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発言ランク
[235]
姫路で本格的な尊王攘夷の動きが始まるのは、尊攘派が旗頭に据えようとしていた島津久光が薩摩兵1000人を率いて上洛の途中、室津に上陸した文久2年のことである。この時、室津には平野國臣ら諸国の志士が参集し、尊攘運動について意見交換をした。姫路からは秋元安民らが参加した。尊攘派の秋元はこの室津会合の様子と政情について、重臣らを前に私見も交えて報告した。仁寿山、梅ヶ岡に隠居中の河合良翰の関心の持ちようは尋 ・・・・ >> 続き
姫路勤王党
藤原改新
2016/01/10 16:30
[236]
姫路の紅粉屋襲撃に呼応して、姫路の志士が京都で公武合体派の公家 千種有文の家臣 賀川肇を暗殺するという事件を起こした。文久3年1月28日である。実行者は姫路から上洛して、桂小五郎、久坂玄瑞、真木和泉らと交流し、尊王攘夷運動に没頭していた萩原正興、江坂行厚らである。攘夷の実行を求める動きは姫路の他の志士にも急速に広がり行動も過激化する。賀川暗殺の半月後、萩原正興らは河合宗元と謀り、攘夷実行に逡巡する ・・・・ >> 続き
姫路勤王党 決起活動
藤原改新
2016/01/11 19:57
[237]
元治元年春、思いを遂げられない苛立ちの中で、河合宗貞、江坂行正(行厚の弟)が、ついに国抜けをする。幕府も国許(姫路)も因循姑息で新しい時代認識がないという怒りからであった。こうした志士の動静に対し、極端な警戒心を持っていたのが、家老の高須広正である。
高須は2人の国抜けを奇貨として、志士の一掃を謀った。徹底捜査を命じるとともに、親族、縁者への追及を強めたのである。先ず、宗貞の ・・・・ >> 続き
姫路勤王党 甲子の獄
藤原改新
2016/01/13 00:28
[228]
嘉永7年(1854)3月、吉田松陰は金子重輔とともに、海外渡航を企て、下田柿崎弁天島の祠に身を隠し、
夜 小船を漕いで米艦ポーハタン号に辿り着いたが、この時の日米の約束の前に、外遊三年の夢は挫折した。
世の人はよしあし事もいはばいへ
賊が誠は神ぞ知るらん
(松陰、下田平滑獄)
> 続き
下田 柿崎弁天島
木曽 武
2016/01/02 13:36
*
[232]
松陰さんたちも、確かに増田甲才こと橘耕齋(遠州掛川藩士)のように上手く外国に行けていたらまた、日本はどう変わったのでしょう。
伊藤博文や山縣有朋等はどう感じたでしょうね。
ロシアと言えば、エカテリーナ女帝に謁見した伊勢白子の漂流民大黒屋光太夫(ダイコクヤコウダユウ)が著名で、とりわけ北嵯聞略-大黒屋光太夫漂流記(桂川甫周)を元に書かれた井上靖氏の小説 ・・・・ >> 続き
お〜橘耕齋ですか!
杉さんぼく
2016/01/03 05:40
[233]
〈おろしあ国酔夢譚〉〈大黒屋光太夫〉
自分も楽しんで読みました。
しかし橘耕齋の小説は知らなかったです。
小説は良いですね、心が和みます。
作家さんに敬服です(笑)
Re: お〜橘耕齋ですか!
木曽 武
2016/01/06 22:14
*
[229]
弁天島の看板の絵です
携帯電話の方 見えますか
木曽 武
2016/01/02 13:43
*
[231]
看板絵、よく書けてますね。
見れました。
旅先土産、ありがとうございました。
携帯電話で画像が見れました。
杉さんぼく
2016/01/03 05:03
[230]
道の駅 下田開国みなと、に下田湾に向かって、竜馬の像・・・
「竜馬志の像」と言う。
しかし無理があるのではと痛感する。
容堂公が帰国の途次、船を嵐から避けるため下田に避難、
その随行員の中に、竜馬がたまたま居ただけ・・・
何か違和感・・・
木曽 武
2016/01/02 20:52
*
[216]
12月歴史講演会のご案内
◆日時:平成27年12月26日(土)
13時〜16時30分
◆会場:河原町五条下ル
ひとまち交流館 京都 2階第1会議室
◆入場無料、予約無し先着30名
第T部:時代劇に始まる日本映画
*講師:宮崎 博(元東映専属俳優/元美空ひばり館 ・・・・ >> 続き
京歴研12月講演会ご案内
京都歴史研究会・代表
2015/12/11 23:16
[221]
◆12月26日(土)予定時間お知らせします。。
13:00開場受付(記帳)・スライド準備ほか
13:10開会〜ビデオ30分(新日本紀行-太秦映画村1974)
13:40宮崎さん講演
15:00休憩
15:10ビデオ9分(今日は何の日-龍馬暗殺1989)
15:20杉さんぼく講演< ・・・・ >> 続き
京歴研12月講演会スケジュール
京都歴史研究会・代表
2015/12/20 14:02
[223]
いやあ〜良かったですね。
懐かしいDVDの見れなかったのは残念でしたが。
満席だったじゃあないですか。
数十枚の資料もバッチリと興味深い内容で、これが無料でなんて嬉しいです。
今度はいつかしら。
楽しみに待ってます。
興味深い話をありがとうございました。
京歴研12月講演会
緋牡丹お雪
2015/12/28 19:30
[218]
明治7年(1874)佐賀の乱で敗れた司法卿江藤新平(1834〜1874)は、大久保利通の思惑に斬罪処刑されたが、その執行直前に、辞世の如く三度叫んだのが次の言だと云われる。
「唯、皇天皇土の我が心を知るあるのみ」
多分に、「身は朽ちぬとも、留めおかまし大和魂」(吉田松陰)にも似た心情を、見事に訴えた言葉であると共に、無念なる
断罪に処せられた江 ・・・・ >> 続き
梅田雲濱源次郎の七言絶句漢詩
葉華間美瑠子
2015/12/20 13:45
[219]
そんな事はなく、葉山観音に暮らした頃は、貧乏だったのではないでしょうか?
雲濱妻の信子さんが、お金が無くて、着物
を質屋に入れて、長襦袢一枚の姿で、琴を奏でる話を…
以前、この掲示板で読みましたしね〜
Re: 梅田雲濱源次郎の七言絶句漢詩
京都歴史研究会・代表
2015/12/20 13:52
[224]
梅田雲濱源次郎ではなく。
雲濱梅田源次郎です。
雲濱は、名ではなく、号ですから、大概は名前の上に冠します。
Re: 梅田雲濱源次郎の七言絶句漢詩
木曽 武
2015/12/28 21:47
[226]
そう言えばそうですよね。
松陰吉田寅次郎っていいますねえ。
吉田寅次郎松陰とは言いません。
さすが、京歴研の大目付さんです。
雲濱梅田源次郎ですね
緋牡丹お雪
2015/12/29 14:39
[222]
三好家は阿波出身で、三好長慶のときに台頭した一族である。長慶は父元長を謀殺した主君細川晴元や13代将軍足利義輝を京都より追放り
、し、近畿から四国にかけて十数カ国を勢力下に収めた人物である。
当時の「天下」という言葉には日本全国≠ニいう意味もあるが、より多用されていたのは京都及びその周辺≠ニいう意味であり、現在の首都圏という言葉の感覚に近い。当時多くの戦国大名が ・・・・ >> 続き
信長の前の天下人 三好長慶
藤原改新
2015/12/23 12:27
[217]
なぜ、赤穂浪士の討ち入り後、吉良家はお家断絶となり、養子義周は信州諏訪に流されてしまったのか?
室鳩巣の「赤穂義士纂書」から一部抜粋
「・・・旧臘十四夜浅野内匠頭家来共押入り候節、不埒なる仕業、不届に思召され候。領地を召されし上、・・・」
評定所の見解
「吉良左兵衛儀、申しわけ相立ちがたき仕方にて御座候間、その ・・・・ >> 続き
師走の風物詩 忠臣蔵余話
藤原改新
2015/12/14 21:53
[220]
例年の風物詩だった
忠臣蔵の話題が、今年2015年はあまり聴いたり観たりしませんでした
ニュース映像で義士祭りを少し観ただけでしたね
年末のクリスマスムードも
飾り付けやイルミネーションも小規模になっています。
師走の風物詩に見られなくなりましたね
京都歴史研究会・代表
2015/12/20 13:58
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