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杉さんぼく
天明5年(1834)、大坂の医者らしい穿鑿好きの好事家が書いた「浮き世の有り様」全13巻(日本庶民生活史料集成J巻/1970/三一書房)の中で、大塩平八郎の乱に関しては、天保8年雑記6〜8巻に記載があり、かなりの記述が割かれています。
今でいえば、大した取材力の筆走りです。
第6巻には瓦版の写しがかなりの枚数を費やしていますから、瓦版はずいぶん出たのかも判りませんね。
大塩の乱、米価騰貴に始まり、堀伊賀守家来筆記まで、実にこまめに書いていますから驚きです。
有名な新選組の旗が「誠」一字で象徴的なのは知られていますけど、パラパラとめくるとこの本に所載されている大塩平八郎の目標旗には、桐の紋が描かれていました。
言うまでもなく、桐は今川家の紋で、大塩は今川の臣を先祖と思っていたのかも知れません。
あと「救民」、「東照大権現」「天照皇太神宮(中)・八幡大菩薩(左)・湯武両聖主(右)」の旗がありました。
詳細の興味ある方は図書館でご覧下さい。
2015/10/16 Fri 04:55 [No.165]
杉さんぼく
幕末期に活躍して人気を博した歌舞伎俳優(ワザヒト)に、三代目中村仲蔵(1809〜1886)が書き残した一代記・手前味噌(日本演劇文献研究会編1944/青蛙書房1969復刊)があります。
それによるとこの仲蔵さん、景気が悪い上に大塩事件でよりいっそう景気が悪くなった大坂の町に、活気と景気を盛り上げようと、役者たちによる盆踊りを挙行して成功した、と書いています。
大塩事件のさかのぼる事の文政12年、江戸は大火にみまわれ、芝居小屋も三座失いました。
江戸役者たちは困ります。
そこで諸国や上方に興行を持ち、仲蔵も諸国を巡っていました。
そして当時仲蔵は、鶴蔵として上方にいました。
そこで、天保8年2月19日大塩事件が起こり遭遇、その大火に遭ったのです。
それからすぐの夏、鶴蔵(仲蔵)は、役者たちによって景気付けに市街地で盆踊りを挙行しようと考えた訳です。
道頓堀より屋台を出し、この屋台には4代目中村歌右衛門等役者たちが乗り込み、市内を練り歩きました。
初日は7月11日(1837/8/11金)、人気役者が間近く見れると言うことで、評判になり、15日までのこの興行で、大坂庶民は祭礼気分に酔いしれました。
思わぬ余波は、堂島米相場が下がった事です。
大塩事件直後の高騰から、3〜4割も下落したのは、仲蔵たちにとっても予想外の何ものでもありません。
「…12日、堂島の米相場少しさたるゆゑ、弥々イヨイヨ今度の盆踊りは豊年の吉兆なりとて悦びあふ…益々世直しと言ひ囃し、大塩が噂も終に薄らぎ、太平の元に復したる」(手前味噌「天保の飢饉に一役をかふ」・青蛙房1969)
以上、大塩事件余話でした。チャンチャン。
なお、この仲蔵一代記を元ネタにした小説なら、仲蔵狂乱(松井今朝子)がお薦めです。
2015/10/16 Fri 04:49 [No.164]
杉さんぼく
その一例に清河八郎の話をします。
この清河八郎が安政2年、母親他を伴って京都を始め伊勢や金毘羅、岩国等を廻った日記「西遊草」を残しています。
むろん大坂にも泊っています。
しかし、清河八郎なら大塩平八郎事件に興味持ちそうと思うのに、各地では旧跡に興味を示しながらも大塩事件遺跡には全く触れていません。
「心斎橋通は大坂第一にぎはひの町にて、夜店のにぎはひをびただし…中の芝居にいたる。四、五町先の道頓堀にあり…狂言も至て手抜多く、さらに見る事もなけれども、やはり面白く遊覧せしとぞ…大坂の芝居は江戸にひとしき事のよしゆへ…今日のみにあらぬゆへ、またみるべき折もあらん…」(安政2年5月30日=1855/7/13金)
江戸時代の娯楽は、やはり芝居や狂言、浄瑠璃等が主流でしたから、大塩事件もそうした演目、題材で多種多様あればまた違ったかも知れません。
歴史の事実と嘘と虚構の、面白き虚構表現伝播恐るべし…。
「…相変わらず不景気と見へ、昔日の大坂にはあらざれども、三都の事ゆへ、所によりにぎわひはかわらざるなり。されども町人の地にて、武士気のもののあるまじき所なり。此又自然の勢ひなり」(安政2年5月30日=1855/7/13金)
参考=西遊草(岩波文庫 小山松勝一郎校注1993)
2015/10/16 Fri 04:46 [No.163]
杉さんぼく
大塩事件に触れます。
天保8年2月19日(1837年3月25日土)の朝、自らの屋敷に火を放って、大坂町奉行与力大塩平八郎中齋が救民救済の為に決起しました。
大塩平八郎の乱として世に伝わる、明治維新より30年前の事です。
幕末維新を語る時、その始まりをこの@大塩平八郎の事件と見るか、或いはAペリー来航と見るかの評価が分かれます。
徳川幕府弱体化のその崩壊の兆しが、外圧からならA、内圧事件からなら@と言うのが、学術的な評価のようですね。
この事件の影響に呼応して、摂津能勢の山田屋大助の乱や、越後の生田万の乱などがあるにしても、やがて来る幕末混乱期にはどうも大塩平八郎事件は関心がいかず、あまりにも有名な忠臣蔵・元禄赤穂事件の方が、勤王佐幕を問わず興味がもたれていたようです。
薩摩藩士などが回し読んだのも赤城義人伝です。(長州藩士もか)
そこには、多分に今も昔も変わらずで、目でみる流行りものに心騒いだ心情があったのかも判りません。
中でも歌舞伎芝居などが人気を博しました。今なら、テレビ、ドラマ、映画に当たるでしょう。
歌舞伎は当時、庶民にも判る世界で、今はかなり高級感がありますから、江戸時代人が盛り立てた歌舞伎ってすごいなあ、の感です。
2015/10/16 Fri 04:33 [No.162]
杉さんぼく
人斬り以蔵、誰が言い出したか。
幕末維新での同時代資料には、人斬り半次郎とか、人斬り新兵衛、そしての人斬り以蔵…、結局は、維新後に語られ創られた呼称でしょう。
そんなひとりに明治を迎えた人斬りに河上彦齋がいます。
人斬り彦齋?、俺は人斬りか、人斬りと言われるほど人を斬った事などないぞ、と言ったとか。
この例は、半次郎、桐野利秋も同様で、表向きは赤松小三郎を斬ったと京在日記で明かした以外ありません。
しかし、あいつなら人を斬りそうだ、だから人斬りだ、との冠称がついたと思われます。
おまけにそんな人間は、皆な無学なんだ、とされました。
とはいえ以蔵、龍馬より早く西洋砲術を徳弘董齋に習っていて、読み書き算術は出来てはいたのは否めません。
ついでに言えば、司馬遼せんせが書くように以蔵は足軽ではなく、4代前に郷士株が取得された郷士でした。
元治元年の浪士摘発で、以蔵は捕縛、所司代から町奉行所、土佐藩へと身柄拘束されるなか、鉄蔵として、額に入れ墨をされた、と「土佐勤王史」「土佐偉人伝」は記載しています。
額に「犬」の文字を、一画ずつ彫られ、一画増すごとになり最終的には死罪の刑でした。
この刑典は、幕末まで続いた元禄元年(1690)制定の元禄大定目により、私娼売春行為で実際に焼き印追放もあったそうです。
あるいは、売春行為で2人の女性「かね」「はつ」が併合刑で、鼻を削がれて追放刑になった、とかの酷い刑もありました。(土佐藩法制史-吉永豊実1974)
が…。
以蔵は額入れ墨ではなく、腕への入れ墨でした。
「以蔵…浪花より来着…刑もまた重かるべし…公辺よりは腕へ入れ墨の上、追い払いとなり…」(元治元年6月25日付け伊藤善平書簡)
以蔵、慶応元年閏5月11日斬首、28歳、雁切橋河原に晒さる。
昭和58年11月、高知県護国神社に土佐勤王党同志として、合祀されました。
2015/10/15 Thu 20:40 [No.161]
杉さんぼく
タイトル藤木斎になって、すんまへん。
単なる打ち間違えで深謝で…。
誤植訂正の打ち方分かりません〜。
2015/10/15 Thu 20:02 [No.160]
杉さんぼく
ですね。
結局は、浪士並びに勤王方取締の事件だったんでしょうか。
近藤局長は「洛陽の騒動」と確か書簡で記していますし、六角獄舎の村井正禮は「三条逆旅」と言って累史を残しました。
総合資料館資料「人のうわさ」は、やはり風聞だけにその辺りに触れています。
従って、三条池田屋だけの話ではありません。
2015/10/15 Thu 00:17 [No.159]
杉さんぼく
資料=新撰組油小路事件の死体検案書
一、藤堂平助(南部弥七郎)弐拾八、九才位
疵所両足、横腹弐ケ所。
面上鼻より口へ掛(け)深さ二寸程、長さ七寸斗り、刀を握り候儘果て。
一、同所辻北東手に倒れ果て居り候ものは、三宅安兵衛(服部武雄)三拾才位
疵所背中数ヶ所、これは倒れ候ところを散々に切り付け候趣にて、疵の数分からず。
うつむせに倒れおり候を、翌日あおむけ候ところ、腕先三ヶ所、股脚四、五ヶ所、かか先(踵)一ヶ所、胴腹一ヶ所、流血夥し。
一、油小路通七条少し上ル東側へ寄り倒れ果て居り候は、寺(毛)内監物 三拾弐、参才位
疵所書き尽くし難く、五体散々離れ離れに相成り、実に目も当てられぬ斗に御座候。
傍に刀の折れ候儘捨てこれあり、脇さし握り候儘果て居り候。(鳥取藩慶応丁卯筆記より)
2015/10/14 Wed 12:47 [No.156]