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杉さんぼく
太宰治が坂本龍馬に触れた話があります。
ある友人が突然太宰を訪ねて来た時の事を後に振り返って太宰が言った次の一言。
「あの時は坂本龍馬でも来たのかと思ったよ」
この友人を義母に紹介した折りも次の様に言う。
「僕たちは明治維新の志士くらいの気概はあるんですからね、オッ母サン。坂本龍馬や高杉晋作だってこんなものですよ」
そう言えば、若い10代の頃の初期に習作で奇兵隊を書いていましたから、太宰は幕末維新に興味を抱いていたのでしょう。
今も現代も若者の興味は変わりありませんね。
龍馬が伏見での薩摩藩士同士討ちを思って唄ったと言う里謡
「咲いた桜になぜ駒つなぐ、駒が勇めば花が散る」
これは山家鳥虫歌にあるもので、もし龍馬が知っていての話なら、高杉晋作の「三千世界…」と通ずる風流(フリュウ)かも知れません。
2015/09/11 Fri 09:56 [No.125]
杉さんぼく
30年以上前の11月15日昼のTV「おもいきりテレビ」での放送、「今日は何の日」を記憶されている方はおられるだろうか。
この日は龍馬暗殺デーだったから、昭和初期の坂東妻三郎主演「坂本龍馬」からの暗殺場面ラストシーンが流されました。
この感想をみのもんた司会者が、ゲストコメンテーターの實吉達郎氏(広島出身の動物学者)にコメントを求めました。
「(龍馬暗殺の)死の謎が、本当はあの映画で映した様にはなっていないんですね……。
実は私の曾祖父は福岡孝悌と申しまして…龍馬を知っておりまして、死の真相もある筋から知っていたそうなんですが、誰が聞いても、いや、あれは言っちゃあいかん事になっとるんだ、と言いました。それは公開出来ない様な誰かが犯人だったんじぁあないか、と思います。……暗殺した人が、今(放映)した様に、佐々木只三郎、…そうじゃあないんだ、と。」
と、實吉達郎氏はこうコメントしました。
生番組だっただけに、チェックが効かず、しばし呆然自失でした。
この番組ディレクターの中に、長州の白石正一郎縁戚がいたのも奇遇としか言いようもありません。
因みに、実吉家は福岡籐次の娘婿にあたり海軍軍人でした(華譜録)
2015/09/11 Fri 09:58 [No.126]
杉さんぼく
土佐藩内抗争についての鳥取藩慶応丁卯雑記資料(慶応3年11月23日挙記-東大資料編纂所)を紹介しておきます。
これにより、倒幕までの藩論統一までいってない事がうかがえます。
「元来、土藩ノ内探索候処、藩士相分レ一途ハ白川組諸浪士相集リ頻リニ暴論の徒ノミ建論増長ニテ、今一途ハ後藤象次郎同意周旋ノ徒ハ、右暴論ノ徒ヲ取鎮メ居候由……梅太郎先月上旬頃、土州ヘ帰入致居候処、北国筋へ罷越、何カ周旋ヲ遂ゲ帰亰仕候跡へ今一手ノ土藩士ノ徒、同様北国へ罷越……右梅太郎ノ跡へ廻リ候亊ニ付、未ダ不発(セ)事件(ヲ)候得共、隔論相成候様子ニテ、梅太郎ト尚又今一手トハ忽チ不和ヲ生ジ、殆ド殺伐ノ次第ニ及バントスルノ事件ニ基キ候由………。」
梅太郎(龍馬)の北国筋福井藩での秘密工作成功に対して、妨害工作失敗した反対派の激怒は龍馬に向けられ、不和は高まる。
他藩の隠密探索にまで、こうした事実は知られていたのです。
続いては尾張藩雑記資料。(慶応3年11月20日付)
「卯11月17日(5日?)近江屋新助方ニ止宿候土州藩中ニテ浪士頭ノ由、斉(才)谷梅太郎、右方ェ何者共不分(ワカラズ)九人斗(バカリ)帯刀人這入、梅太郎切害ニ及ビ、其節残リ居候品、刀壱本・下駄二足・右下駄焼印一足ハ二軒茶屋中村屋印、一足ハ下河原(會々堂=正しくは口篇に+會)印コレ有リ……段々承様候処、祗園町南側永楽屋方へ遊興罷越候者三人ノ内、一人ハ土佐藩ノ良申立、二人ハ佐土原藩ノ良申立居候良ニ候へ共、全ハ当時白川ニ旅宿罷在候坂本龍馬ノ徒党ノ者ノ良相聞候へ共、聢(シカ)ト左様ハ未相分猶探索ノ上、巨細申上グベク候……。」
刺客九人の内、暗殺前夜に永楽屋へ遊興した三人が一人は土佐藩士、二人は佐土原藩士を名乗り何れも土佐藩下屋敷として福岡孝悌が買い上げた白川屋敷出入りだったという。
海援隊士佐々木多門密書第ニ信(12/18付)。
「……白川屋敷に罷在候海援隊の内、…病人も有之、不取締にも有之候間…、小子は右取締致呉候様、長謙(長岡謙吉)始、北山大演(謎の海援隊士)より小子ェ相頼候へ共、辞退仕候処、隊長相極候へば、夫々役人も相定り可申候間、外に人無之是非共、承引致呉候様にとの亊にて、当十日(12月)より白川屋敷ぇ引移リ取締方仕居申候…」
謎の未確認海援隊士・佐々木多門に北山大演の登場は、果たして龍馬暗殺に関わりを持つのだろうか。
2015/09/11 Fri 10:03 [No.127]
杉さんぼく
東大維新資料編纂所の資料に、鳥取藩丁卯筆記と云うリアルタイムな探索方記述があります。
「…右三人の死骸、神道の式をもって…高台寺の南隣、国阿上人の旧跡霊山山内、村上歳太郎請け持ちの山地に埋葬に相成り、右山地埋葬の場所へ続きをもって一見仕り候ところ…檜木五寸角くらいの標木、長さ五尺くらい三本建て並べこれあり…坂本龍馬紀直柔神霊、裏に慶応三年丁卯十一月十六日神去三十三才とあい記しこれあり、左の方向同断標面、中岡慎太郎道正神霊、裏に同断年号月日とも、下に三十才と認めこれあり、右の方標面、籐吉神霊、裏に前同断、下に十九才とあい認め記しこれあり候…」
と、葬儀の翌日に墓碑の前に立った鳥取藩探索方が書き残して報告しています。
この記述を改めて見ると、今の龍馬慎太郎墓との違いがあるのは判りますか?
現在の墓は、右手に「中岡慎太郎道正之墓」
左手の真ん中に「坂本竜馬直柔之墓」
そして、囲い外には「藤吉之墓」です。
これは一般的かどうか判りませんが、著名ランクの本来なら一番右に龍馬であり、慎太郎はその次の位置にある訳です。
つまり、集合墓なら一番が右に龍馬であり、左に慎太郎との順番になります。
さて、そこで鳥取藩探索方のリアルタイムな記述です。
「…右三人の死骸、神道の式をもって…檜木五寸角くらいの標木、長さ五尺くらい三本建て並べこれあり…坂本龍馬紀直柔神霊、裏に慶応三年丁卯十一月十六日神去三十三才とあい記しこれあり、左の方向同断標面、中岡慎太郎道正神霊…」
と、葬儀の翌日に墓碑の前に立って報告しています。
「右三人の死骸、…三本建て並べこれあり…坂本龍馬紀直柔神霊、あい記しこれあり、左の方向同断標面、中岡慎太郎道正神霊…これあり…」
当初は、右に龍馬、その左に慎太郎だったのですよ。
いつから代わったのか?疑問に感じざるを得ません。
2015/10/06 Tue 06:37 [No.146]
杉さんぼく
龍馬さんの兵法目録が、おまさんらぁ、それが行方不明なのを知っちゅうか…とテレビ局に掛かって来た電話から、FNS大賞ノミネートされたテレビ番組が、2002年10月(高知は7月)に放送されました。
高知から出た今回の発見ニュース(2015年11月)、やっと世に出てきたか、と言うところです。
指定暴力団会長(当時)を尊敬しているという○氏が、竹中清水氏から中内知事にあった兵法目録を手に入れて、桂浜龍馬会なる架空団体名で桂浜の闘犬センター(現在はない)で展示されていました。
中内知事から手に入れた○氏の、いずれしかるべき場所に皆さんへ見て貰うよう披露したい、との事で、番組は終えていました。そうした中で、今回高知県内で出てきたわけです。
金策に困って売却したかどうかは、新聞記事見てないのでなんとも言えませんが、本来は竹中清水氏から高知県の手にあるべき兵法目録ですから、収まる所に収まって欲しい限りです。
竹中清水氏(たけなかきよみ)は、若くしてアメリカに渡り、サンフランシスコのジャンクマーケットで手に入れたそうで、土居晴夫(龍馬縁者)氏は、ばくち騒ぎで亡くなった船乗りの坂本直衛が龍馬関係資料を売り飛ばした、と推測します。
海援隊始末記などを著した歴史家平尾道雄先生や龍馬全集編纂の宮地佐一郎先生などの著作中では、竹内清水氏となっていたのが、竹中氏の間違いだったのが、この番組で判明しました。
深夜放送でしたから、観た方は少なからずや、否や。
2015/11/10 Tue 21:13 [No.191]
杉さんぼく
2002年10月(高知は7月)に放送されて以来、行方知れずの龍馬兵法目録。
広域指定暴力団会長(故人)を尊敬しているという○氏が、桂浜龍馬会なる架空団体名で桂浜の闘犬センター(現在はない)に展示していたのを、龍馬生誕150年の折りでしたかに確かに見ました。
結局、そのいきさつがTVに出た以上世に出せず、金策に困って内々に売却したのかも知れません。
その〇氏とは広瀬勝氏の事で、既に故人になっていました。
だから、渡り渡ってか、現出したのではないでしょうか。
2016/01/07 Thu 00:45 [No.234]
杉さんぼく
実録・維新十傑「坂本龍馬-中岡慎太郎」(昭和10年平凡社)を書いた、講談師として名を馳せた伊藤仁太郎痴遊が、昭和2年2月4日に東京放送局で放送した「龍馬の死」で、龍馬暗殺者として、十津川浪士・山田五郎右衛門の名前をあげています。(同書)
はて…。
伊藤痴遊ほど維新資料を集め、読み込んでいる人はいないだけに、この名前はどこから来たのでしょう。
土佐の詩人嶋岡晨氏は小説ながら、岡田以蔵の弟だったかの名前で西尾佐喜市を暗殺者として、列記しているのは分かるにもせよ、伊藤痴遊の山田五郎右衛門っていうのは気になって調べてもよく判りませんでした。
どなたかご存知ないか、というところで、この放送の後日談があって面白い。
龍馬崇拝者であるという杉山又男なる時事新報新聞記者が、放送後に憤慨した手紙を送って来た、とそれを紹介しています。
曰わく、
隆盛や龍馬を語るには、それ以上でなければ資格がない
単なる講談師が龍馬を中岡慎太郎以下に扱ったのは言語道断
薩長連合なども龍馬がいなければ、木戸は如何とも出来なかったではないか、西郷や木戸、高杉などは一小河童に過ぎない
龍馬についての講談するならもっと伝記を研究すべし、その誠意なくば、後龍馬について一言も述べるからず、と龍馬に代わって厳命しておく…
いやはや、いつの時代もいるもんです。
今でも、司馬遼太郎著の竜馬がゆくだけで竜馬は語るにしても、龍馬を語らないファンがいますからね。
2015/12/02 Wed 22:12 [No.207]
杉さんぼく
また、以下のような話もあります。
痴遊氏が龍馬暗殺遭難について新聞に書いたら、浜松の代議士候補にもあがる中村四郎兵衛という人の書簡から、元新選組隊士の話を紹介しています。
…小生知己に永田克忠と申人有之…、同氏も新選組の一人にて、病気の為、刺客に加わらず候へ共、全く坂本暗殺者は今井信郎、渡辺一郎、高木啓次郎三人に相違無之、今井は祿七俵の所、右功により六百俵に加俸相成…
永田克忠…。
とある説には、旗本永田某が暗殺者だったともあったりしますから、永田某の名前は気にはならなくもありません。
この本を改めて見ていたら、意外な事に気付きました。
寺田屋にある龍馬忠魂碑、恩賜記念碑の両碑文は、なんとあの梅田雲濱遺稿並伝(昭和4年)梅田雲濱先生(昭和8年)の著書に名がある佐伯仲蔵氏が代作した、というのです。
…坂本龍馬氏に就き、御講演ある由、別紙両碑文は小生の代作せしものにして、此顛末に就きては、種々詳しく申上げたくも…取敢ず御参考迄に貴覧に供し候…。
おーっ、さすがは佐伯先生です。
今やなかなか手に入れるのは難しく、復刻もされない梅田雲濱遺稿並伝、梅田雲濱先生を著した佐伯仲蔵氏が龍馬忠魂碑、恩賜記念碑の代作したとは…。
杉山又男氏も気付かない痴遊氏の「坂本龍馬・中岡慎太郎」伝でした。
中岡日記や結城無二三、龍馬関係文書などの資料満載で、伊藤痴遊氏の「坂本龍馬・中岡慎太郎郎」は、片眼を瞑ってもまさしく入門編にお薦めです。
2015/12/02 Wed 22:26 [No.208]
杉さんぼく
龍馬惨殺day
慶応3年(1867)★11月15日
(新暦1867☆12月10日)
平成27年(2015)(☆11月15日★旧10/4)
(★11/15→旧暦★12/25)
(☆12/10→☆10/29)
平成28年(2016)(☆11月15日★旧12/13)
(★11/15→旧暦★12/13)
(☆12/10→☆11/12)
平成29年(2017)(★11月15日★旧平成30/1/1-★2018/1/1)
(★11/15→旧★10/27)
(☆1210→☆10/23)
平成30年(2018)(★11月15日★旧12/21)
(★11/15→旧★12/21)
(☆12/10→☆11/4)
なんと、平成29年(2017)年の11月15日の旧暦、慶応3年から150年を経て、年が明けた翌平成30年(2018)1月1日です。
2015/12/03 Thu 06:19 [No.211]
杉さんぼく
龍馬惨殺day
慶応3年11月15日(新暦1867年12月10日)
この日、1867年12月10日(慶応3年11月15日)の月
新月 13日 17時 42分
半月(上弦) 20日 14時 19分
満月 28日 19時 21分
半月(下弦) 7日 0時 32分
龍馬惨殺日の夜は、下弦から新月になろうかと云う夜空で、今井信郎が陳述したようにどうやら満月でなかったのでは?
ついでに、平成27年の(2015年)11月15日の旧暦は12月25日です。
新月 11日 19時 29分
半月(上弦) 19日 0時 14分
満月 25日 20時 12分
半月(下弦) 3日 16時 40分
まさに満月です。
Xmasの夜でもあります。
2015/12/03 Thu 06:54 [No.212]
杉さんぼく
龍馬惨殺本のお薦めには、「龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた」(中島信文著-彩流社刊2012)です。
曰わく「暗殺通説は、事件現場にいなかった土佐藩要人ら一部関係者による証言から事件後出来上がっており、…全て、土佐藩の武士が関係、関与しないと近江屋事件は無理がある」として、実によく調べています。
「龍馬を殺したるは実弟只三郎なり」と、実兄・手代木勝任が述べた資料についても、実は戊辰戦争で赦されるとなぜか明治5年、高知権参事に出仕、他藩から恵まれた土佐藩援助のもとに生きた、とその関係を紹介しています。
今井信郎→西郷隆盛
渡邊篤→海江田信義
の繋がりにも似てなくもありませんね。
龍馬書簡に見える「…寺町ニ川村盈進入道ニ行合…」(慶応元年9月7日権平 乙女宛)
「入道盈進までおんこし被成候…もし入道盈進がおくに二かへり候時ハ、伏見二て…」(同9月9日乙女宛)
の入道川村盈進が、龍馬旧知の医師にもかかわらず、土佐藩から駆けつけての死体検案書がないのは不思議なのはむべなるなかです。
龍馬惨殺の夜は、雨上がりの月夜だったのでしょうか?
その運命を予言したかのような龍馬の極月書簡がいまに残ります。
「…世の中の事ハ、月と雲、実二どフなるものやらしらず、おかしきものなり。…年のくれハ、米うけとりよなどよりハ、天下のセ話ハ実二おふざツパいなるもの二て、命さへすてれバおもしろき事なり」(慶応2年12月4日)
そう言えば、毎年の旧暦11月15日は満月か満月前夜です。
まさに、世の中は月と雲、人生終わるもおもしろきかなかも知れませんが。
世の中と言えば、
龍馬の歌の流布。
「世の中の人は 何ともいはゞ
いへ 我がなすことは我れのみぞ知る」
正しくは
「世の人は われをなにともゆはゞいへ わがなすことは われのみぞしる」
「…うちにいるのに こゝろのやみぢ さぐりさぐりて いでゝ行」(龍馬里謡)った龍馬dayの満月前夜、天に意志がある年の暮れゆく空があります。
今井信郎が述べた「雨上がりの月が煌々と輝いていた」、満月前夜19時21分の天気良ければの、龍馬慎太郎惨殺の月の光を見て、旧暦のその日こそ季節の体感を感じ、初夜の頃に龍馬・慎太郎、そして雲井龍藤吉を偲びましょう。
2015/12/03 Thu 07:11 [No.214]
杉さんぼく
龍馬の本家になる才谷屋文書(六代直益順水日記)の記述に、日下茂兵衛と言う土佐のネズミ小僧なる、享保の頃の怪盗の事が記されています。
本当にいたのだろうか、と伝説説、実在説の論議がある中、才谷屋文書に実在説の記載があったのです。
享保六年九月四日夜、蓮池町牢舎の罪人日下茂兵衛といふもの、相牢の者の銀を盗み取り、牢をぬけ欠け落ち仕る…。
貧農に生まれた茂兵衛、奉公した庄屋の娘との恋仲を阻止され、死に場所求めて、とある洞窟に入りました。
そこで、天狗か仙人にかに救われ修行、忍術の奥義を極めた、というわけです。
この忍術で、豪商や殿様の屋敷に忍び込み、盗んだお金はネズミ小僧のように貧しい人々に施したとされ、伝説ヒーローになりました。
なお、数十年前に丹中山(たんちやま)で、順水日記を残した直益さんのお墓発掘に出会えました。
その折り、拵えも立派な銀のキセルが、炭をひいた土の中から出て来ました。
このキセルを使いながら、土佐のネズミ小僧の事を順水日記に書いたのだと思うと、なかなかに感慨深くもあります。
参考
伝説の里を訪ねて(高知新聞学芸部編1994)
2016/01/20 Wed 06:43 [No.239]
杉さんぼく
数日前の朝日新聞「教えて」欄で、「建立」(こんりゅう)の読みについて、鈴木明雄企画委員が答えていました。
身近に、他の読みでは「立=りゅう」の読みは見当たらない、と。
しかし、坂本龍馬を立馬と読む例のあるのが龍馬関係者なら、知られています。
新選組隊士で、後に高台寺党として分離した服部武雄こと三郎兵衛良章36歳が、慶応3年11月19日(1867)新選組との争闘、油小路にて闘死した時に、以下の詩歌が懐にあったと言うんですね。
坂本立馬主横死の由を聞きて
「たずぬべき 人もあらしの 激しくて 散る花のみにぞ 驚るかれぬる」(『近世殉国一人一首伝』)
ご存知のように、当時は音訓さえ通れば当て字もすくなくともなかったようです。
件(くだん)の坂本龍馬をも、桂小五郎や岩崎弥太郎などは、龍馬を「良馬」と書いた当て字をしていますから、あながち、「立馬=りゅうま」の読み当て字もないとはいえませんね。
ちなみに、昔は「りゅうま」での呼称でしたが、今は「りょうま」のようです。(2016/2/1記)
2016/02/02 Tue 14:47 [No.243]
京都歴史研究会・代表
お龍さんは、
おりゅうさん でしたか?
2016/02/05 Fri 22:19 [No.244]
さんぼく
お龍さんは、お良でしょう。
龍馬自身が同じじゃなあと、手紙で言ってますね
よってお龍の読みを「おたつ」と読んだか書いてある若きお龍写真は、疑問符が付きます。
2016/03/01 Tue 17:22 [No.247]