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  1. 龍馬惨殺余談(-)
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  3. 龍馬余談(-)
  4. 「龍」と「竜」表現(-)
  5. 幕末の象徴は楠公さん(-)
  6. Re: 江戸時代に藩は無かった(-)
  7. 歴史語り(-)
  8. 安島帯刀余話(-)

龍馬惨殺余談

さんぼく

土佐藩内抗争についての鳥取藩慶応丁卯雑記資料(慶応3年11月23日挙記-東大資料編纂所)を紹介しておきます。
これにより、倒幕までの藩論統一までいってない事がうかがえます。

「元来、土藩ノ内探索候処、藩士相分レ一途ハ白川組諸浪士相集リ頻リニ暴論の徒ノミ建論増長ニテ、今一途ハ後藤象次郎同意周旋ノ徒ハ、右暴論ノ徒ヲ取鎮メ居候由……梅太郎先月上旬頃、土州ヘ帰入致居候処、北国筋へ罷越、何カ周旋ヲ遂ゲ帰亰仕候跡へ今一手ノ土藩士ノ徒、同様北国へ罷越……右梅太郎ノ跡へ廻リ候亊ニ付、未ダ不発(セ)事件(ヲ)候得共、隔論相成候様子ニテ、梅太郎ト尚又今一手トハ忽チ不和ヲ生ジ、殆ド殺伐ノ次第ニ及バントスルノ事件ニ基キ候由………。」

梅太郎(龍馬)の北国筋福井藩での秘密工作成功に対して、妨害工作失敗した反対派の激怒は龍馬に向けられ、不和は高まる。
他藩の隠密探索にまで、こうした事実は知られていたのです。
続いては尾張藩雑記資料。(慶応3年11月20日付)
「卯11月17日(5日?)近江屋新助方ニ止宿候土州藩中ニテ浪士頭ノ由、斉(才)谷梅太郎、右方ェ何者共不分(ワカラズ)九人斗(バカリ)帯刀人這入、梅太郎切害ニ及ビ、其節残リ居候品、刀壱本・下駄二足・右下駄焼印一足ハ二軒茶屋中村屋印、一足ハ下河原(會々堂=正しくは口篇に+會)印コレ有リ……段々承様候処、祗園町南側永楽屋方へ遊興罷越候者三人ノ内、一人ハ土佐藩ノ良申立、二人ハ佐土原藩ノ良申立居候良ニ候へ共、全ハ当時白川ニ旅宿罷在候坂本龍馬ノ徒党ノ者ノ良相聞候へ共、聢(シカ)ト左様ハ未相分猶探索ノ上、巨細申上グベク候……。」

刺客九人の内、暗殺前夜に永楽屋へ遊興した三人が一人は土佐藩士、二人は佐土原藩士を名乗り何れも土佐藩下屋敷として福岡孝悌が買い上げた白川屋敷出入りだったという。

海援隊士佐々木多門密書第ニ信(12/18付)。

「……白川屋敷に罷在候海援隊の内、…病人も有之、不取締にも有之候間…、小子は右取締致呉候様、長謙(長岡謙吉)始、北山大演(謎の海援隊士)より小子ェ相頼候へ共、辞退仕候処、隊長相極候へば、夫々役人も相定り可申候間、外に人無之是非共、承引致呉候様にとの亊にて、当十日(12月)より白川屋敷ぇ引移リ取締方仕居申候…」

謎の未確認海援隊士・佐々木多門に北山大演の登場は、果たして龍馬暗殺に関わりを持つのだろうか。

2015/09/11 Fri 10:03 [No.127]

龍馬惨殺秘話余談

さんぼく

30年以上前の11月15日昼のTV「おもいきりテレビ」での放送、「今日は何の日」を記憶されている方はおられるだろうか。

この日は龍馬暗殺デーだったから、昭和初期の坂東妻三郎主演「坂本龍馬」からの暗殺場面ラストシーンが流されました。

この感想をみのもんた司会者が、ゲストコメンテーターの實吉達郎氏(広島出身の動物学者)にコメントを求めました。

「(龍馬暗殺の)死の謎が、本当はあの映画で映した様にはなっていないんですね……。
実は私の曾祖父は福岡孝悌と申しまして…龍馬を知っておりまして、死の真相もある筋から知っていたそうなんですが、誰が聞いても、いや、あれは言っちゃあいかん事になっとるんだ、と言いました。それは公開出来ない様な誰かが犯人だったんじぁあないか、と思います。……暗殺した人が、今(放映)した様に、佐々木只三郎、…そうじゃあないんだ、と。」

と、實吉達郎氏はこうコメントしました。

生番組だっただけに、チェックが効かず、しばし呆然自失でした。
この番組ディレクターの中に、長州の白石正一郎縁戚がいたのも奇遇としか言いようもありません。
因みに、実吉家は福岡籐次の娘婿にあたり海軍軍人でした(華譜録)

2015/09/11 Fri 09:58 [No.126]

龍馬余談

さんぼく

太宰治が坂本龍馬に触れた話があります。

ある友人が突然太宰を訪ねて来た時の事を後に振り返って太宰が言った次の一言。

「あの時は坂本龍馬でも来たのかと思ったよ」

この友人を義母に紹介した折りも次の様に言う。

「僕たちは明治維新の志士くらいの気概はあるんですからね、オッ母サン。坂本龍馬や高杉晋作だってこんなものですよ」

そう言えば、若い10代の頃の初期に習作で奇兵隊を書いていましたから、太宰は幕末維新に興味を抱いていたのでしょう。

今も現代も若者の興味は変わりありませんね。

龍馬が伏見での薩摩藩士同士討ちを思って唄ったと言う里謡
「咲いた桜になぜ駒つなぐ、駒が勇めば花が散る」

これは山家鳥虫歌にあるもので、もし龍馬が知っていての話なら、高杉晋作の「三千世界…」と通ずる風流(フリュウ)かも知れません。

2015/09/11 Fri 09:56 [No.125]

「龍」と「竜」表現

さんぼく

司馬遼さんが、「龍馬」ではなく「竜馬」の文字にしたのは、明確に、小説としてのメッセージ、フィクションであるのを意識しています。

一方の「龍馬」。
この字体の重みは事実、ノンフィクションとして表現があります。司馬遼さんが歴史事実にある龍馬をリスペクトしたのが、土佐の歴史家平尾道雄氏の龍馬史観でした。
その著「龍馬のすべて」や「海援隊始末記」は、事実としての龍馬資料原点です。

平尾道雄氏はまた、昭和初期「新撰組史」「(新撰組史録)」も著していて、同じ頃に子母澤寛氏が新選組三部作(新選組始末記'新選組物語'新選組異聞)を出しています。

歴史家平尾氏の「新撰組史」の「撰」、新聞記者作家の子母澤氏の「新選組始末記」「選」の例に似ているわけです。

従って当然、司馬遼さんは知っていただけに、龍馬を尊敬して竜馬を描いたのです。

龍馬の名はここから命名された?。
「龍馬河水之端者乎、而有若斯之象兆…」(龍馬負図香炉記)

2015/09/08 Tue 10:02 [No.117]

幕末の象徴は楠公さん

さんぼく

近藤勇、号東州の知られざる和歌。

殷箕子
かくれても臣てふ道を
つくしたる
ことはしらべの名にのこりけり勇

「勇は平素の対談には声の低い人で笑窪があって、なつかしい人であったといふ。誰に学んだか知らぬが、うたも作り詩も作った。字を得候、号を東州と云うたやうである。京都にあって…夜は遅くまで書を読み、字を習ったといふ。…京都に上がる前には拙く且稜があったが、上手くなり且圓くなった。…」(医師で国文学者・井上通泰解説)

ついでながら、意外な教養人だった近藤勇の和歌、親族宮川隆司氏鑑定済みの和歌を二首紹介しておきます。


ぬばたまのゆめにてみれば
もろこしも
枕のやまのあたりなりけり


小楠公
よしの山花と匂はむあづさ弓
引かへさじのきみがことの葉
勇(宮川照司所蔵)

湊川神社まで詣でた龍馬といい、小楠公を詠う尊王だった近藤勇といい、やはりあの時代には南朝の微臣楠氏は想われていたのですなあ。

2015/09/07 Mon 08:20 [No.113]

Re: 江戸時代に藩は無かった

京都歴史研究会代表

以前、杉さんぼく氏から
聴いたのですが、

龍馬書簡には、「二本松薩邸」「二本松邸」「屋敷」(望月清平宛て-慶応3年10月18日)とあ るそうですよ。

はてさて如何に?

2015/08/31 Mon 17:43 [No.108]

歴史語り

さんぼく

西郷頼母の家族自刃で、西郷家口伝に、介錯は薩摩の中島信行(実は土佐だが)と通説にありますが、当時、中島作太郎信行は会津には行っていない、それは中島茶太郎の間違いだろう、と土佐の史家平尾道雄が論を唱えました。
ところが、、西郷家口伝に薩摩とある中島信行、実はこれは薩摩の「川島信行」が正しかったんですね。
活字、誤写で「川」「中」にデフォルメ喧伝された訳です。
この川島信行の談が、絵本西郷一代記かに記載がありますから、間違いないでしょう。
中島作太郎、茶太郎がもやもやしていましたから、これで一件落着です。
(参考資料は堀田節夫氏による)

2015/08/14 Fri 05:55 [No.93]

安島帯刀余話

さんぼく

安島帯刀、神戸で昭和2年に刊行された維新回天遺墨の非売品資料に、なぜか安藤帯刀となっていて、これは誤植ではなく編集著者(所蔵代議士)はそう思っていたようです。

安藤帯刀の名は、紀州藩の家老にその名があります。

島・藤、何れもトウと読むだけに、たまに間違いが見受けられます。

2015/08/14 Fri 05:41 [No.92]

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