Net4u レンタル掲示板を作る

記事検索

記事検索フォーム
  • 検索結果 127件
  • 所要時間 0.003秒
キーワード

  1. 龍馬奥津城余談(-)
  2. 通と筋(-)
  3. 楠公さんの菊水(-)
  4. 雲浜生誕200年記念フォーラム大成功!で、鳥取黒木龍馬会が紹介してくれましたよ!(-)
  5. 雲浜生誕200年記念フォーラム大成功!のお疲れさまでした。(-)
  6. 明治維新と昭和維新(-)
  7. 気になる人々 新選組隊士-井汲恭平(-)
  8. 気になる人々 小栗忠順(-)

龍馬奥津城余談

さんぼく

東大維新資料編纂所の資料に、鳥取藩丁卯筆記と云うリアルタイムな探索方記述があります。

「…右三人の死骸、神道の式をもって…高台寺の南隣、国阿上人の旧跡霊山山内、村上歳太郎請け持ちの山地に埋葬に相成り、右山地埋葬の場所へ続きをもって一見仕り候ところ…檜木五寸角くらいの標木、長さ五尺くらい三本建て並べこれあり…坂本龍馬紀直柔神霊、裏に慶応三年丁卯十一月十六日神去三十三才とあい記しこれあり、左の方向同断標面、中岡慎太郎道正神霊、裏に同断年号月日とも、下に三十才と認めこれあり、右の方標面、籐吉神霊、裏に前同断、下に十九才とあい認め記しこれあり候…」

と、葬儀の翌日に墓碑の前に立った鳥取藩探索方が書き残して報告しています。

この記述を改めて見ると、今の龍馬慎太郎墓との違いがあるのは判りますか?

現在の墓は、右手に「中岡慎太郎道正之墓」

左手の真ん中に「坂本竜馬直柔之墓」

そして、囲い外には「藤吉之墓」です。

これは一般的かどうか判りませんが、著名ランクの本来なら一番右に龍馬であり、慎太郎はその次の位置にある訳です。

つまり、集合墓なら一番が右に龍馬であり、左に慎太郎との順番になります。

さて、そこで鳥取藩探索方のリアルタイムな記述です。

「…右三人の死骸、神道の式をもって…檜木五寸角くらいの標木、長さ五尺くらい三本建て並べこれあり…坂本龍馬紀直柔神霊、裏に慶応三年丁卯十一月十六日神去三十三才とあい記しこれあり、左の方向同断標面、中岡慎太郎道正神霊…」

と、葬儀の翌日に墓碑の前に立って報告しています。

「右三人の死骸、…三本建て並べこれあり…坂本龍馬紀直柔神霊、あい記しこれあり、左の方向同断標面、中岡慎太郎道正神霊…これあり…」

当初は、右に龍馬、その左に慎太郎だったのですよ。

いつから代わったのか?疑問に感じざるを得ません。

2015/10/06 Tue 06:37 [No.146]

通と筋

さんぼく

日本紀略は、平安時代に編纂された歴史書で、六国史の抜粋と、六国史以後後一条天皇までの歴史を記す。範囲は神代から長元9年(1036年)まで。

『続日本紀』は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。

この史書に記載あるアテルイ(?〜延暦21年8月13日[802年9月17日])の時代より以前、中央国家は、辺郡(近夷郡)と蝦夷支配の拠点として、城柵造営するが、その際に奥大道を整備した、とされています。

従って、奥大道官道は城柵や官衙(かんが)を結ぶ征夷の道であったのかも知れません。

733年、出羽柵が秋田に遷置され雄勝郡が築かれ、737年には多賀城と出羽柵の直通路を開くために大野東人が遠征しています。
この目的が26年後達成され、出羽柵に通じる陸路、6つの駅が置かれ、796年に伊治城と玉造塞間に1駅、804年に志波城と胆沢郡間に1駅が置かれて、アテルイ征夷に伴う官道整備の一環がなされて行きます。

奥大道が、道路として奥州道中となるには幾多の海道諸駅の廃止再編などがありながら、未知の奥から、北方の交易に鉄などの物資の流入で、蝦夷集団の政治的成長をも促す結果をもたらして行きました。

北海道を含む日本海沿岸の夷地は本来出羽国の管轄地で、秋田城、雄勝城は辺郡(近夷郡)に組み込まれた蝦夷を含め、多数の蝦夷の支配拠点であった訳です。

アルテイから少し時代を上る、越国国守の阿倍比羅夫による北征(658年-660年)は、蝦夷に対する貢納支配を目的に、三年間に三度行われて、秋田市以北の齶田(秋田)・渟代(能代)・津刈・渡島(北海道)の蝦夷相手でした。
とはいえ、アルテイのような戦闘があったのではなく、早くからこの地域各地の蝦夷は、古代国家と個々の話し合い接触があったとされています。

となれば、奥大道の果たす道の役割もあながち、戦いの道でもなかったのかも判りません。

で、道路の「道」「路」の違い、使い分けが分かりますか?

2015/10/06 Tue 06:32 [No.145]

楠公さんの菊水

さんぼく

今や国文化財となった京博の有名な、「世の人はわれをなにとも…」の詠草ですが、共に載る「湊川にて 月と日のむかしをしのぶ みなと川 流れて清き菊の下水」の和歌は、龍馬がまだ湊川神社(明治5年創建)ではなかった頃の湊川に詣で、菊水紋を見てこの歌を大楠公墓碑の墓前に捧げました。

菊の下水とは、後醍醐天皇から下賜された菊水の家紋を持つ楠正成に関連するのは間違いありません。

湊川の水、即ち、楠正成が菊の御紋の下に働いた故事に倣い、幕末維新の時代までその志が清く流れている、自分にももちろんそんな菊水が流れている、我がなす志ざしもまたそうだ…祖母は五代目直澄の妻で、父直足は万葉学者鹿持雅澄門下でもあってか、土佐南学和歌学が、この龍馬の和歌に吐露されています。

確かに龍馬は、湊川の「嗚呼楠子之碑」の前に立っていたのです。

ちなみに、その前史たる真木保臣は嘉永5年(1852)5月25日の楠公祭に際し、「かかる身になりてさこそと思ふ哉 たぐへて見んは畏かれども」
と歌を残しています。

萬延元年(1860)5月25日のその日その時には、「平保臣清酌庶羞の奠を以て謹みて楠公の神霊を祭る…」と墓前に酒と美味を供えて楠正成公の神霊を祀り、祭文を捧げてもいます。

残念ながら、安政5年(1858)土佐来訪の水戸藩士住谷寅之助をして龍馬を、「撃剣家、事情迂闊、何モ不知トゾ…」と記しています。
この時期の龍馬は江戸修行時代を終えて帰高していました。
龍馬24歳、真木保臣46歳、まだ思想的には若く幼い。

むべなるかな。

2015/10/06 Tue 06:31 [No.144]

雲浜生誕200年記念フォーラム大成功!で、鳥取黒木龍馬会が紹介してくれましたよ!

さんぼく

鳥取黒木龍馬会さんが、ブログ紹介してくれました。

ありがとうございました。

以下参照

http://www.yamagunitaro.cocolog-nifty.com/

2015/09/23 Wed 20:32 [No.140]

雲浜生誕200年記念フォーラム大成功!のお疲れさまでした。

さんぼく

良かったですね、あっと言う間の時間でした。

嬉しかったのは、80歳前後の防府出身Uさんと、20代か30代かのMさんをそれぞれに紹介したら、奇遇にも同じ女学校の先輩後輩だった事で、喜んでいただいた事です。

こうした集まり、会合での交流が供養と顕彰の一助なれば良いですね。

中岡慎太郎が言った、邑あるものは邑をなげうち、力あるものは力をなげうちのごとく、それぞれのそれぞれが支えたイベントでした。

お疲れさま。

2015/09/21 Mon 16:38 [No.138]

明治維新と昭和維新

さんぼく

幕末維新の再来かと例えられた昭和維新の時代を象徴するかの2.26事件、これらの青年将校たち(或いは陸軍仕官学校、陸軍大学学校出身)は、「大正デモクラシーを自由謳歌して後」(萩のゴジラお宅歴史研究のI氏)彼らは松陰や西郷、乃木希典に心酔したのでしょうか。

いや、そうではない、それは短期間ながらの大正デモクラシー、デモクラットな考えが浸透しつつあった明治維新後の、近代化反動の始まりなのではないだろうか、と思ったします。

折しも、昭和3年(1928)は一巡りした戊辰の年、早や60年でした。
この前後に幕末維新ブームが起こり、勤王佐幕を問わない中で、子母澤寛氏の新選組3部作、幕末奇談等の名著が生まれ、歴史家の平尾道雄は「新撰組史録」を世に出しました。

と同時に昭和に入った1925年・治安維持法が、政治デモクラシーの自由を脅やかすために発動されました。
ただ単なる歌舞音曲的な自由謳歌時代だったなら弾圧されないにも関わらずで、昭和維新の歌を聴いたなら、こうした事情が判ろうかと言うものです。

この辺りの流れは、出版人作家の半藤一利氏の「幕末史」(新潮社)「昭和史」(平凡社)がお薦めで、中途半端な歴史家を振りかざす本よりはましではないかと思われます。

幕末維新ブームにのっての名を売る、明日の糧を得る品位のない姿勢は、やはり歴史顕彰とはほど遠いと言わざるを得ないし、疑問視せざる得ません。

明治国家樹立から57年を経た昭和時代の始まりは、ある意味では陸軍が主役であれ、悪役であれ担ったのは間違いがありません。
それは大正11年(1922)、日本陸軍重鎮の山県有朋死亡によって、長州閥横行から陸軍仕官・陸軍大学学校出身の軍刀組と云うに成績至上主義になり、昭和軍閥の台頭を出現させました。

かたや、この頃の流行語「大学は出たけれど…」の構図が巷を席巻していました。
「成金」流行語の生まれた大正期の好景気は短く、日本経済安定化まで行かないままの不況〜関東大震災、そして追い討ちは昭和4年のアメリカの株式崩壊に金融恐慌でした。

2015/09/11 Fri 10:27 [No.130]

気になる人々 新選組隊士-井汲恭平

さんぼく

本名和栗吉次郎(1822[1836?]〜1894)、墓に刻まれたように後年名乗る井汲=いくみ姓は、剣を学んだ師の備中津山藩士井汲唯一に由来します。

彼は元治元年12月18日の「倉敷-下津井屋事件」(下津井屋が米の買い占めをする不正を、大橋と云う町役人が代官所に訴えますが、まるで時代劇のように、その代官は下津井屋と結託していて、身柄を釈放し、逆に下津井屋が、大橋は不逞浪士と交流あり、と逆訴して、これに対して大橋は数人の同志と一緒に、下津井屋を襲撃して、4人を惨殺、放火した、という事件=明治2年・和栗吉次郎嘆願書)に連座して大坂に来て、ぜんざい屋(武者小路家臣)本多大内蔵に入り込みます。

ここで、「大坂に登り…共に事を謀り…来る20日を以て計画を実行すべく」(那須盛馬書簡)の、土佐藩士の大坂蜂起計画を知ることになります。

当時、獄中にあった武市瑞山の獄外書簡にも、「大坂一挙もいかが候や…只々1日も早くあれかしと祈る事に御座候…」「大坂一挙の事、頗る急務に御座候…」とありますから、確かにそうした計画はあったのでしょう。
和栗には、京の池田屋事件の事が頭にあったのかも知れません。

「谷三十郎と申す者、(大坂)八軒家に寓居罷あり、馴染みに御座候」(井汲恭平関係文書)と、早速、この件を、同郷の新選組幹部の谷三十郎に持ち込み、新選組に入隊を得ます。

入隊を期に、名を兄に因んで、谷川辰蔵と名乗りました。
そして、維新前後に井汲恭平と改名し、倉敷に帰郷しています。

維新前の無断脱国や、下津井屋事件でのその遺族の訴えに罪を問われますが、官軍兵士での軍功で不問にされました。

1894年(明治27年)1月2日、井汲恭平として黒谷に墓石を刻み京都で死去。

なぜか、墓石側面に「泉州堺」の文字、堺県の下級官吏だった由縁でしょうか、それとも何か泉州堺にまつわる縁者か何かにつながりある曰くがあるのでしょうや。

2015/09/11 Fri 10:14 [No.129]

気になる人々 小栗忠順

さんぼく

小栗忠順について〜
幕末維新の短い期間に任免を70数回繰り返した小栗の、後世に残した事業に有名な横須賀製鉄所(横須賀造船所)があります。
この製鉄所建設に関して、小栗は慶応元年、推進派の外国奉行柴田日向守を仏に派遣し、資器材、要員、生糸販売等の専売機関となるコンパニー創設の方法協議に着手、柴田報告をもとに「交易商社」コンパニーの建設書を幕府に提出しました。
順調にいけば、その600万ドルくらいは年賦で払えるとの小栗との目算がありました。
しかし、海軍の必要性を説きながら同じ海軍伝習所同窓の中島三郎助や、この小栗の想いに反する勝海舟の敵愾心はどうしたものでしょうか。
さて、交易商社コンパニーの話。
結局、前述の建設書をもとに、それまでの外国商人による対人交易貿易を幕府の手でする商社「兵庫商社」の発想を慶応3年4月に小栗は発表しました。
小栗はこれをコンペニーと呼んでいます。
上方で100万両拠出できる商人を人選して、貿易業務をさせようと言うのです。
商社発足に、頭取は鴻池山中善右衛門に加島屋広岡久右衛門、加島屋長田作兵衛他に肝煎り数人の上方商人が名を連ねました。
国内消費外の物産を下値で売る国益が、不足でも売れば高値で売れる商人利益に国民は不利益を被る、ならば商社設立の共同貿易により国益と利益を一致させる、それがコンペニーだ、と説かれたのが兵庫商社でした。
この先見性は、明治の実業家渋沢栄一が高い評価を与えました。
遣米使節でのこれは、海舟とは違った知識の実践かも知れません。

2015/09/11 Fri 10:11 [No.128]

  1. 前8件
  2. ...
  3. 5
  4. 6
  5. 7
  6. 8
  7. 9
  8. 10
  9. 11
  10. 12
  11. 13
  12. 14
  13. ...
  14. (65-72/127)
  15. 次8件