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杉さんぼく
日本について知識のあったシーボルトは、朝鮮半島と日本の間に竹島と松島という2つの島があって、日本に近い島が「松島」、朝鮮半島に近い島が「竹島」であることを知っており、その著『日本』において、当時の欧米の地図に表記されていた朝鮮半島寄りの「アルゴノート島」に「竹島」、もう一方の「ダジュレー島」に「松島」の名を当てたのです(大熊良一著『竹島史稿』原書房1968)。
現在、竹島=独島と呼ばれる島は、フランスの捕鯨船リアンクール号によって、1849年「発見」され、リアンクール島と命名されています。
或いは、ハイネの「日本近海図」に見られるように、ヨーロッパの地図には、西からアルゴノート島、ダジュレー島、リアンクール島と、3つの島が描かれる地図も出現しました。
ところが、1854年にロシアの軍艦パルラダ号が鬱陵島の正確な位置を調査したところ、アルゴノート島の経緯度の測度が不完全であるとわかり、このため、アルゴノート島は、欧米の地図において、存在が不確実である事の点線囲みで表示されるようになり、やがては全く表示されなくなって、シーボルトが与えた「竹島」の名とともに地図から姿を消してしまっています。
これらの島を開拓しよう、と龍馬(海援隊)が計画していた説が最近浮上、龍馬亡き後は岩崎弥太郎が同じ様に開拓計画を立てていた話もあります。
しかし龍馬のめざした竹島は、現在問題になっている竹島ではなく、鬱陵島の事らしい。
その鬱陵島については、幕府は元禄9年(1696)の時点で渡海禁止令を出しています。
朝鮮領と認めていたからです。ただし、これは鳥取藩にだけ通知されていただけで、その後も鬱陵島に渡る者が続出したので、天保8年(1837)に全国的に二回目の渡海禁止令を出しました。
どうやら龍馬は、鬱陵島が朝鮮領と認定されているのを知らなかった様で、従って龍馬の竹島開拓計画は、鬱陵島に渡ろうとした想いだけで、例のいろは丸の沈没で出鼻をくじかれたまま挫折しました。
彼が殺されずに生きていて、開拓計画をすすめていれば当然領土問題に突き当たったかも知れません。
2015/10/22 Thu 17:51 [No.174]