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杉さんぼく
幕末維新、息2人と共に親子で戦死して死んだ話では、中島三郎助がいるのが巷間知られています。
同じような話を、敦賀の水戸浪士墳墓から読み取れます。
それが、水戸石名坂の黒澤八十衛門、利八郎、新次郎親子です。
水戸藩尊攘改革派で、水戸藩から麻裃一代着用を許された八十衛門は、水戸筑波挙兵に利八郎、新次郎を伴って参加しました。
そして、西上長行路の敦賀という異郷の地で、八十衛門は斬首惨殺前に病死し、利八郎、新次郎は悲痛な惨殺の最後を遂げました。
その死後の家系は、八十衛門の女婿新介が跡を継ぎ、現在、水戸黒澤家の庭には三人の顕彰碑が建てられていると言います。
こうして親子での情熱ってすごくはありませんか。
敦賀の武田耕雲齊墳墓にその名前があれば、そんな感慨の供養にふけってみるのも悪くはありません。
ちなみに、天狗党由来。
斉昭の兄、八代藩主斉脩(なりのぶ)文化文政時代からのようで、斉昭の新伊勢物語には以下のように記されています。
江戸にては口慢者杯を天狗と申歟に承り候所、水戸にては義気有之有志の者を天狗と申候。…今日の暮(くらし)にも指及ながら…容易に人に出来不申事を致候を中々人の出来候事に無之、天狗に可有之と感心致候より、義気強く国家の為に忠を存候者は何れも天狗の仲間、是も天狗の仲間と申様に相成候義にて、天狗と申は拙老が国にては義勇のかへ名と申者にて、江戸にて申候とは相違に有之候…。
いわば、改革派の下級武士層集団でした。
かたや、諸生党。
水戸保守、佐幕派が藩校弘道館の諸生徒に手を廻して「諸生」の名で建言書を出した事から、諸生党と呼称されるようになったわけで、この代表が天狗党弾圧をし、逆に明治になってから、武田耕雲齊遺児などに惨殺された市川三左衛門です。
残念ながら、水戸浪士天狗党はいまだに子孫探しがリアルタイムで進んでいるようですが、諸生党子孫探しは捗らないこともあり、諸生党関連資料は多くありません。
うつ人も
うたる人も心せよ
同じ御国の
御民ならずや
あだみかた(仇味方)
カツも負くるも
哀れなり
同じ御国の人と思へば
(太田垣蓮月尼)
参考
幕末の日立(鈴木彰/郷土ひたち文化研究会1974)
2015/11/07 Sat 21:42 [No.188]
杉さんぼく
武田耕雲齋辞世
討つもはた
討たるるもはた 哀れなり
同じ日本の 乱れと思へば
咲く梅の
花ははかなく 散るとても
馨りは君が 袖にうつらん
という武田耕雲齋の和歌にちなんだのか、水戸から運ばれた水戸紅梅が多数植樹されています。
武田耕雲齋の孫に当たる武田金次郎、まだ年少だったため小浜藩に幽囚の身となり、明治元年の朝令で恩赦、京都に行き水戸に戻りました。
それにしても悔しいのは、武田家一族、その他天狗党勤王の士を無残に斬首惨殺した市川三左衛門らの諸生派だ、この仕返しをして怨みを晴らす、と同志を集め虐殺隊を組織し、諸生派を襲い斬り殺したり銃殺の挙に出ました。
ここに横山と云う諸生派に属した屋敷があります。
当然虐殺隊は狙いますから、危機を感じたその家の女性は水戸を離れようと、山を越えた辺りで産気づき、竹薮で一人の男の子を出産しました。
明治元年9月18日の事でした。
これが後の日本画壇最高峰となる横山大観でした。
もし、母子ともに武田金次郎虐殺隊に襲われて殺されていたら、日本画壇の進歩も横山大観その人もいなかったわけになりますから、歴史の歯車って不思議です。
ちなみに、よい意味で言えば天狗党の天狗とは、常に乱世に姿を現わして、邪を正し、賞罰が厳重である…という意味合いがあるのです。(石井良一/幕末動乱異聞1969/〜改題天狗党悲史‐1983)
2015/10/28 Wed 03:52 [No.181]
杉さんぼく
敦賀市水戸烈士遺徳顕彰会は、小学生向け解説の小冊子まで無料で作られて顕彰していますね。
ましてや、敦賀と水戸はなんのゆかりもなしなのに。
観光ばかりに先行する京都の殿様観光では、ここまではしません。
もう少し、他県人の供養顕彰に力を注いで欲しいと思わざるを得ません。
この例では、東吉野の天忠(誅)組遺跡、墳墓も同様で、地元ではよく供養顕彰がなされていますから感心します。
京都は観光意識よりも、地元として、こうした供養顕彰をする気持ちをもう少し見習わねばなりますまい。
なお、当時16棟あった鯡(鰊)倉は敦賀以外に、353人もの無念の思いをつめられて、故国水戸に運ばれ残されているのも忘れてはなりません。
当初は水戸常盤神社内に回天館としてあったのを、平成元年に水戸有志が回天神社境内に移築されたそうです。
それにしても水戸人にとって、武田耕雲齋墳墓、411柱の遺族にとっては情念の漂うばかりの墳墓かもわかりません。
なかなか立派な墓域で、なんと国史跡なんですね。
2015/10/28 Wed 03:48 [No.180]
杉さんぼく
天狗党死の長行路(出発時は1000余人が800数余人になり、この中の500人余りは水戸郷校で学んだ若者農民たちだった)で、揖斐根尾川へ向かう途路に、西郷吉之助使者として中村半次郎が来て、本道を西に進んで慶喜公に降伏すれば…と勧めているのは、西郷の意見か薩摩の意見かは計りかねる点は否めず、寺田屋事件の前例があるだけに、この点に疑問も残ります。
大久保同様に、前述したように西郷も後に天狗党惨殺処刑について「降伏者を殺したのは武士道にはない、もっと丁寧にすべき、降伏者を苛める武士道は薩摩にはない」
と幕府に述べています。
安政大獄で、西郷は月照上人さんと共に薩摩に逃げた時、薩摩の為に尽力した月照上人さんを匿う義理も果たさず、義理立てした西郷が一緒に投身せねばならなかった事実、寺田屋事件で田中河内介父子などを惨殺した事実からすれば、やはり、水戸が長州に繋がるがゆえに、何も天狗党には出来なかったのかも知れない、そんなこんな風に考えてしまいます。
しかし、偉いですね、地元にしたら迷惑だっただろうし、さりとて死んだら皆、平等で可哀想だろう…これを語り継ぐ、この地に科せられた供養顕彰、と今に伝える鯡(鰊)倉…。
2015/10/28 Wed 03:37 [No.179]
杉さんぼく
長行の果てに頼る慶喜公は、元冶元年12月17日に禁裏総督として間近の近江海津まで出張っていました。
天狗党を討つべし、と手柄に逸るその弟昭徳(昭武)も来て布陣します。
結局、事が済むや慶喜公は「この際の処置決まり安心に候」と書いたりもしていますから、自分の立場にほっとしたのでしょう。
或いは皮肉な事に、以下のような逸話もあります。
死罪を免れた人たちを諸藩に預けようと、幕府は薩摩にも打診し、船を敦賀に回して受取に来いと通達しました。
そこで、西郷吉之助が書簡を書きます。
「降伏者を殺すのは日本武士道にはないことだ、それを殺した、命を助けた人間はもっと丁寧にしなけりゃならん、降伏者を苛めるという武士道は薩摩にはござらん、よ ってお断りもうす」
薩摩の作家海音字潮五郎氏が紹介し、以上の話を述べています。(昭和51年-NHk日本史探訪)
いささかの薩摩贔屓があるにしても、では、ではと、田中河内介父子や海賀宮人等への薩摩のとった惨殺行為はどうなんだ、との異論がなくもありませんが…。
いずれにもせよ、幕末維新での水戸の内部抗争は悲劇であるのは変わりありません。
そこには、水戸は破壊、長州は構築とした水長の成破盟約の結果だったとは言え、藤田小四郎に桂小五郎が千両もの軍資金援助をしたのがそれを物語ります。
2015/10/28 Wed 03:34 [No.178]
杉さんぼく
天朝だ、大樹公方さまだ、と喧しいあの時代はどこの藩、家中でも、勤王佐幕の内部抗争はありました。
しかし、水戸人は何人の人が尊王攘夷の名で、外に向かわず、内に闘いの内乱抗争で亡くなったのでしょう。
福井は敦賀の地、1000人余りが水戸から長行したその果ての、天狗党の悲劇353人の墳墓、敦賀湾近くの松原神社には411柱が祀られていて、今も子孫探しをしている研究会、顕彰会のいわゆる茨城県人は必ず来訪するとされる、いわゆる聖地です。
天狗党内乱の犠牲者は全体で1302人、農民716人、水戸家中士454人、郷士49人他で、水戸全体殉難者はゆうに3千数百人以上に登ります。
時に慶応元年、というより現地墳墓、松原神社での解説文では、4月7日(1865/5/1)慶応元年改元前の元冶2年2月4日(1865/3/1)、この日を皮きりに武田耕雲齋諸将24人斬首後、23日までに353人が断罪処刑されました。
通説での投降者は824人とされていますが、2月19日付け加賀藩軍監永原甚七郎の掲示では、元冶元年12月19日767人降伏とありますから、こちらが正しいのでしょう。
2015/10/28 Wed 03:27 [No.177]
杉さんぼく
吉田松陰が処刑された翌年の万延元(1860)年7月2日に、桂小五郎と村田蔵六が連名で幕府に提出した「竹島開拓建言書草案」は、松下村塾の竹島開拓論の集大成といって良いかもわかりません。
まず開拓の必要について。
竹島は長門国萩より東北の海上約50里にあって、朝鮮から竹島までも約50里なのでほぼ等間隔にある事。
最近外国船が竹島周辺に出現するようになってきており、植民でもして国防を考える必要がある事。
北前船が下関へ往復する時暴風暴波の折には竹島に碇泊して天気の回復を待っている事。
すでに島には日本人が建てた人家が5、6軒はあると聞いている事。
かって朝鮮国へお渡しになったという風聞もあるが、朝鮮人の渡海は皆無である事。
世界地図を見ると日本と同じ色に着色され、島名も「タケエイ・ララド」と記され、日本の属島と認識されているのが明白である事。
万一この島が外国の手に落ち植民でもされた時は、日本や直近にある長州にとって多大の禍になる事。
と、これらが急務であり必至であるのを列挙しています。
この竹島開拓建言書草案は、幕府の閣老久世広周(くぜひろちか)に提出されましたが、藩主建白書でないという理由で却下されています。
まさに内憂外患の政治状況でした。
ということで、まずは思うままに…。
2015/10/23 Fri 06:47 [No.176]
杉さんぼく
幕府の鳥取藩への、元禄9年1月28日(正月廿八日)[西暦1696年3月1日]付老中の連署布達
「向後 竹島へ渡航之儀 制禁 可申付旨 被仰出之候間」因幡鳥取藩藩主池田綱清(松平伯耆守)宛で、竹島(=現鬱陵島)渡航禁止を通告しています。
幕府の見解は、竹島(=現鬱陵島)には、我が国の命により日本人の竹島(=鬱陵島)への出漁を禁じたことを知らせました。
龍馬が知らなかった布達ですが、さすがに情報通だったのが桂小五郎です。
安政5年7月11日付けの桂小五郎宛て書状がそれを記している。
「竹島・大坂島・松島合せて世に是れを竹島と云ひ、二十五里に流れ居り候。竹島計り十八里之あり、三島とも人家之れなく候。大坂島に大神宮の小祀之れあり、出雲地より海路百二十里計り。産物蛇魚類、良材多く之れあり、開墾致し候上は良田美地も出来申すべし。此の島蝦夷の例を以て開墾仰せ付けられば、下より願ひ出で航海仕り候もの之れあるべく候。」
松浦武四郎の「竹島雑誌」が竹島の周回を16里、出雲の島根半島の雲津から隠岐経由竹島までが約120里としていること等から考察すると、竹島から松島まで25里は同じ鬱陵島を竹島(アルゴノート島)と松島(ダジュレー島)とした1840年以降のシーボルトの「日本図」に合致しています。
松陰が「万国地図」、すなわち世界地図から竹島を確認し、最近まで元禄竹島一件の事は知らなかった、と語っている事からも島も現在の竹島でないのが判ります。
時に、大坂島を大坂浦とされるが、大坂浦に近い島の意味で、竹島とも呼ばれていた竹嶼の事かも知れません。
2015/10/22 Thu 19:07 [No.175]