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杉さんぼく
龍馬惨殺day
慶応3年(1867)★11月15日
(新暦1867☆12月10日)
平成27年(2015)(☆11月15日★旧10/4)
(★11/15→旧暦★12/25)
(☆12/10→☆10/29)
平成28年(2016)(☆11月15日★旧12/13)
(★11/15→旧暦★12/13)
(☆12/10→☆11/12)
平成29年(2017)(★11月15日★旧平成30/1/1-★2018/1/1)
(★11/15→旧★10/27)
(☆1210→☆10/23)
平成30年(2018)(★11月15日★旧12/21)
(★11/15→旧★12/21)
(☆12/10→☆11/4)
なんと、平成29年(2017)年の11月15日の旧暦、慶応3年から150年を経て、年が明けた翌平成30年(2018)1月1日です。
2015/12/03 Thu 06:19 [No.211]
杉さんぼく
龍馬惨殺day
慶応3年(1867)★11月15日
(新暦1867☆12月10日)
平成27年(2015)(☆11月15日★旧10/4)
(★11/15→旧暦★12/25)
(☆12/10→☆10/29)
平成28年(2016)(☆11月15日★旧12/13)
(★11/15→旧暦★12/13)
(☆12/10→☆11/12)
平成29年(2017)(★11月15日★旧平成30/1/1-★2018/1/1)
(★11/15→旧★10/27)
(☆1210→☆10/23)
平成30年(2018)(★11月15日★旧12/21)
(★11/15→旧★12/21)
(☆12/10→☆11/4)
なんと、平成29年(2017)年の11月15日の旧暦、慶応3年から150年を経て、年が明けた翌平成30年(2018)1月1日です。
2015/12/03 Thu 06:16 [No.210]
杉さんぼく
そうかも知れません。
改めて、訂正刊行したんですね。
昭和6年頃からの陸軍クーデター未遂事件から、陸軍皇道派・統制派対立激化から迎えた、昭和維新の象徴的な昭和11年2'26事件に刊行されたのも関係なくもないのかも知れません。
2015/12/03 Thu 00:19 [No.209]
杉さんぼく
また、以下のような話もあります。
痴遊氏が龍馬暗殺遭難について新聞に書いたら、浜松の代議士候補にもあがる中村四郎兵衛という人の書簡から、元新選組隊士の話を紹介しています。
…小生知己に永田克忠と申人有之…、同氏も新選組の一人にて、病気の為、刺客に加わらず候へ共、全く坂本暗殺者は今井信郎、渡辺一郎、高木啓次郎三人に相違無之、今井は祿七俵の所、右功により六百俵に加俸相成…
永田克忠…。
とある説には、旗本永田某が暗殺者だったともあったりしますから、永田某の名前は気にはならなくもありません。
この本を改めて見ていたら、意外な事に気付きました。
寺田屋にある龍馬忠魂碑、恩賜記念碑の両碑文は、なんとあの梅田雲濱遺稿並伝(昭和4年)梅田雲濱先生(昭和8年)の著書に名がある佐伯仲蔵氏が代作した、というのです。
…坂本龍馬氏に就き、御講演ある由、別紙両碑文は小生の代作せしものにして、此顛末に就きては、種々詳しく申上げたくも…取敢ず御参考迄に貴覧に供し候…。
おーっ、さすがは佐伯先生です。
今やなかなか手に入れるのは難しく、復刻もされない梅田雲濱遺稿並伝、梅田雲濱先生を著した佐伯仲蔵氏が龍馬忠魂碑、恩賜記念碑の代作したとは…。
杉山又男氏も気付かない痴遊氏の「坂本龍馬・中岡慎太郎」伝でした。
中岡日記や結城無二三、龍馬関係文書などの資料満載で、伊藤痴遊氏の「坂本龍馬・中岡慎太郎郎」は、片眼を瞑ってもまさしく入門編にお薦めです。
2015/12/02 Wed 22:26 [No.208]
杉さんぼく
実録・維新十傑「坂本龍馬-中岡慎太郎」(昭和10年平凡社)を書いた、講談師として名を馳せた伊藤仁太郎痴遊が、昭和2年2月4日に東京放送局で放送した「龍馬の死」で、龍馬暗殺者として、十津川浪士・山田五郎右衛門の名前をあげています。(同書)
はて…。
伊藤痴遊ほど維新資料を集め、読み込んでいる人はいないだけに、この名前はどこから来たのでしょう。
土佐の詩人嶋岡晨氏は小説ながら、岡田以蔵の弟だったかの名前で西尾佐喜市を暗殺者として、列記しているのは分かるにもせよ、伊藤痴遊の山田五郎右衛門っていうのは気になって調べてもよく判りませんでした。
どなたかご存知ないか、というところで、この放送の後日談があって面白い。
龍馬崇拝者であるという杉山又男なる時事新報新聞記者が、放送後に憤慨した手紙を送って来た、とそれを紹介しています。
曰わく、
隆盛や龍馬を語るには、それ以上でなければ資格がない
単なる講談師が龍馬を中岡慎太郎以下に扱ったのは言語道断
薩長連合なども龍馬がいなければ、木戸は如何とも出来なかったではないか、西郷や木戸、高杉などは一小河童に過ぎない
龍馬についての講談するならもっと伝記を研究すべし、その誠意なくば、後龍馬について一言も述べるからず、と龍馬に代わって厳命しておく…
いやはや、いつの時代もいるもんです。
今でも、司馬遼太郎著の竜馬がゆくだけで竜馬は語るにしても、龍馬を語らないファンがいますからね。
2015/12/02 Wed 22:12 [No.207]
杉さんぼく
高知の北東は薊野真宗寺山にある岡田家墓地に、岡田宜振(タカノブ)とあるのが以蔵の墓です。(あの有名な沢田マンションの横からも登れた)
仲人まがいの世話好き好人物だった、とされる父義平の代に高知に出てきたようで、その以前は岡田家の墓もある神通寺村(香美市)に住んでいました。(未見)
いわゆる、黒岩某から郷士株を買った譲受(ゆずりうけ)郷士でした。
以蔵は、詩文経書等に通じた父義平・和漢学問にも身につけた母里江の血を受けた事もあってか、当初は書を竹村東野氏、剣を麻田勘七氏に学んだ(殉難録稿)、とあります。
やがて13、4歳になった頃、麻田勘七氏弟子武市半平太さんに、以蔵を入門させました。
この以蔵さんには6歳下の弟がいて、土佐勤王党名簿に名を連ねた宜登=のち登稔、通称「慶次=啓吉」がいます。
薊野真宗寺山に行くと、以蔵の墓と共に「岡田登稔墓」「岡田登稔妻墓」とあるのが弟夫婦の墓です。
以蔵亡き後、家督は宜稔=啓吉さんが引き継いで、会津戦争に従軍、佐賀の乱では敗れた江藤新平を、自宅に泊めたりもしています。
この宜稔=啓吉さん、残念ながら、39歳で亡くなり(明治15年)、遺児の男子、虎輔さんは札幌農学校から大蔵省〜タバコ産業界に名を残し、次男の諒児さんは、大蔵省〜四国税務署長を務めました。
ちなみに以蔵の母、里江さんは89歳まで長命(明治39年歿)しています。
この宜稔氏の子孫宅には、まだまだ資料があるとされているだけに、人斬り以蔵に憚る事なく、もっと世に出て欲しいものです。
(参考/松岡司著=岡田以蔵正伝2014)
2015/12/01 Tue 08:36 [No.205]
杉さんぼく
京都市教育会編の「維新史蹟」(昭和11年-都日報社)所載の11頁には、雲濱遺墨とありました。
「不存憂世志
何用読書功」
この「維新史蹟」編集には、中川忠三郎氏や寺井萬次郎氏、林岸造氏、西川太次郎氏、中川清逸氏などの名前が見えますから、雲濱であるのは間違いないなく、西郷筆に似ているようで似ていません。
2015/11/30 Mon 20:18 [No.204]
杉さんぼく
国書神典の系譜吉井良秀にの遺稿「樟園余影」(昭和15年)が、信州の国学者飯田武郷の門人だったんですか。
確かに、飯田武郷は信州に多くの系譜流布する平田国学の第一人者で、相楽総三の首を奪って埋めた、とされています。
なるほど、なるほど。
2015/11/27 Fri 06:52 [No.201]