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発言ランク
[185]
西国街道は早くより交通が盛んな街道で、織田信長も度々通っている
。
天正6年(1578)荒木村重が叛いた時や、それ以前にも石山本願寺合戦などの関係で通った
。
浅野内匠頭は4回、茨木城主中川清秀の子孫の中川修理大夫も墓参りなどに利用していた。
江戸時代、中国、四国、九州方面の殿様(大名)が、郡山宿本陣を元禄9年(1696)から明治3年( ・・・・ >> 続き
郡山宿と切腹事件
京都歴史研究会・代表
2015/11/01 20:05
[4]
自分は福島在住で京都の史跡めぐり等が
中々、出来ません。
杉さんぼくさんの尽力により
自分は梅田昌彦氏と電話で3、4回ぐらい
会話したことがあります。
開催予定の『梅田雲浜生誕200年mini見に記念フォーラム』へも
参加してみたいとは思いますが願い叶わず
・・・・ >> 続き
会の発足おめでとうございます♪
のんた樸斎
2015/07/04 08:50
[5]
(水戸史学会&東京龍馬会)所属
のんた樸斎 さん!
お祝いメッセージ有り難う御座います
頑張って、フォーラムを遂行したいと思います。
Re: 会の発足おめでとうございます♪
京都歴史研究会代表
2015/07/04 18:48
[143]
京都歴史研究会を応援下さり、代表
とも交流があった
(水戸史学会&東京龍馬会)所属
のんた樸斎さんが
一週間前9月24日(木)に急逝されました。
多分、脳梗塞が原因かと思われます。詳細は不明です。
天狗党の一人の
御子孫でもありました。
奇しくも、9月24日は ・・・・ >> 続き
のんた樸斎さん急逝
京都歴史研究会代表
2015/10/01 23:28
[182]
◆安政7年3月3日(1860)
桜田門外の変
大老:井伊直弼を襲撃殺害した事件。
◆文久2年1月15日(1862)
坂下門外の変
老中:安藤信正を襲撃した事件。安藤は負傷
↑上記いずれの事件も、水戸浪士が中心に引き起こした事件だ。
全国で尊王攘夷運動が激しくなる中、藤田 ・・・・ >> 続き
のんた樸斎氏と天狗党の悲劇
京都歴史研究会・代表
2015/11/01 05:48
[183]
それでも、遥か京都を目指して天狗党は、当時京都にいた一橋慶喜(斉昭の七男。後の15代将軍)の援助で、朝廷に尊王攘夷を訴える為、元:家老の[武田耕雲斎]を総大将とし(11月1日)、1000名余りの大部隊で出発した。
だが、天狗党の後を、幕府の追討軍が追いかけていた
。
やがて追討軍
[e2 ・・・・ >> 続き
Re: のんた樸斎氏と天狗党の悲劇
京都歴史研究会・代表
2015/11/01 05:49
[184]
のんた樸斎氏の資料より
◆天狗党の乱、幕府へ投降組
元和甲子之変 天狗諸生之乱参加者氏名事蹟抄より
天狗派
堀田相模守殿佐原陣屋ヨリ水野肥後守御預替
『打越貞助』
↑回天忠魂塔碑に名前がないので、刑罰として、閉門か追放か送り寄せ。
◆尊王攘夷思想の大日本史編纂『打越直正(樸斎)』
貞享3年(1686)、那珂 ・・・・ >> 続き
のんた樸斎氏の資料より
京都歴史研究会・代表
2015/11/01 05:54
[168]
田中河内介先妻-増榮(田中近江介の長女/出生は文政7年=1824)
(正面)
英朗院懿淑安貞大姉
(裏面)
嘉永三年庚戊七月五日卒
田中河内介藤原朝臣綏猷妻
俗名増榮
年廿有九
(左側面)
哀児 佐磨 ・・・・ >> 続き
平成墳墓録
杉さんぼく
2015/10/19 08:13
[169]
以下、田中近江介=北村氏関連墓
↓
田中近江介夫妻
(正面)
松岳院殿仙阿樹開大居士
松壽院妙弌貞閑大姉
(右側面)
万延元庚申年四月二日卒
従六位下近江介藤原朝臣綏長
(左側面)
北村栄三郎藤原朝臣綏之定
………………… ・・・・ >> 続き
平成墳墓録 田中河内介
杉さんぼく
2015/10/19 08:18
[171]
田中河内介父子に対し、科人‐とがにんと云う烙印を押された―、との認識で言われる方がいます。
しかしながら、これは正しくなく、ましてや科人(咎人)ではないのではありません。
柿本人麻呂のいろは歌ではありませんが、やはりは罪科=とがなくて死すと思われます。
同じ例に、長州人による中山忠光卿惨殺事件があります。
中山 ・・・・ >> 続き
平成墳墓録 田中河内介余話
杉さんぼく
2015/10/21 05:40
[94]
神戸にある湊川神社(楠公さん)の御祭神は楠木正成、子正行及び、弟正季以下一族十六柱並びに菊池武吉である。楠木正成は元弘元年(1331年)9月に後醍醐天皇の命を受け、鎌倉倒幕の兵を挙げ、執権北条氏の大軍と戦った。奇策智謀に優れ、鎌倉幕府を崩壊に導き、「建武中興」に大きな功績を立てた。しかし、まもなく足利尊氏が背き、一度は九州へ敗走したが、再び勢力を盛り返して京都に攻め上がってきた。正成は子正行に後事 ・・・・ >> 続き
楠公さん
藤原改新
2015/08/14 21:15
[113]
近藤勇、号東州の知られざる和歌。
殷箕子
かくれても臣てふ道を
つくしたる
ことはしらべの名にのこりけり勇
「勇は平素の対談には声の低い人で笑窪があって、なつかしい人であったといふ。誰に学んだか知らぬが、うたも作り詩も作った。字を得候、号を東州と云うたやうである。京都にあって…夜は遅くまで書を読み、字を習ったといふ。…京都に ・・・・ >> 続き
幕末の象徴は楠公さん
杉さんぼく
2015/09/07 08:20
[114]
昔の教科書では
建武の中興でしたが
現在は…
建武の新政と教えてますね。
中興の意味が判りにくいのかも知れません。
Re: 楠公さん
京都歴史研究会代表
2015/09/08 07:35
[144]
今や国文化財となった京博の有名な、「世の人はわれをなにとも…」の詠草ですが、共に載る「湊川にて 月と日のむかしをしのぶ みなと川 流れて清き菊の下水」の和歌は、龍馬がまだ湊川神社(明治5年創建)ではなかった頃の湊川に詣で、菊水紋を見てこの歌を大楠公墓碑の墓前に捧げました。
菊の下水とは、後醍醐天皇から下賜された菊水の家紋を持つ楠正成に関連するのは間違いありません。
・・・・ >> 続き
楠公さんの菊水
杉さんぼく
2015/10/06 06:31
[166]
大阪阿部野にある阿部野神社の御祭神は、北畠顕家と『神皇正統記』を著した父の准三后北畠親房である。北畠顕家は建武の新政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。足利尊氏が叛したため西上し、新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。その後、伊勢、大和な ・・・・ >> 続き
北畠顕家と風林火山
藤原改新
2015/10/16 07:35
[80]
弥生から古墳文化の発達と共に畿内を軸とした各地を結ぶ幹線を山道、海道という交通概念を生みました。
江戸時代になって、いわゆる、東海道や中山道等の五街道が整備され、その一つに奥州道中(白河までで、以北は仙台道、松前道に通ずる)があります。
奥州道中の道の奥(みちのく)、奥(道奥)としての「奥大道」の確定は古く、官道東山道、東海道が律令政府下で設定された事を ・・・・ >> 続き
道と路の道中咄
杉さんぼく
2015/07/31 20:07
[150]
伊勢本街道と伊勢詣りについて〜
★「伊勢に行きたい、伊勢路が見たい、せめて一生に一度でも」、と伊勢音頭でも唄われたように、神宮の鎮まる伊勢を目指す旅は、江戸時代の庶民が夢にまで見た憧れの旅だった。
その伊勢参宮の歴史は古く、鎌倉時代中期以降、神宮信仰の担い手であった御師の布教の力が大きい。
これにより全国的な広まりと共に、道の整備なども進み、旅のし易い環境 ・・・・ >> 続き
お伊勢参り道中咄
杉さんぼく
2015/10/13 14:49
[151]
また、約60年に一度、「参宮ブーム」現象が起こり、年間何百万人もの参宮者が伊勢参りをした。
これを「おかげ参り」と呼び、慶安3年(1650)、宝永2年(1705)、明和8年(1771)等があり、とりわけ文政13年(1830)に起こった「おかげ参り」はつとに有名である。
こういった人々を伊勢へと駆り立てる原動力には、神宮信仰はもとより、旅そのものへの憧れや ・・・・ >> 続き
続・お伊勢参り道中咄
杉さんぼく
2015/10/13 15:02
[152]
しかし、伊勢本街道は距離的に短い分、険しい山道が多く、これより北を走る北街道(青越え)の方が平坦であった為、参勤交代に使われたりして、次第に伊勢本街道の整備は怠られるようになり、利用者も減っていった。
明治時代に入り、一時は復興的に整備がなされるものの時既に遅く、鉄道の普及に伴い伊勢本街道は時代に取り残されてしまった。
かつては参宮者で賑わった旅籠も廃業 ・・・・ >> 続き
続々・お伊勢参り道中咄
杉さんぼく
2015/10/13 23:10
[110]
中世までの京都では道路を通とは言わず『大路(おおじ)』『小路(こうじ)』と呼んでいた。平安京の条坊制という都市計画では大路が幅8丈(約24メートル)、小路が同4丈(約12メートル)ときっちり区画されていた。その後、自然発生的に人々が通と呼ぶようになり、江戸時代までに定着したようだ。東西と南北でなく幅で区別していたからである。古来、縦横の呼び方を分けていなかったから、通に統一されたのだろうか。
> 続き
通と筋
藤原改新
2015/09/04 20:33
[111]
そうでしたね!
平安京の道路は、大路と小路が有りましたね。
自分が使った資料では、大路10丈・小路4丈だったので、
会報の投稿「鴻臚館」では、大路・小路の分け目なく、
[道は10丈] と書いてしまってます。
失敗してますが、宜しくです。
Re:藤改御中
木曽 武
2015/09/06 10:33
[145]
日本紀略は、平安時代に編纂された歴史書で、六国史の抜粋と、六国史以後後一条天皇までの歴史を記す。範囲は神代から長元9年(1036年)まで。
『続日本紀』は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る ・・・・ >> 続き
通と筋
杉さんぼく
2015/10/06 06:32
[142]
その理由を遡るならば、
鳥取城主池田氏が、切支丹信者であったことから…
その博愛
の精神が生まれていることが分かる。
信仰は自由であると保証していたのだ。
※池田家は、池田信輝に始まった切支丹の流れを組む家柄である。
(※寛永9年(1632)から明治2年(1869)の廃藩置県までの約240年間、鳥取城主
・・・・ >> 続き
殉教者皆無の鳥取池田藩†後編
京都歴史研究会代表
2015/09/27 19:33
[141]
殺伐とした下克上の戦国時代、日本に伝えられたキリスト教
は、精神文化面と物質文化の上に大きな影響を与えた。
その後、慶長17年(1612)春、
本多正純の与力:岡本大八と肥前(長崎県)の大名:有馬晴信の贈収賄事件が発覚し、両者が切支丹(キリシタン)であり、また徳川家康の旗本などにも信者がいることが判明
岡本大八は火刑
。
この ・・・・ >> 続き
殉教者皆無の鳥取池田藩†前編
京都歴史研究会代表
2015/09/27 19:29
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