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  1. 気になる人々 青松葉事件と相楽総三と西郷吉之助(-)
  2. 気になる人々 幕末博徒と相楽総三(-)
  3. 新撰組池田屋事件余話 西川耕蔵(北村太助)(-)
  4. 新撰組余話・八王子千人同心と土方姓(-)
  5. 刺客余話(-)
  6. 消えた龍馬兵法目録13年振りに出現!(-)
  7. 気になる人々 土佐の忍び小僧・日下茂兵衛(-)
  8. 気になる人々 勝海舟忍者群屋敷に住む(-)

気になる人々 青松葉事件と相楽総三と西郷吉之助

さんぼく

そう言えば、国定の長岡忠次の忘れ形見・大谷千乗(後に刑部国次を名乗る)も赤報隊に関わっていたとかどうとか…。(小説に、山田風太郎著「旅人国定龍次」「魔群の通過」がある)

話し変わって、岩倉卿絡みの尾張藩青松葉事件についてです。
当時、岩倉卿の動きとはかけはなれていた位置のが三条卿。

この方はあまりポリシーのないお公家さんで、その分早くから行動力ある岩倉卿がフィクサーとして、人の役割を(利用)上手く考える人物として役割を担わざるを得ませんでした。

だから岩倉、大久保ラインはやはり政治家そのものです。

本来は、成彬のもとで隠密方として動いた西郷が、その役割だったかも知れませんが、入水事件以来(替え玉説もある)西郷は隠密性がなりを潜め、利用したりされたりと、成彬時代にはない働きと行動になります。

そんな西郷を知る大久保に、岩倉が早くから運動をして、敬天愛人を旨とする西郷を利用しない手はありません。

青松葉事件と赤報隊事件はその結果そのものです。

青松葉事件を描いた小説なら、城山三郎氏の「冬の派閥」(1982新潮社)がお薦めで、

「…現代における組織と人間の在りようへの問いかけ」(同書あとがき)

をする事で、指導者者の在り方を問う歴史小説です。

ともあれ、敬天愛人を旨とした西郷が、自分の役割にどうだったかは全く判りませんし、掴めません。

大きく叩くと大きく響く、小さく叩くと小さく響く、と龍馬が評したように、そこが西郷の西郷たる由縁でしょう。

正直、ホントによく隠密型の分からない人物です。

2015/11/14 Sat 20:32 [No.198]

気になる人々 幕末博徒と相楽総三

さんぼく

赤報隊相楽総三に絡んだ話。

赤報隊池田勝馬こと黒駒の勝蔵は、土佐の那須信吾と繋がりのあるのはあまり知られていないでしょう。

それだけにまた、東海の侠客水野弥太郎や黒駒勝蔵は赤報隊の致命傷でした。

早い時期に長谷川伸氏は、「相楽総三とその同志」以前に「伝法さむらい」を著していますが、主人公に桜井常五郎を配し、農民あがりのヤクザな赤報隊を描いています。

ヤクザ小説ならお手のものだった長谷川伸氏にしては、これは不満だったのでしょう、後にこの作品は反古にしています。

これはダメだ、とそこから改めての名作「相楽総三とその同志」が生まれました。

確かに赤報隊の無頼な隊士の参加は否定出来ません

不遇の貧困時代、岩倉家では賭博開帳の場にもなっていました。
岩倉卿はそんな彼らをも見ていたのでしょう、赤報隊士の彼らを見捨て、黒駒勝蔵や水野弥太郎の処刑をもいといませんでした。

では、なぜ清水の次郎長はそうはならなかったのでしょう。

旧悪なら次郎長の方に多々ありますから勝てば官軍なのでしょう。

海舟と西郷の江戸会見のした準備に労の功績があった山岡鉄舟に、やはり関係するのかも判りません。
何しろ鉄舟は次郎長の知恵袋なのですから。

2015/11/14 Sat 20:23 [No.197]

新撰組池田屋事件余話 西川耕蔵(北村太助)

さんぼく

西川耕蔵正義(1823〜65)は三条通の北村書肆に生まれました。
書を読み学問を好み、梅田雲浜(1815〜59)に学んだ町人勤王家で、古高俊太郎の相弟子にもなります。

元治元(1864)年6月5日池田屋の密議に加わりましたが、新選組の御用改めの急襲の難を逃れてながら、数日後、聖護院の寓居に隠れていたところ捕えられてしまいます。

そして、翌元治二年(1865)西土居刑場で斬罪に処せられました。
その顕彰碑が近江の三井寺建てられています。

建てたのは西川太治郎氏。
西川耕蔵の一族で、その正義伝や池田屋事変記を著した近江新報社長で、後に大津市長(在任明治41〜43年)にもなりました。

顕彰碑所在地 滋賀県大津市園城寺町(三井寺内、小関越えをしたらすぐ目に入ります)

建立年 明治38年
建立者西川太治郎
寸 法 高120×幅48cm
碑 文
[東南]
贈従五位故西川耕蔵君招魂碑
[西北]
君諱正義通称耕蔵西川氏近江人来寓京都従学梅田雲浜業成授徒君為人直実好義屹有君子之風
元治元年六月会有志諸士於三条旅宿池田屋密議国事其夜為幕吏所襲遂死於獄享年四十有三
葬於洛東霊山明治卅六年十一月勅贈従五位又賜靖国神社合祀蓋特典也
宗族西川太治郎哀君非命而感天恩之厚手編輯其履歴名殉難録刊行於世焉頃日又建招魂碑于近江長等山以祭之嗚乎西川氏之族好義之深至此豈可不感哉

明治卅八年六月 鉄斎富岡百練撰

辞世
天は父地は母なるそか中に
立身にしあれはつとめさらめ哉 西川正義
石工 北条徳太郎鐫

続く

2015/11/11 Wed 22:55 [No.194]

新撰組余話・八王子千人同心と土方姓

さんぼく

武州八王子を中心に周辺村落に土着した郷士集団に、八王子千人同心があります。

甲斐と武蔵の国境警備、治安の任をなし、天正18年(1590)の徳川氏が江戸入りに際し、甲斐武田の旧臣遺臣を中心に組織されました。

八王子千人同心に土方姓はないか、と千人同心姓名在所図表(嘉永甲寅季秋)を見れば、八王子周辺の日野荒井村に、土方姓の千人同心、土方甚蔵さんがいました。

あと、戸倉新田(国分寺)にも土方姓の土方兼五郎さんがおりました。

武田家遺臣の千人同心に名を連ねる中に、土方姓があるのも大したもんです。

多分、土方副長のお大尽生家土方家もどこか繋がりがあるのではないでしょうか。

石田寺に行く途中、土方生家(土方記念館)からモノレール高架下に行く手前の北側に、今も大きな豪農屋敷があるかも知れません。(15、6年前でしたが)

参考
江戸幕府千人同心史料(村上直編/1983文献出版)

2015/11/11 Wed 18:26 [No.193]

刺客余話

さんぼく

刺客とは…、なぜ客を刺す何のでしょうかねえ。

「刺客」の読みは「せきかく」、本来は「せっかく」が正しく、「しかく」(しきゃく))は慣用的な変化読みなのかも知れない、と思ったりもします。

この「刺」と「客」の読みは、「せき」・「かく」と伝わった漢音で、同じ読み構成なら、「せきかく(せっかく)」が多分本来読みで、「せき」では言いづらいから「し」になり、「かく」が残り、やがて「きゃく」とも慣例化した、といえます。

実は幕末期暗殺と云う言語はありませんでした。

しかし、この「しかく」と読むのは、普遍的には不明ですが既にあったようです。

ローマ字でのヘボン式に名があるヘボンが、龍馬惨殺のその年、最初の和英辞典を日本で編んだ1867(慶応3年)刊『和英語林集成』には、「刺客」=「SHIKAKU(しかく)」という表記が用いられています。

残念ながら「せきかく」、「せっかく」に相当する見出しはない、との事です。(以上、ネット参照)

よって「しかく」が慣例になっています。

「かく」読みは他に、剣各、食客、主客、酒客、客月(過ぎた日々)などがあり、一字を「まろうど」と読むのは難解です。
ちなみに司馬遷の史記には、客は、よそから来た者(鶏鳴而出客)、見知らぬ者(客何為者)の意味があります。

英語では、刺客、スナイパーの事は、assassin何ですね。

現代では「しかく」が慣例、友人にこのことを言うと、その友人が関心を持って、NHKに電話して聞きました。
するとその結果は、「しかく」が正式であり、「しきゃく」とは言わないそうです。

言葉の印象としては良くない「しきゃく」も、間違いではないにしても、正確な言い方であるとは言い難いですね。

まさに、月日は百代過客です。

2015/11/11 Wed 05:22 [No.192]

消えた龍馬兵法目録13年振りに出現!

さんぼく

龍馬さんの兵法目録が、おまさんらぁ、それが行方不明なのを知っちゅうか…とテレビ局に掛かって来た電話から、FNS大賞ノミネートされたテレビ番組が、2002年10月(高知は7月)に放送されました。

高知から出た今回の発見ニュース(2015年11月)、やっと世に出てきたか、と言うところです。

指定暴力団会長(当時)を尊敬しているという○氏が、竹中清水氏から中内知事にあった兵法目録を手に入れて、桂浜龍馬会なる架空団体名で桂浜の闘犬センター(現在はない)で展示されていました。

中内知事から手に入れた○氏の、いずれしかるべき場所に皆さんへ見て貰うよう披露したい、との事で、番組は終えていました。そうした中で、今回高知県内で出てきたわけです。

金策に困って売却したかどうかは、新聞記事見てないのでなんとも言えませんが、本来は竹中清水氏から高知県の手にあるべき兵法目録ですから、収まる所に収まって欲しい限りです。

竹中清水氏(たけなかきよみ)は、若くしてアメリカに渡り、サンフランシスコのジャンクマーケットで手に入れたそうで、土居晴夫(龍馬縁者)氏は、ばくち騒ぎで亡くなった船乗りの坂本直衛が龍馬関係資料を売り飛ばした、と推測します。

海援隊始末記などを著した歴史家平尾道雄先生や龍馬全集編纂の宮地佐一郎先生などの著作中では、竹内清水氏となっていたのが、竹中氏の間違いだったのが、この番組で判明しました。

深夜放送でしたから、観た方は少なからずや、否や。

2015/11/10 Tue 21:13 [No.191]

気になる人々 土佐の忍び小僧・日下茂兵衛

さんぼく

龍馬の本家になる才谷屋文書(六代直益順水日記)の記述に、日下茂兵衛と言う土佐のネズミ小僧なる、享保の頃の怪盗の事が記されています。

本当にいたのだろうか、と伝説説、実在説の論議がある中、才谷屋文書に実在説の記載があったのです。

享保六年九月四日夜、蓮池町牢舎の罪人日下茂兵衛といふもの、相牢の者の銀を盗み取り、牢をぬけ欠け落ち仕る…。

貧農に生まれた茂兵衛、奉公した庄屋の娘との恋仲を阻止され、死に場所求めて、とある洞窟に入りました。

そこで、天狗か仙人にかに救われ修行、忍術の奥義を極めた、というわけです。

この忍術で、豪商や殿様の屋敷に忍び込み、盗んだお金はネズミ小僧のように貧しい人々に施したとされ、伝説ヒーローになりました。

そう言えば、佐々木三四郎高行も土佐忍者の出身だとか(安岡章太郎談歴史余話)。

なお、数十年前に丹中山(たんちやま)で、順水日記を残した直益さんのお墓発掘に立ち会えました。

その折り、拵えも立派な銀のキセルが、炭をひいた土の中から出て来ました。
このキセルを使いながら、直益さんが土佐のネズミ小僧の事を順水日記に書いたのだと思うと、なかなかに感慨深くもあります。

参考
伝説の里を訪ねて(高知新聞学芸部編1994)

2015/11/10 Tue 20:26 [No.190]

気になる人々 勝海舟忍者群屋敷に住む

さんぼく

服部半蔵、いうまでもなく武将忍者であるのは、誰しもに知られています。

その墓が東京の四谷西念寺にあり、墓維持に窮した時の事。

そこで勝海舟が相談を受けた(明治16年月26日)関連の記述が、海舟日記にあります。

…梶田(政光)、服部半蔵へ三円遣わす…(3月14日)

海舟と服部半蔵、どう繋がるんでしょうね。

男谷家邸で生まれた海舟は、父男谷小吉が御家人勝家に婿入りして、名乗ることになる勝の由来を調べさせたことがあります。
そして近江坂田郡勝村(長浜勝町)だったことを知ると共に、男谷の遠祖が近江国の山上郷から、落ち武者として越後(柏崎)に土着したのもあわせて知りました。

いずれも近江の出、そして勝家、物部尾輿子孫の太郎冠者季時が勝村(長浜市勝町)に住んだことから名乗り、その子の左近時明は今川氏、孫の市郎左衛門時直は徳川氏に仕え、玉薬奉行配下同心となります。

そこに、服部半蔵正成支配の伊賀同心が加わり、戦乱に活躍しました。

つまり、伊賀同心と隠密行動をした玉薬組同心(箪笥方)でした。

時直の江戸入り以後、代々勝家は大箪笥組、玉薬同心として火薬や鉄砲玉等の製造管理する任にありながら、公儀隠密方役割をも果たしています。

居住区は、忍者拝領屋敷の多い伊賀町、忍町の東、御箪笥町でした。

こうした事どもを知ってか、明治2年(1869)冬の事、徳川慶喜が海舟の永年の労をねぎらった折りの話です。

海舟は皮肉を込めて答えます。

「…私の先祖は伊賀同心で、権現様の冬、夏両御陣とも先手組で、鉄砲持って敵に向かった、そんな二度の軍(いくさ)が済んでも矢張りり同心だ。ソコを考えればナンでもないわさ」

海舟、忍、忍んで忍者を愛おしんだ結果の、まさに義邦(ヨシクニならぬギノクニ)の、長命、艶福にてコレデオシマイの一生でした。

2015/11/10 Tue 20:08 [No.189]

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