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[3]
9月19日(土)13時〜16時半
ひと・まち交流館京都
(京都市下京区河原町五条下ル)3階第5会議室にて
◇梅田雲濱五代目子孫
梅田昌彦氏(元大阪芸術大学教授)の記念講演と、
雲濱生誕200年を顕彰するフォーラムを、
杉さんぼく氏の司会進行で行います。
*主催/京都歴史研究会
*協賛/杉さんぼく ・・・・ >> 続き
梅田雲浜生誕200年mini見に記念フォーラム
京都歴史研究会代表
2015/07/01 16:32
*
[19]
再送します。
Re: 梅田雲浜生誕200年mini見に記念フォーラム
京都歴史研究会代表
2015/07/17 20:22
[48]
古高さんにも案内を送りました。
参加いただければ良いのですが、昨年だったかどなたかが亡くなられた事やら、忙しいお彼岸なので無理かも知れません。
三縁寺さんでの6月4日池田屋殉難法要には、三縁寺さんに参列出来ないと連絡があったそうです。
雲濱墓碑建立13人衆の中のお一人だけに、残念な限りです。
予定では、大高さんは来られるようですが…。
雲浜生誕200年記念フォーラムの案内は資料と共に古高さんにも出しました!
杉さんぼく
2015/07/23 00:17
[71]
京都に近い大津に大練寺と云うのがあり、そこに漢学者上原甚太郎立齋(1794〜1854)の墓があるのを皆さん方はご存知でしょうか?(その門前の石碑は、奈良梅田昌彦氏によって建立された)
上原甚太郎立斎は寛政6年(1794)高島郡新儀村北畑(高島市)上原丹三郎の長男に生まれ、若くから大津に出て若林強斎の学統を学び、崎門学者(儒学者、山崎闇斎の門下)として京都にも名を知られた学者で ・・・・ >> 続き
梅田雲濱の師・義父上原立齋
杉さんぼく
2015/07/28 10:51
[88]
早、来月のフォーラムとなりました。
ハガキや メール連絡は
新聞社以外は済ませました。
台風が来なければ良いですね。
Re: 梅田雲浜生誕200年mini見に記念フォーラム
京都歴史研究会・代表
2015/08/06 08:31
[89]
そう、台風が心配です。
何しろ、配付資料が90部(1部14〜5枚)創刊号会報100部に加え、無料提供単行本が20冊以上あるのですからね。
さて〜。
結婚式の司会はこれまで幾度となくこなしてきましたけども、話の成り行きの分からない今回は、いやはや、いやはや…。
まさに、太宰治の口にするヴェルレーヌの「恍惚と不安 ・・・・ >> 続き
梅田雲浜生誕200年mini見に記念フォーラム
杉さんぼく
2015/08/11 00:16
[96]
フォーラム終了後の
打ち上げ会場予約しました!
河原町五条『さと』
午後5時半より、
梅田雲浜の墓を幕府に憚って建立した門人たち…13人にあやかって、
13人を予約しました!
会費3000円
飲み放題が付くと4000円
9月19日(土)の3日前までに
飲み放題は ・・・・ >> 続き
Re: 梅田雲浜生誕200年mini見に記念フォーラム
京都歴史研究会代表
2015/08/19 07:51
[97]
木曽 武こと・・・・です
13人目に参加 よろしくです。
Re^2: 梅田雲浜生誕200年mini見に記念フォーラム
木曽
2015/08/19 11:21
[118]
京都新聞のまちかど欄に
来週、フォーラムの案内が掲載されます。
本日9月8日(火)
朝日新聞・京都欄に
フォーラム開催をメールでお伝えしました。
掲載されるかは、分かりません。
尚、新聞紙上の問い合わせ電話番号は奥津希多代ママの携帯にしましたから、よろしくお願い致します。
Re: 梅田雲浜生誕200年mini見に記念フォーラム
京都歴史研究会代表
2015/09/08 18:27
[131]
はい、はい、
見ました。
京都新聞まちかど欄の案内に
掲載されてましたよ\(^_^)/
あたくしも行きますからよろしくね
まちかど欄見ましたよ。
奥津希多世ママ
2015/09/16 04:30
[137]
9月19日(土)13時〜16時半
ひと・まち交流館京都
(京都市下京区河原町五条下ル)3階第5会議室にて
◇梅田雲濱五代目子孫
梅田昌彦氏(元大阪芸術大学教授)の記念講演は素晴らしかったです。。
◇詩吟も良かったです♪
◇朗読お疲れ様♪
◇雲濱生誕200年を顕彰するフォーラムを、
・・・・ >> 続き
梅田雲浜生誕200年記念フォーラム大成功!
京都歴史研究会代表
2015/09/20 22:47
[138]
良かったですね、あっと言う間の時間でした。
嬉しかったのは、80歳前後の防府出身Uさんと、20代か30代かのMさんをそれぞれに紹介したら、奇遇にも同じ女学校の先輩後輩だった事で、喜んでいただいた事です。
こうした集まり、会合での交流が供養と顕彰の一助なれば良いですね。
中岡慎太郎が言った、邑あるものは邑をなげうち、力あるものは力をな ・・・・ >> 続き
雲浜生誕200年記念フォーラム大成功!のお疲れさまでした。
杉さんぼく
2015/09/21 16:38
[140]
鳥取黒木龍馬会さんが、ブログ紹介してくれました。
ありがとうございました。
以下参照
↓
http://www.yamagunitaro.cocolog-nifty.com/
雲浜生誕200年記念フォーラム大成功!で、鳥取黒木龍馬会が紹介してくれましたよ!
杉さんぼく
2015/09/23 20:32
[40]
「…幕末つてさういふものだなあと思つてね、あらためて面白くなるけど、いろいろなイデオロギーがごつちやになつちやふ。勤皇(注-正しくは勤王)、佐幕、開國、攘夷と四つあつて、それが順列組合せになる。佐幕勤皇、佐幕攘夷、佐幕開國、勤皇開國、勤皇攘夷…とあつて、まるでダービーだ。ただひとつなかつたのは、開國攘夷。今の日本の状況はだんだんかうなつていく。沖縄の事件ひとつみてもさうだね…。」
> 続き
三島由紀夫の憂いと現代
杉さんぼく
2015/07/21 11:36
[64]
我等団塊世代の時代的ヒーローだった俳優に高倉健さんがいます。
その健さんが、山本周五郎作品に触れているので紹介しましょう。
…人に薦められて山周さんの「晩秋」をあわてて読んだら、骨太のしっかりした、もの凄く力強い作品だ、と思った。
自分の父親を切腹に追い込んだ相手に、心を通じさせてしまう娘の話で、何もかも人のせいにして押し付ける今の時代を見抜いて書いている ・・・・ >> 続き
高倉健の憂いと山本周五郎
杉さんぼく
2015/07/27 00:54
[65]
三島由紀夫の母方の縁戚は旧幕老中、永井尚志だが、この読みをなおむねとか、なおひさと読んだ小説や資料が多い。
だが、この読み方は間違いだ。
正しくは「なおゆき」と読む 。
と言うのも、以下の様に孫の久富志子さんが言われている。
「父が、曾祖父の永井尚志の名前である[ナオユキ]からの[志]の一字をもらって、志子[ゆきこ]と名付けた。だから、尚志は、なおむねではな ・・・・ >> 続き
三島由紀夫は永井尚志に繋がる
杉さんぼく
2015/07/27 22:42
[130]
幕末維新の再来かと例えられた昭和維新の時代を象徴するかの2.26事件、これらの青年将校たち(或いは陸軍仕官学校、陸軍大学学校出身)は、「大正デモクラシーを自由謳歌して後」(萩のゴジラお宅歴史研究のI氏)彼らは松陰や西郷、乃木希典に心酔したのでしょうか。
いや、そうではない、それは短期間ながらの大正デモクラシー、デモクラットな考えが浸透しつつあった明治維新後の、近代化反動の始ま ・・・・ >> 続き
明治維新と昭和維新
杉さんぼく
2015/09/11 10:27
[8]
安政5年(1858)、いわゆる戊午(ボゴ)が水戸藩に朝廷(梅田雲濱建白書には朝庭)から下ります。
この解説、解読が維新夢クラブのK君が活字起こししましたから、秋の雲濱生誕200年で配付します。
乞うご期待!
戊午の密勅
杉さんぼく
2015/07/15 06:13
[123]
戊午の密勅(ぼごのみっちょく)
幕府の将軍継嗣問題の決定や、安政五か国条約の違勅調印を快く思わなかった第121代
孝明天皇(1831〜1867)は、幕府および水戸藩へ
安政5年(1858)8月8日付け勅諚(ちょくじょう)を下した。
戊午は安政5年の干支で、
前例を破って朝廷から水戸藩に内密に下されたので「戊午 ・・・・ >> 続き
Re: 戊午の密勅
京都歴史研究会代表
2015/09/11 07:21
[124]
さて、この講座のレジェメで、彦根城博物館所蔵
戊午の密勅の写しのコピーを戴いた。
また、安政の大獄での処分リストも初めて見た。
これには、評定所(老中1名.寺社奉行.勘定奉行.町奉行.大目付.目付)が諮問決定した処分リストに、それより重い[死罪]の言葉などを付箋紙で貼り付けられたものだった。
例えば、吉田松陰は、初めは
> 続き
安政の大獄/主な処分者…
京都歴史研究会代表
2015/09/11 07:23
[112]
「竜」が常用漢字(新字)で「龍」がその旧字に当たるという関係になりますが、坂本龍馬が生きた時代に常用漢字はなかったのだから、「龍」が正しいという考え方があります。新聞や国語辞典等では歴史上の人物でも新字を使うのが一般的です。但し「竜馬がゆく」などは「竜」を使っているので、作品名だからといって必ずしも「龍馬」となるわけではない。しかし「竜馬」はヒーロー的な要素が強い様な気がする
「龍」と「竜」
藤原改新
2015/09/06 20:12
[117]
司馬遼さんが、「龍馬」ではなく「竜馬」の文字にしたのは、明確に、小説としてのメッセージ、フィクションであるのを意識しています。
一方の「龍馬」。
この字体の重みは事実、ノンフィクションとして表現があります。司馬遼さんが歴史事実にある龍馬をリスペクトしたのが、土佐の歴史家平尾道雄氏の龍馬史観でした。
その著「龍馬のすべて」や「海援隊始末記」は、事実としての龍 ・・・・ >> 続き
「龍」と「竜」表現
杉さんぼく
2015/09/08 10:02
[115]
古来より地名は、
地形・特産物・生息動植物・
幕府や藩の行政機関・神社や城・住人の職業身分・出来事等・・・・
その土地の地理歴史から命名されている
。
土砂災害に見舞われた
広島県広島市安佐南区八木地区(八木3丁目)は、かつて
『蛇落地悪谷
(じゃらくじあしだに)』
「竜の ・・・・ >> 続き
古来の地名由来
京都歴史研究会代表
2015/09/08 07:52
[116]
E梅も、「埋め、埋まった」から来ている。
沢山のビル
が建ち並ぶ大阪の中心[梅田]は、湿地帯を埋め立てた場所だ。
F落合は、川の合流部を意味する。
G柿のつく地名は、土地が「欠けて」いる所。。
H釜は、津波でえぐられた地形。
鴨も「カマ」が転じて、えぐり取 ・・・・ >> 続き
Re:続 古来の地名由来
京都歴史研究会代表
2015/09/08 07:56
[100]
江戸時代に「藩」という呼称は、公的な制度名ではなかった為、これを用いる者は一部に限られ、元禄年間以降に散見される程度だった(新井白石の『藩翰譜』、『徳川実紀』等)。明治時代に初めて公称となり、一般に広く使用されるようになった。
元々「藩」という語は、古代中国で天子である周の王によってある国に封建された諸侯の支配領域を指し、江戸時代の儒学者がこれに擬えて、徳川将軍家に服属し将軍によって領地 ・・・・ >> 続き
江戸時代に藩は無かった
藤原改新
2015/08/22 18:14
[103]
知りませんでした。
藩邸は ○○屋敷。
では、脱藩は、何と呼んだんでしょうね。
国抜けかな?
Re: 江戸時代に藩は無かった
京都歴史研究会代表
2015/08/25 15:24
[106]
伊三さんに聞いた話しでは、国抜けとか、亡命とか、脱国と言ったそうです。
高杉晋作も日記にもそうあるようです。
彼らにとって国とは、州(くに)、長門なら長州となり、薩摩なら薩州になるわけです。
また、国抜け脱国の罪(百姓農民なら跳散-逃散)は各法によって違いもありました。
聞いた話
貴美ちゃん
2015/08/29 17:20
[104]
若いころから、数十年気に成ってました。
PCも無く、ネットなども無く・・・
映画を見てはブツブツ
TVを見てはブツブツ
よく書いてくれました。早く大勢の人達が理解してほしいと思います。
Re: 江戸時代に藩は無かった
木曽 武
2015/08/26 08:18
[108]
以前、杉さんぼく氏から
聴いたのですが、
龍馬書簡には、「二本松薩邸」「二本松邸」「屋敷」(望月清平宛て-慶応3年10月18日)とあ るそうですよ。
はてさて如何に?
Re: 江戸時代に藩は無かった
京都歴史研究会代表
2015/08/31 17:43
[109]
慶応三年十月十八日付け、
龍馬の望月清平宛て書簡。
「(…略)昨夜薩邸吉井耕輔より、こと伝之れ在り候ニ、未だ屋鋪(
今で云う@河原町土佐藩邸)二入事あたハざるよし。四条ポント町(近江屋)位二居てハ、用心あしく候。其故ハ此三十日計後ト、幕吏ら龍馬の京二入りしと謬伝して邸(@邸)江もたずね来りし。
されバ【二本松薩邸】に早々入候よふとの事なり。
小弟思ふニ ・・・・ >> 続き
江戸時代に藩は何と呼んだ
京都歴史研究会代表
2015/09/01 08:09
[82]
妻は
病床に臥し…で有名な梅田雲濱はんは、なんや、若林強齊先生の孫弟子になるんどすな。
雲濱はんは若州(若狭)のお人で、強齊先生のお墓近くにある北条定齊という先生も若州人、墓石裏面に、宝暦12年2月19日生、文化12年9月6日歿(死ぬ意味、没でない)とありますえ。
強齊先生は延寶7年7月8日の生、享保17年正月20日、50有余4歿…と、門人西依周 ・・・・ >> 続き
強斎先生墓
奥津喜多世ママ
2015/08/04 14:23
[83]
京都に近い大津に大練寺と云うのがあり、そこに漢学者上原甚太郎立斎(1794〜1854)の墓があるのを皆さん方はご存知でしょうか?
上原甚太郎立斎は寛政6年(1794)高島郡新儀村北畑(高島市)上原丹三郎の長男に生まれ、若くから大津に出て若林強斎の学統を学び、崎門学者(儒学者、山崎闇斎の門下)として京都にも名を知られた学者でした。
その名声を聞いたのが小浜 ・・・・ >> 続き
上原立齋先生
杉さんぼく
2015/08/04 14:39
[84]
雲濱先生をよほど気にいれられたんですね、上原立斉先生は。
生活よりもその学識や人柄が、先生をして二人娘のうちの長女「信」さんを娶わす事になるんですよねえ。
それが現代までの、五代目玄孫まで続くんですからすごい歴史です。
上原立齋先生
奥津希多世ママ
2015/08/04 17:55
[105]
希多代になったり、
喜多代になったり、
貴多代?
Re: 上原立齋先生
京都歴史研究会代表
2015/08/28 07:58
[107]
打ち間違えたんです、ごめんね
Re^2: 上原立齋先生
奥津希多世ママ
2015/08/29 18:37
[43]
高橋泥舟遺稿の話です。
泥舟の言うには、江戸で清河八郎結成・虎尾の会に龍馬も名を連ねて面識あったその八郎が後年、佐々木只三郎に暗殺された遠因は、清河が佐々木を軽んじ論破して馬鹿にした尊大な態度だった事にある、佐々木は快くおもわなかったので清河は殺される羽目になった、と…。
泥舟はそう確信していたようです。
虎尾の会には義弟山岡鉄太郎鉄舟が幹部に ・・・・ >> 続き
幕臣高橋泥舟伊勢守
杉さんぼく
2015/07/21 19:44
[44]
私にとって、高橋泥舟と云えば、文藝春秋文庫 南條範夫の山岡鉄舟ですね。山岡鉄太郎が叶わなかった槍の名手である義兄。謹慎中の徳川慶喜の上野寛永寺守備隊隊長ですかね。
Re: 幕臣高橋泥舟伊勢守
藤原改新
2015/07/21 21:19
[45]
杉さん
大阪天王寺
一心寺に高橋泥舟の碑が
ありましたね。
それから、
杉浦梅譚のたんは、サンズイ辺で杉浦 梅潭 ですね。
Re: 幕臣高橋泥舟伊勢守
京都歴史研究会代表
2015/07/21 21:47
[76]
大阪天王寺は一心寺の見上げる程の戊辰東軍碑は、確かに高橋泥舟の筆でしたね、確かに。
幕末三舟の中でも、一番高値の泥舟です。
ちなみに、次が鐵舟で、数の多い海舟が一番安い訳です。
さすがに代表、よく気付いてくれました。
杉浦正一郎梅譚は正しくは杉浦梅潭(サンズイ編)でした。
今のところ、国文学資料館へ寄贈されたこ ・・・・ >> 続き
Re^2: 幕臣高橋泥舟伊勢守
杉さんぼく
2015/07/28 23:25
[98]
泥舟先生筆に、熱田神宮にだったか、迷子しるべ石がありますよ。
珍しいものです。
高橋泥舟伊勢守筆
奥津希多世ママ
2015/08/21 16:58
[99]
すみません、勘違いしてました。
泥舟先生筆ではなく、熱田神宮、迷子しるべ石の文字は山岡鉄舟先生でした。
泥と鉄の違いは、大違いでした。
高橋泥舟伊勢守筆
奥津希多世ママ
2015/08/22 13:55
[101]
泥舟さんの小説なら、子母澤寛氏の「逃げ水」がありますね。
あたくしの好きな小説で、新選組3部作を書かれただけに、新選組の話も混じり、勝海舟全6巻関連からも併せてよく調べられてもいます。
あたくしのお薦めです!(中央公論社や中公文庫にありましたが、絶版かもしれません)
高橋泥舟伊勢守
奥津希多世ママ
2015/08/24 12:48
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