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杉さんぼく
吉田松陰が処刑された翌年の万延元(1860)年7月2日に、桂小五郎と村田蔵六が連名で幕府に提出した「竹島開拓建言書草案」は、松下村塾の竹島開拓論の集大成といって良いかもわかりません。
まず開拓の必要について。
竹島は長門国萩より東北の海上約50里にあって、朝鮮から竹島までも約50里なのでほぼ等間隔にある事。
最近外国船が竹島周辺に出現するようになってきており、植民でもして国防を考える必要がある事。
北前船が下関へ往復する時暴風暴波の折には竹島に碇泊して天気の回復を待っている事。
すでに島には日本人が建てた人家が5、6軒はあると聞いている事。
かって朝鮮国へお渡しになったという風聞もあるが、朝鮮人の渡海は皆無である事。
世界地図を見ると日本と同じ色に着色され、島名も「タケエイ・ララド」と記され、日本の属島と認識されているのが明白である事。
万一この島が外国の手に落ち植民でもされた時は、日本や直近にある長州にとって多大の禍になる事。
と、これらが急務であり必至であるのを列挙しています。
この竹島開拓建言書草案は、幕府の閣老久世広周(くぜひろちか)に提出されましたが、藩主建白書でないという理由で却下されています。
まさに内憂外患の政治状況でした。
ということで、まずは思うままに…。
2015/10/23 Fri 06:47 [No.176]