)
    乙丑(イッチュウ・きのとうし)2年(1805)
    丙寅(ヘイイン・ひのえとら) 3年(1806)
    丁卯(テイボウ・ひのとう)  4年(1807)
    戊辰(ボシン・つちのえたつ) 5年(1808)
    己巳(キシ・つちのとみ)    6年(1809)
    庚午(コウゴ・かのえうま)  7年(1810)> 続き
    十干十二支組み合わせ・・・ 幕末 60還支
    木曽 武 2015/07/14 17:31
    1. [102] お墓には必ず、十干十二支で掘られてますから、石が語り伝える、時代、歴史の確かなる証拠ですね。

      今、これは教えられているのでしょうか。
      (たまに、石屋さんの日付の彫り間違いはありますけど、さすがに十干十二支はあまり間違いはすくないようです)

      面白いことに、地方に行くとその地にしかない私年号が掘られていたりもします。
      十干十二支組み合わせ
      奥津希多世ママ 2015/08/24 17:47
      1. [210] 龍馬惨殺day
        慶応3年(1867)★11月15日
        (新暦1867☆12月10日)

        平成27年(2015)(☆11月15日★旧10/4)
        (★11/15→旧暦★12/25)
        (☆12/10→☆10/29)

        平成28年(2016)(☆11月15日★旧12/13)
        (★11/15→旧暦★12/13)
        > 続き
        龍馬惨殺新旧暦(2015〜2018)
        杉さんぼく 2015/12/03 06:16
        1. [213] 龍馬惨殺day
          慶応3年11月15日(新暦1867年12月10日)

          この日、1867年12月10日(慶応3年11月15日)の月

          新月 13日 17時 42分
          半月(上弦) 20日 14時 19分
          満月 28日 19時 21分
          半月(下弦) 7日 0時 32分

          龍馬惨殺日の夜は、下弦か  ・・・・ >> 続き
          龍馬惨殺、慶応3年11月15日の夜は〜
          杉さんぼく 2015/12/03 06:57
  1. [199] 「京都維新史蹟」
    昭和3年11月3日
    京都市教育会会長 土岐嘉平発行 の18Pに
    西郷南洲遺墨として、間違えて雲濱さんのものであろう書の写真が掲載されていたのを、「発見」では無く見つけた。

    携帯デンワの方には大きくて見えないかも… ですが。
    縮小して掲げても、原寸になってしまって。
    間違えてる・・・
    木曾 武 2015/11/26 13:54 *
    1. [202] 確かに
      雲浜と書いてありますね。

      こんなに分かりやすい雲浜の文字。何で間違えたのでしょうか?

      聴く術(すべ)もないですけどね
      Re: 間違えてる・・・
      京都歴史研究会代表 2015/11/29 01:52
    2. [204] 京都市教育会編の「維新史蹟」(昭和11年-都日報社)所載の11頁には、雲濱遺墨とありました。
      「不存憂世志
          何用読書功」

      この「維新史蹟」編集には、中川忠三郎氏や寺井萬次郎氏、林岸造氏、西川太次郎氏、中川清逸氏などの名前が見えますから、雲濱であるのは間違いないなく、西郷筆に似ているようで似ていません。
      間違い確認しました・・・
      杉さんぼく 2015/11/30 20:18
    3. [206] 梅田先生にお伺い」した処、返信を頂きました。

      昭和八年 有明堂書店
        「梅田雲浜先生」
          内田周平・佐伯仲蔵共述

      に、この写真が掲載されていると言う事です。

      また、杉氏よりも返信を頂きました。

      昭和11年-都日報社
        京都市教育会編「維新史蹟」
          11頁で  ・・・・ >> 続き
      Re: 間違えてる・・・
      木曾 武 2015/12/01 08:51
      1. [209] そうかも知れません。

        改めて、訂正刊行したんですね。

        昭和6年頃からの陸軍クーデター未遂事件から、陸軍皇道派・統制派対立激化から迎えた、昭和維新の象徴的な昭和11年2'26事件に刊行されたのも関係なくもないのかも知れません。
        間違えて後・・・
        杉さんぼく 2015/12/03 00:19
  1. [9] 歴史は現代の生き物
    杉さんぼく

    京都の町はどの時代をとっても、その歴史には趣がある。
    わけても、誰かが主役になり誰かが脇役になり事件が起こって、闇に蠢く幕末維新の京舞台は、心ときめく面白さがあり、ドラマチックですらあるのは否めない。

    例えば、「このたび、六月五日夜、洛陽動乱の一条」と、新選組局長近藤勇が書いた元治元年の、三条旅宿池田屋  ・・・・ >> 続き
    歴史は現代の生き物
    杉さんぼく 2015/07/15 18:33
    1. [79] 石高の単純な計算を記せば、現在、仮にコシヒカリなりを5kg2880円としたら、1kg576円です。
      1升は1.4kgですから、これに576円を掛けると806円40銭になります。
      806円をわかりやすく800円として、100升は10斗で1石、1両、銀60匁ですから、100升掛ける800円となり80000円(8万円)になる訳です。

      銀60匁=銭4000文が8万  ・・・・ >> 続き
      石高でいくら
      杉さんぼく 2015/07/31 17:59
    2. [90] そうですね、ここに知られざる歴史は現代の遺跡を紹介します。

      大阪石橋の阪大総合博物館裏手の待兼山に、忘れ去られた駐蹕碑(天皇行幸啓)が建っています。

      今上陛下行幸記念碑です。
      そう言えば、昨年(2014)の6月25日に、この阪大総合博物館の緒方洪庵資料をご覧に、天皇皇后両陛下が来られました。

      昭和4年に昭和天皇は大阪に来ら  ・・・・ >> 続き
      歴史は現代、現代は歴史の忘れられた遺跡
      奥津希多世ママ 2015/08/11 12:25
      1. [93] 西郷頼母の家族自刃で、西郷家口伝に、介錯は薩摩の中島信行(実は土佐だが)と通説にありますが、当時、中島作太郎信行は会津には行っていない、それは中島茶太郎の間違いだろう、と土佐の史家平尾道雄が論を唱えました。
        ところが、、西郷家口伝に薩摩とある中島信行、実はこれは薩摩の「川島信行」が正しかったんですね。
        活字、誤写で「川」「中」にデフォルメ喧伝された訳です。
        この川島信  ・・・・ >> 続き
        歴史語り
        杉さんぼく 2015/08/14 05:55
        1. [173] 弱腰の日本を見くびって韓国が実効支配する竹島、竹が生えるから竹島でもありませんが、語源的には、タキ・タケなどは、急峻な地形を意味するそうで、ようは竹というのは当て字なんだとか。

          どうやら昔、日本では鬱陵島を竹島と呼び、現在の竹島は松島と呼んでいたらしく、なぜ松島のままではなかったのかはわかりません。

          この、竹島/独島問題の一因は、こんにち韓国領として確定  ・・・・ >> 続き
          歴史語り・竹島
          杉さんぼく 2015/10/22 17:49
          1. [174] 日本について知識のあったシーボルトは、朝鮮半島と日本の間に竹島と松島という2つの島があって、日本に近い島が「松島」、朝鮮半島に近い島が「竹島」であることを知っており、その著『日本』において、当時の欧米の地図に表記されていた朝鮮半島寄りの「アルゴノート島」に「竹島」、もう一方の「ダジュレー島」に「松島」の名を当てたのです(大熊良一著『竹島史稿』原書房1968)。

            現在、竹島=独  ・・・・ >> 続き
            歴史語り・続・竹島
            杉さんぼく 2015/10/22 17:51
            1. [175] 幕府の鳥取藩への、元禄9年1月28日(正月廿八日)[西暦1696年3月1日]付老中の連署布達
              「向後 竹島へ渡航之儀 制禁 可申付旨 被仰出之候間」因幡鳥取藩藩主池田綱清(松平伯耆守)宛で、竹島(=現鬱陵島)渡航禁止を通告しています。

              幕府の見解は、竹島(=現鬱陵島)には、我が国の命により日本人の竹島(=鬱陵島)への出漁を禁じたことを知らせました。
              > 続き
              歴史語り・続々・竹島
              杉さんぼく 2015/10/22 19:07
              1. [176] 吉田松陰が処刑された翌年の万延元(1860)年7月2日に、桂小五郎と村田蔵六が連名で幕府に提出した「竹島開拓建言書草案」は、松下村塾の竹島開拓論の集大成といって良いかもわかりません。

                まず開拓の必要について。

                竹島は長門国萩より東北の海上約50里にあって、朝鮮から竹島までも約50里なのでほぼ等間隔にある事。

                最近外国船が竹島周辺に出  ・・・・ >> 続き
                歴史語り・続々々・竹島
                杉さんぼく 2015/10/23 06:47 *
      2. [200] 西宮神社吉井良隆宮司から、今は第554代良昭宮司になってるんですね。
        その傍系の吉井宮司と言えば貞俊権宮司が、伊勢本街道で馴染みが深いんですが、なぜか、「良」がつくのにこの権宮司さんは貞俊と言うお名前で、残念ながら故人になられてしまいました。

        吉井一族は皆さん健筆家です。

        西宮史話の良隆宮司以前に、14歳から国書神典を父良幹に受けた影響からか、  ・・・・ >> 続き
        歴史は現代、西宮宮司さん
        奥津希多世ママ 2015/11/27 05:11
        1. [201] 国書神典の系譜吉井良秀にの遺稿「樟園余影」(昭和15年)が、信州の国学者飯田武郷の門人だったんですか。

          確かに、飯田武郷は信州に多くの系譜流布する平田国学の第一人者で、相楽総三の首を奪って埋めた、とされています。

          なるほど、なるほど。
          西宮神社宮司さん?
          杉さんぼく 2015/11/27 06:52
  1. [195] ★京都市北区大徳寺の周辺・・
    紫野(むらさきの)や北西の紫竹(しちく)は、

    源義朝の別邸があって、常盤御前が住んでいたという伝承により、源義経や母常盤御前ゆかりの史跡が多い

    船岡山の東麓(北大路通から三筋目)西に、建勲北中通り、

    北区紫野下築山町に・・・
    『常槃井(と  ・・・・ >> 続き
    衣懸塚(きぬかけづか)@
    京都歴史研究会代表 2015/11/13 08:10
    1. [196] さて現在、周囲は廃材置き場のような少し不気味な雰囲気で、「築山之墓地」[正徳□年 利栄信女 三月十五日]と刻まれた石碑(墓)や、五輪塔の残欠石が置かれている。

      江戸時代の文化年間(1804〜1817)の天皇陵調査では、

      この塚は、後朱雀天皇・堀河天皇・二条天皇の三人の天皇陵の候補地とされ、

      『文化山陵図』にも、この塚は描かれていて、  ・・・・ >> 続き
      衣懸塚(きぬかけづか)A
      京都歴史研究会代表 2015/11/13 08:15
  1. [153] 以下、三条旅宿改め池田屋事件余談です。

    同時代史料で捕縛メンバーからの裏付けはありませんから、池田屋事件騒動は冤罪だったかも…、というのはあながち間違いではないかも知れませんね。

    ここに、京都知事だった北垣國道(晋太郎)の日記「塵海」があります。

    その明治32年1月24日の条に、北垣國道は以下の様に記しました。
    1月21日  ・・・・ >> 続き
    新撰組余談
    杉さんぼく 2015/10/14 12:26
    1. [154] 資料
      元冶元年6月6日・池田屋事件の町奉行引き渡し

      大鷹屋忠兵衛 42歳
      西川耕蔵 42歳
      松村重助 43歳
      瀬尾幸十郎 31歳
      大中主膳 16歳
      澤井帯刀 23歳
      入江彦助 37歳
      官藤主水 33歳
      森主計 18歳
      内田太郎右衛門 22歳
      佐藤一郎 31歳
      > 続き
      新撰組余談資料
      杉さんぼく 2015/10/14 12:29
      1. [155] ★大国家文書(風聞書留)
        6月5日昨昼後.四条真町江向ケ壬生浪士様之者八人下部三人罷越.枡屋喜右衛門方ニ而土蔵ニ有之候左之品-武着類.興桑方壱ツ.桃成形壱ツ.鎧弐ツ.陣笠取合五ツ計。

        ★若杉家日記6月5日壬生浪士乱謀もの召取相成.アレコレト怪我人者多分切殺候也。

        京都の資料「人のうわさ」(京都総合資料館蔵)によれば、古高俊太郎から押  ・・・・ >> 続き
        続・新撰組余談資料
        杉さんぼく 2015/10/14 12:33
        1. [156] 資料=新撰組油小路事件の死体検案書

          一、藤堂平助(南部弥七郎)弐拾八、九才位
          疵所両足、横腹弐ケ所。
          面上鼻より口へ掛(け)深さ二寸程、長さ七寸斗り、刀を握り候儘果て。

          一、同所辻北東手に倒れ果て居り候ものは、三宅安兵衛(服部武雄)三拾才位
          疵所背中数ヶ所、これは倒れ候ところを散々に切り付け候趣にて、疵の数分からず。
          > 続き
          新撰組余談資料(鳥取藩風聞録)
          杉さんぼく 2015/10/14 12:47
    2. [157] 自分の本籍は 大仏南門前です(笑)Re: 新撰組余談 全く別の話ですが・・・ 2015/10/14 20:32
    3. [158] 丹羽出雲守 31歳
      川勝寛治 35歳
      河村能登守 45歳
      吉川兼治 39歳
      らは、伏見で捉えられたと聞きます。
      池田屋事変とは関係の無い、殉難者ですね。
      Re: 新撰組余談
      全く別の話ですが・・・ 2015/10/14 20:37
      1. [159] ですね。

        結局は、浪士並びに勤王方取締の事件だったんでしょうか。

        近藤局長は「洛陽の騒動」と確か書簡で記していますし、六角獄舎の村井正禮は「三条逆旅」と言って累史を残しました。

        総合資料館資料「人のうわさ」は、やはり風聞だけにその辺りに触れています。

        従って、三条池田屋だけの話ではありません。
        Re^2: 新撰組余談
        杉さんぼく 2015/10/15 00:17
        1. [167] 井上泰助が井上源三郎の首を埋めた余話。

          日野に現在、誠の文字とともに、○に井の字をいただく土蔵の井上記念館(五代目井上雅雄館長)があります。
          その井上家に口伝として伝わる話です。

          30年位前はまだ日野には、御一新の時は…と云うより、瓦解の時は…と云う古老が少なくなかったと、日野の郷土史家・谷春雄先生が語られ、また以下のように指摘されてました。<  ・・・・ >> 続き
          新撰組余談-源さんの首
          杉さんぼく 2015/10/19 07:58
          1. [170] 鳥羽伏見戦で、江戸に帰って「源三郎おじさんは伏見戦で討死なされた…」と、井上家に書簡をあてて伝えていますから、しっかりしたものです。(戦前まで現存していたが、現在紛失で行方不明)

            「とかく論議される新選組の功罪や、源三郎の人物批評はともかく、我が家の歴史と伝承は新選組史料とともに永く譲り続けてゆきたいものである」(子孫が語る新選組)(1979)と、孫に当たる故井上信衛(ノブエ  ・・・・ >> 続き
            新撰組余談-続・源さんの首
            杉さんぼく 2015/10/19 19:26
        2. [193] 武州八王子を中心に周辺村落に土着した郷士集団に、八王子千人同心があります。

          甲斐と武蔵の国境警備、治安の任をなし、天正18年(1590)の徳川氏が江戸入りに際し、甲斐武田の旧臣遺臣を中心に組織されました。

          八王子千人同心に土方姓はないか、と千人同心姓名在所図表(嘉永甲寅季秋)を見れば、八王子周辺の日野荒井村に、土方姓の千人同心、土方甚蔵さんがいました。<  ・・・・ >> 続き
          新撰組余話・八王子千人同心と土方姓
          杉さんぼく 2015/11/11 18:26
        3. [194] 西川耕蔵正義(1823〜65)は三条通の北村書肆に生まれました。
          書を読み学問を好み、梅田雲浜(1815〜59)に学んだ町人勤王家で、古高俊太郎の相弟子にもなります。

          元治元(1864)年6月5日池田屋の密議に加わりましたが、新選組の御用改めの急襲の難を逃れてながら、数日後、聖護院の寓居に隠れていたところ捕えられてしまいます。

          そして、翌元治二  ・・・・ >> 続き
          新撰組池田屋事件余話 西川耕蔵(北村太助)
          杉さんぼく 2015/11/11 22:55
  1. [11] 滋賀県知事として名を残した人物に籠手田安定(コテダヤスサダ)がいる。

    天保11年3月21日(1840'4'23)-明治32年3月30日(1899)
    平戸藩藩士の剣術家で、旧名は桑田源之丞と称した。
    維新後の経歴は、滋賀県知事、元老院議官、島根県知事、新潟県知事、貴族院議員を歴任、心形刀流剣術に一刀正伝無刀流剣術の免許皆伝者で、剣術愛  ・・・・ >> 続き
    籠手田安定と渡邊篤
    杉さんぼく 2015/07/15 19:23
    1. [192] 刺客とは…、なぜ客を刺す何のでしょうかねえ。

      「刺客」の読みは「せきかく」、本来は「せっかく」が正しく、「しかく」(しきゃく))は慣用的な変化読みなのかも知れない、と思ったりもします。

      この「刺」と「客」の読みは、「せき」・「かく」と伝わった漢音で、同じ読み構成なら、「せきかく(せっかく)」が多分本来読みで、「せき」では言いづらいから「し」になり、「かく  ・・・・ >> 続き
      刺客余話
      杉さんぼく 2015/11/11 05:22
  1. [52] 安島帯刀の苦悩余話を一つ。鵜飼幸吉が京都より持ってきた勅書(戊午の密勅)に江戸の水戸小石川藩邸は真実困惑した。幕府にも同日に勅書が到着し、老中の間部詮勝達はすぐに小石川藩邸にやって来て安島帯刀などと協議し、当面諸藩への回達は行わず、三家三卿だけ伝達するということで妥協した。しかし水戸藩としてはこの勅書を回達するかしないか、いずれは決めななくてはならない。幕府に逆らって回達することが可能か?天皇から  ・・・・ >> 続き安島帯刀と水戸藩の余話 藤原改新 2015/07/23 22:11
    1. [62] 「…鵜飼親子江文通およふ処より、猶右之者共、京地ニ而種々奸計を廻らし、公武御確執ニも可及場合ニ到ル段、対
      公儀不軽儀、右始末不届きニ付、切腹申付ル」

      公儀不軽儀…確かにきつい申し渡しですね。

      これに比べて、池内陶所の「…悔自訴いたし」とかで、「中追放申付ル」処分とは。

      ちょっとずるいですね。
      (参考-公用秘録20  ・・・・ >> 続き
      安島帯刀の切腹
      杉さんぼく 2015/07/26 15:37
    2. [87] 安島帯刀は、斉昭が藤田東湖の後継ぐ人間として信任していた家老だっただけに、惜しまれた。
      井伊大老の思惑を忖度して死を決意してか、鏡に自分の自撮り肖像画を残しただけに、その思いや計り知れない。

      切腹、自刃、丁重に死したと言う。
      安島帯刀余話
      杉さんぼく 2015/08/05 20:01
      1. [92] 安島帯刀、神戸で昭和2年に刊行された維新回天遺墨の非売品資料に、なぜか安藤帯刀となっていて、これは誤植ではなく編集著者(所蔵代議士)はそう思っていたようです。

        安藤帯刀の名は、紀州藩の家老にその名があります。

        島・藤、何れもトウと読むだけに、たまに間違いが見受けられます。
        安島帯刀余話
        杉さんぼく 2015/08/14 05:41
        1. [188] 幕末維新、息2人と共に親子で戦死して死んだ話では、中島三郎助がいるのが巷間知られています。

          同じような話を、敦賀の水戸浪士墳墓から読み取れます。

          それが、水戸石名坂の黒澤八十衛門、利八郎、新次郎親子です。

          水戸藩尊攘改革派で、水戸藩から麻裃一代着用を許された八十衛門は、水戸筑波挙兵に利八郎、新次郎を伴って参加しました。
          <  ・・・・ >> 続き
          水戸浪士・父子親子余話
          杉さんぼく 2015/11/07 21:42
  1. [186] 清水寺成就院の前に
    月照・信海両上人にゆかりの碑が三基建っている。
    その右端は華の峰善吉(元大関・京頭取)が首唱し、代議士:内貴甚三郎などを動かして建てられた…

    「贈正三位西郷隆盛公記念碑」である。

    正面、
     相約投渕無後先豈図波上
     再生縁回頭十有余年夢空
     隔幽明哭墓前
     月照和尚忌日賦 南  ・・・・ >> 続き
    西郷隆盛のお気に入り力士
    京都歴史研究会・代表 2015/11/02 19:33
    1. [187] 力士の錦旗捧持は…以前からの天皇行幸の際の慣例で、禁門の変(1864年)に斃れた久留米藩士・真木和泉による建策と言う。

      西園寺公に従った華の峰は、激戦の地・越後から会津へと転戦。
      会津城の合戦では錦旗を敵軍に奪われてなるものかと、自らの胴体に御旗を巻き付け敵陣から脱し、翌日、西園寺公に御旗の無事を報告した逸話もある。

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      Re: 西郷隆盛のお気に入り力士
      京都歴史研究会・代表 2015/11/02 19:35
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