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  1. 大河ドラマ『花燃ゆ』に維新は語れない(-)
  2. 気になる人々 髪結い渡世常次郎と相楽総三(-)
  3. 気になる人々 金輪五郎(-)
  4. 三島由紀夫は永井尚志に繋がる(-)
  5. 高倉健の憂いと山本周五郎(-)
  6. 高村退吾事件(-)
  7. 安島帯刀の切腹(-)
  8. 長州藩始祖譚(-)

大河ドラマ『花燃ゆ』に維新は語れない

さんぼく

維新と言えば、明治維新を想定してしまいますが、慶応4年(1868)9月7日の夜、いくつかの候補に挙がった元号の中から、天皇が引いたくじから「明治」が選ばれたと伝わります。

まあ、そんな事はないにもせよ、その選ばれた明治。

「聖人南面して、天下を聴き、明に嚮いて治む」(易経)

これは「周雖旧邦其命維新」(詩経・大雅文王)という中国の天命思想に繋がります。

「維レ新タナリ」
「維ヨリ新タニス」

明治維新は皇統化した皇国維新概念です。
維新、「君之視民如赤子、民之視君如父母」(神祗志)、「義乃君臣、情兼父子」(雄略天皇遺詔)という、皇室と国民との関係樹立するための、公議朝廷政権題目に過ぎません。

皇室天皇に帰一する家族国家理念での維新とは、大教宣布の明治3年(1870)の詔で、「百度維新、宜しく冶教を明らかにし、以て惟神の道を宣揚すべし」と、[維新][冶教][明らか]と明治維新の語源を説明しました。

でもです、当時の民衆は(明治)維新とは何ぞや、「ご一新」じゃあないのかと、「維レ新タナリ」の意味が判らなかったようです。

まさに、島崎籐村の小説「夜明け前」に言う、青山半蔵の「ご一新とは何だったのか」の何ものでもありません。
下々では、朝廷を「天朝」、徳川将軍を「公方」や「旧幕時代」と言っていたのですから。

果たして、「君、民を視る赤子の如し」「民、君を視る父母の如し」を強いて、維新、維新の題目で、「天子南面す」のごとく、魑魅魍魎が世の中に怪しく南面しようとしているのでありましょうや?の現代の歴史。

そして面白くもなんともない視聴率が下がるばかりの維新ドラマ、それが維新のありようとは、笑止千万の何ものでもありますまいて。

2015/07/28 Tue 10:16 [No.68]

気になる人々 髪結い渡世常次郎と相楽総三

さんぼく

相楽総三について触れたい。

というのも、学者志士相楽総三が郷学校設立を熱望していたのは全く知られていないからです。
以下、森安彦国文学研究資料室教授の講演(1994/7/28)を参照に紹介しましょう。

まず、ここに荏原郡(東京世田谷)に、郷学校を作った髪結い渡世の常次郎なる人物がいます。
明治維新政府は、財源のないままに各村で寺子屋とは違う学校を作らせようとしする中、郷とは村、村で学校を作らせる政策に出たのです。
そこに常次郎、独学で学び、世の中どうなってるんだ、と当時齢50歳にして子供三人を伴い、明治3年に帰郷するまでの時代を倒幕運動に奔走し、赤報隊に息子を引き連れ参加します。
この偽官軍事件での追放を受けを、斎藤寛斉と称した彼は、学校作りに呼び掛けます。

それは何故か。
相楽の意思であったと断じています。

建言書(明治18年)
謹而奉建言候
「……相楽総三ナル者拙宅江参リ面会ス、水魚交盟ヲ給ヒ……就而同氏存命ノ節…輩ニ替リ国ニ学校蒼立依頼サルル、同氏之心底感絶ス……」
知られざる相楽総三の逸話で、改めて認識を新たにした思いです。

2015/07/27 Mon 22:59 [No.67]

気になる人々 金輪五郎

さんぼく

金輪五郎(本名 志渡長治)諸説ある生年があり、20代後半から30代後半か。

秋田は阿仁銀山町、真木沢鉱山の台所手代(労働者の指揮監督役)をしていた志渡家の次男として誕生。

17〜18歳の頃、久保田の城下に出た後、渋江内膳家へ下男奉公しながら直真影流を学ぶ。
得意手を片手横面打ちだったとした。

身長5尺前後の短躯ながら五人力の肩幅がっしり型でそのいかつきは、手足を付けた衝立の様な体格だった。

年月不明ながら、そんな金輪の3尺5寸の朱鞘を越しにあびて闊歩する姿を人は、「赤鞘団九郎」と渾名した。

文久3年国抜け出奔して江戸を目指した。
おそらくこの後、赤報隊小島将満こと相楽総三たちと江戸辺りで出会い、東奔西走していたのかも知れない。

慶応2年、京都の所司代師範・大野応之助から西岡是心流の免許皆伝を受けている。

この大野応之助義章の門人には所司代のみならず、見廻組に多く、龍馬惨殺事件に名が挙がる渡邊篤、桂早之助などいる。

金輪五郎がなぜ大野応之助門下に名を連ね、免許皆伝までに至ったか。

ただ単に剣術だけに邁進していたのか、それとも、情報を得るために所司代・見廻組門下生の多い西岡是心流に学んだか、些かの疑念を感じなくもない。

その同門が龍馬惨殺に関与したか否かの慶応3年には、江戸にいて御用盗騒ぎの任務を負う薩邸浪士隊に入り、翌4年に相楽総三の赤報隊に身を置いた。

やがて、相楽総三は西郷や岩倉の命を帯びて官軍嚮導先鋒赤報隊として、中山道を進発。信州下諏訪まで進んだ所で、偽官軍の断命を下される。

しかし、金輪五郎は京都にいた為に、相楽総三たち赤報隊幹部が斬首された下諏訪の惨劇には遭遇しなかった。

赤報隊壊滅後、金輪五郎は、とにかく秋田に戻る。
しかし、血が騒ぐのかほどなく再び東征して来た官軍の戦列に身を投じて、東北各地を転戦している。

その最後、明治2年、攘夷志士として京都で大村益次郎暗殺に加わり、同年12月刑死した。

結局は、彷徨える西岡是心流の、それだけの尊王攘夷志士だったのかもか知れない。

2015/07/27 Mon 22:49 [No.66]

三島由紀夫は永井尚志に繋がる

さんぼく

三島由紀夫の母方の縁戚は旧幕老中、永井尚志だが、この読みをなおむねとか、なおひさと読んだ小説や資料が多い。
だが、この読み方は間違いだ。
正しくは「なおゆき」と読む 。
と言うのも、以下の様に孫の久富志子さんが言われている。
「父が、曾祖父の永井尚志の名前である[ナオユキ]からの[志]の一字をもらって、志子[ゆきこ]と名付けた。だから、尚志は、なおむねではなく、なおゆきが正しいのです。」

ちなみに、旧幕15代将軍徳川慶喜は、外交上はけいき・一般的にはよしのぶと普通は呼称される。
むろん間違いではないが、本来は「のりよし」という読み方が正当である。(徳川資料古文書)

2015/07/27 Mon 22:42 [No.65]

高倉健の憂いと山本周五郎

さんぼく

我等団塊世代の時代的ヒーローだった俳優に高倉健さんがいます。
その健さんが、山本周五郎作品に触れているので紹介しましょう。

…人に薦められて山周さんの「晩秋」をあわてて読んだら、骨太のしっかりした、もの凄く力強い作品だ、と思った。
自分の父親を切腹に追い込んだ相手に、心を通じさせてしまう娘の話で、何もかも人のせいにして押し付ける今の時代を見抜いて書いているその筆は凄い、黒澤明監督も行き詰まると、山周作品を読んでいたとか。
現代人が失ってしまった何か大切なものを追い求めて止まない……

そしてこの「晩秋」を読んでいただきたい、と憂いをこめて結んでいます。

健さんがまた、かくも言います。

…冬の松を表す「寒青」と言う言葉が好きだ。
枯れ果てて凍てつく風雪に、松だけが青々生きている、人生どんな厳しくあっても、自分もこの松の様に青々と、活き活きと人を愛し、信じ、触れ合い、楽しませるようにありたい……、そんなふうに生きていけたら……。
とても好きな言葉だ。

たまには、歴史に関係なくもこうした読書に親しみましょう。
それこそ、歴史に触れて、そんな風に生きて行けたら…です。
恵光院周嶽文窓居士 合掌。

2015/07/27 Mon 00:54 [No.64]

高村退吾事件

さんぼく

この事件はあまり知られてないのではないでしょうか。

上士、下士と言うよりやはり、山内氏、長宗我部氏の対峙に郷士エネルギーがくすぶっていたのかも知れません。

幕末維新前夜に起こる井口村永福寺門前事件は、他方に庄屋同盟を孕んだ事件でもありました。

昭和敗戦記念から70年、そうした中での50年と言う月日の流れが、どの程度かは類推出来ると思います。

2015/07/26 Sun 15:47 [No.63]

安島帯刀の切腹

さんぼく

「…鵜飼親子江文通およふ処より、猶右之者共、京地ニ而種々奸計を廻らし、公武御確執ニも可及場合ニ到ル段、対
公儀不軽儀、右始末不届きニ付、切腹申付ル」

公儀不軽儀…確かにきつい申し渡しですね。

これに比べて、池内陶所の「…悔自訴いたし」とかで、「中追放申付ル」処分とは。

ちょっとずるいですね。
(参考-公用秘録2007/彦根城博物館)

2015/07/26 Sun 15:37 [No.62]

長州藩始祖譚

さんぼく

阿保親王廟と長州藩についてですが、近代天皇制陵墓として、毛利家が阿保親王を長州毛利家の祖に作り上げて行くのは、以外と知られていませんので、少し触れます。

長州藩は、大江家、毛利家につながる系図に阿保親王を認識してか、寛政諸家系図伝(1789)には、

「…阿保親王-本主宿禰-音人(大江)-(略)-広元-(毛利)-季光…
と記しました。

これを受けて文政年間、長州藩の村田清風が阿保親王墓所探索に当たります。
その最終的対象には、奈良(不退寺・超昇寺・平城天皇陵・在原寺)、大坂(大塚山)、芦屋(親王寺)が候補にあげられました。

この他には、伏見深草阿保親王塚、東福寺塔頭願成寺があります。
「阿保親王御廟詮議」(山口文書館・村田清風全集所載)には、無住で危機にあった中の東福寺塔頭願成寺から長州藩に当てた願書があり、それは「長州藩主が参勤交代時に参詣して欲しい」という、婉曲な経済援助願書でした。

この中で願成寺側はかく言います。

「旧跡之内ニ親王御旧跡と申処、凡そ三拾間四方ニ而、三方は堀を構へ、一方は谷川ニ而、四方土堤を築キ有之、其内ニ親王御廟所と申伝へ、御石塔御座候…」
これは寺側の売り込み文句でしょうか?

いずれにもせよ、明治8年(1875)来の阿保親王墓は、現在の宮内省諸陵寮では、芦屋の親王塚(親王寺)を墓所として所管しています。

かくして、この親王墓所創出により、西宮上陸泊時の参勤交代には墓所参詣、代参をさせたりと、維新前の士気高揚に阿保親王墓が政治的に重要視されたのは否めません。

「…標識も何もなく、鳥羽街道団地の南方に小さく玉垣に囲まれてこの小円墳の塚はある…古来、平城天皇の皇子・阿保親王の墳墓であると伝えられ、この付近を安保(阿保)町と称していた時期もある。阿保親王は藤原薬子の変に座して大宰府左遷、後に許され帰京、願いが成就したとして、『願成就寺』を建立した。その寺の在ったといわれる場所が深草願成町である。」(深草を語る-深草記念会編・2013)

2015/07/26 Sun 15:15 [No.61]

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