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  1. Re: 紀元二千六百年の歌と平安神宮(-)
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  4. 気になる人々 伊庭八郎(-)
  5. 安島帯刀の切腹(-)
  6. 切腹と斬罪(-)
  7. 水戸史学会の肩書きに弱かった出版社(-)
  8. 安島帯刀と水戸藩の余話(-)

Re: 紀元二千六百年の歌と平安神宮

木曽 

自分は、紀元二千六百年十二月生まれであります。

もう少しで逝きます、有難うございました。

2015/08/05 Wed 10:17 [No.85]

石高でいくら

杉さんぼく

石高の単純な計算を記せば、現在、仮にコシヒカリなりを5kg2880円としたら、1kg576円です。
1升は1.4kgですから、これに576円を掛けると806円40銭になります。
806円をわかりやすく800円として、100升は10斗で1石、1両、銀60匁ですから、100升掛ける800円となり80000円(8万円)になる訳です。

銀60匁=銭4000文が8万円で、一文は20円、当時の28そばが320円で食べられたんですね。

そして、俗に二束三文と言われるのは、わらじが二束で60円だったと云うことでした。

小判壱両は二分銀2枚、一分銀は4枚 二朱銀は8枚 一朱銀が16枚で金壱両となります
そして江戸は金使い 上方は銀使いでした。
この通貨は 金壱両に銀60匁が相場です
一円が10枚で10円玉になるようなものです
歴史勉強する基本に 新旧暦や貨幣制度も知る必要はありますね

ちなみに、千両箱は8000万円、重い筈のなにものでもありません。

1石=銀60匁=16朱=4分(歩)=1両
1石=10斗=100升=1升=10合
1升800円(100升8万円)

余談ですが、長州藩が器弾薬を購入する6万両を山口から下関へ現送するのに、一頭の馬に千両箱五つをつけた12頭に予備馬を加え14頭行列で運んだと言います。

2015/07/31 Fri 17:59 [No.79]

紀元二千六百年の歌と平安神宮

杉さんぼく

京都の観光地のひとつに、平安京を思わせる平安神宮があります。

しかし、平安神宮の大極殿等6棟が重要文化財指定されたのは、まだ新しく平成22年(2010)12月の事です。

それはその創建が古来からの神宮ではないからであり、明治28年(1896)3月15日、平安遷都1100年を記念した、内国勧業博覧会のメインとして内裏を復元されて建てられたからです。

平安遷都の桓天皇を祭神とし、金鵄輝く日本の栄えある光身に受けて〜(紀元2600年)と歌われた皇紀年2600年に当たる昭和15年(1940)に、平安京の都で最後の天皇だった孝明天皇を祭神に加えた神社です。

そして、平安遷都1100年の時代を現す行列祭りとして、遷都の10月22日に時代祭りとして行われ始めました。

余談ながら、戦時歌謡史を調べてると、この紀奉祝国民歌「紀元2600年」がなかなかいいメロディーです。

金鵄(きんし)輝く日本の
栄えある光 身に受けて
今こそ祝え この朝(あした)
紀元2600年
あゝ 一億の胸はなる〜(紀元二千六百年)

ご年配の方ならご存じでしょうね。
ところが、庶民はこれを替え歌にして歌っていたよう、こちらの方が有名だとか。
「金鵄」上がって15銭
栄えある「光」30銭
今こそ来たぜ この値上げ
紀元は2600年あゝ 一億の民は泣く
「金鵄」上がって15銭
栄えある「光」30銭
それより高い「鵬翼」は
苦くて辛くては50銭
あゝ 一億の金がいる〜
金鵄10本とは最も安いタバコのゴールデンバットの衣替え、光10本、鵬翼20本とはタバコ銘柄です。
なんでも、平均61%も値上がりしたそうです。

この替え歌を歌っていたが為に、私服警察が小学校に来て、歌の上手い小学6年生に尋問したという話が伝わります。

戦後七十年、国民の平和を守ると題目を唱え、憲法違反だされるのにも関わらず、都合合わせで憲法を守ると云う今の長州政府答弁に、金鵄は輝かないでしょう。

2015/07/31 Fri 06:44 [No.78]

気になる人々 伊庭八郎

杉さんぼく

京都の人見勝太郎と共に遊撃隊として闘った隻腕の粋な幕臣剣客、伊庭八郎に触れます。

心形刀流伊庭八郎秀穎、幕臣、元治元年徳川家茂上洛に随行、遊撃隊として鳥羽伏見の戦いで負傷し、東帰後、西軍の後方を衝く箱根の戦いで左腕を負傷、左手首を失いました。
しかし、その身体で敵を追い払って今に名を留めその後、箱館に至り歩兵頭並として善戦しました。

確かに、池波正太郎氏の小説「幕末遊撃隊」の効用もさることながら、こうした生き様の反面で、遊女小稲を愛した伊庭八郎の人間的な粋さは、春日左衛門と共に玄人好みな女性にはずいぶん人気がありますね。

さてもその死。

土方歳三死す明治2年5月11日の翌日、箱館五稜郭で土方の後を追うようにして、12日土方より8歳年下の伊庭八郎は惜しくも27歳で死しました。

その前月19日の激戦で、肩と腹に銃創を受けての痛みに耐えての戦闘死でした。
新撰組隊士田村銀之助の語り残しでは、恭順に先立ってモルヒネを飲んで没した、と伝わります。
その他、伊庭に従っていた荒井鎌吉が談話資料を残しています。
ついでながら、以下真偽不明ながらの一文。

「八郎君の墓は函館五稜郭土方歳三君の墓の傍にあり」(旧幕府雑誌)

五月の時期になると、歳三忌(5月11日)や瑞山忌(5月11日)に続くのが、伊庭八郎秀穎の秀穎忌(5月12日)です。
墓は、関東大震災前の台東区から移転した中野区沼袋の貞源寺にあります。
「伊庭八郎征西日記」(維新日来纂輯)「伊庭氏世伝」「講所」(東京市史・外篇)

余談ながら、心形刀流、その名跡を継ぎながら明治36年に没するのが実弟想太郎で、兄に劣らない心形刀流の剣客で温厚珍重な人物でした。
その剣技が予想だにしない、日本初の国際弁護士政治家・星亨刺殺事件(明治34年6月21日)を起こしたのは、八郎死した年から32年後の事でした。

2015/07/28 Tue 20:49 [No.73]

安島帯刀の切腹

杉さんぼく

「…鵜飼親子江文通およふ処より、猶右之者共、京地ニ而種々奸計を廻らし、公御確執ニも可及場合ニ到ル段、対
公儀不軽儀、右始末不届きニ付、切腹申付ル」

公儀不軽儀…確かにきつい申し渡しですね。

これに比べて、池内陶所の「…悔自訴いたし」とかで、「中追放申付ル」処分とは。

ちょっとずるいですね。
(参考-公用秘録2007/彦根城博物館)

2015/07/26 Sun 15:37 [No.62]

切腹と斬罪

伊三

そうですね、士分の家老に斬罪は御定法違背ですから、500石以上扱いの切腹でしょう。

ものの本には、安島帯刀は自刃した、ともありますが。

刑罰を決めるのに、御仕置例類集という江戸時代立法史料があり、その中に民法・刑法罰「御定書百箇条」(公事方御定書)をも参考にすべきとの一文が記されています。

その御定書百箇条にある刑罰には、士分閏刑として逼塞、閉門、蟄居、改易、預(あずけ)、切腹、斬罪があります。

そして、死刑には下手人、死罪、火罪、獄門、磔、鋸挽の種類があり、下手人は死罪同様の絞首刑であるにもせよ、埋葬が許され、斬首後は死骸を片づけてよい恩典がついていました。

松陰の遺骸もこの恩典があってか、松下村塾生によって引き取られています。

前述の中で言えば、切腹より斬罪の方が重罪に価し、国事犯は概ね斬罪に処せられ、その罪に条理あるとか、士としての本分を保たれれば、切腹とされました。

士犯罪の性格上、その区別があったのではないでしょうか。

斬罪は小塚原執行が主でしたが、幕末維新期には牢屋鋪で処刑、小伝馬町では桜田門外事件の水戸浪士たちが処されています。

切腹は即日、斬罪は翌日執行でした。

それにしても、安政の大獄とは言え、刑死、斬罪、獄門死8人(死価にはない罪科、自殺、病死も含め計79人、他大名、公家処罰は計21人)しかいない点からすれば、天狗党事件353人斬殺の方がもっと酷いかも知れませんね。

2015/07/24 Fri 13:18 [No.55]

水戸史学会の肩書きに弱かった出版社

奥津希多世ママ mail

珍しい対応ですね。

やはり肩書きが効いたのでしょうか。

最近、やっと萬延元年が安政7年とされる表記がなされました。

知識を対価に替えて知らしめる側が、きちんとしなければなりません。

罪科については、解釈が幕法と各藩法典例に若干の違いもあります。

普通、500石以上なら斬罪(成敗)となるところ、名誉を重んじて切腹を命ぜられたのです。(たまたま備前典例/法例集をしらべていたら、そうありました)

だから、松陰や左内が石高の高い士なら切腹となった筈でしょうが、直弼の各式重用により斬罪刑となった訳です。

2015/07/24 Fri 07:21 [No.53]

安島帯刀と水戸藩の余話

藤原改新

安島帯刀の苦悩余話を一つ。鵜飼幸吉が京都より持ってきた勅書(戊午の密勅)に江戸の水戸小石川藩邸は真実困惑した。幕府にも同日に勅書が到着し、老中の間部詮勝達はすぐに小石川藩邸にやって来て安島帯刀などと協議し、当面諸藩への回達は行わず、三家三卿だけ伝達するということで妥協した。しかし水戸藩としてはこの勅書を回達するかしないか、いずれは決めななくてはならない。幕府に逆らって回達することが可能か?天皇から下された勅書は水戸藩にとってはこの上なく尊いものであった。藩士達の多くは尊皇攘夷のコチコチであったから回達しないと決まれば、藩内の騒ぎはただでは済まないに決まっていた。(しかし、この勅書の内容は既に諸藩に知れ渡っていた。)水戸藩が回達しないと決めれば、尊攘の本家である水戸藩が鼎の軽重を問われることにもなる。
この様な状態で、水戸藩には三つの派閥に別れていた。昔斉昭に迫害された大身の士、或いは結城党の流れの人々は尊攘嫌い、幕府大切だから非回達主義。小石川藩邸を握っていた藤田党の中が二つ割れて、水戸藩は天皇にも幕府にも決して戈を取ってはならない。両者が不和になった時は飽くまでも平和的な道を貫くべきだとした。元藤田党であっても勅諚非回達に賛成した人達は尊攘鎭派と呼ばれた。久木直次郎、石河幹二郎などである。しかし尊攘派の多くは断然回達を主張した。老中達が朝廷の意志(攘夷)を尊重しないなら彼らを斥けるべし、井伊直弼や間部詮勝、高松藩(水戸の連枝)がなんと言おうとも勅諚はすぐに回達すべし、斉昭は蟄居を止めて小石川藩邸に移るべし、井伊はこれまで暴政を行ったのだから違勅の罪を鳴らして早速江戸城への登城を差し止めるべしと主張した。尊攘激派と呼ばれ、田耕雲斎、高橋多一郎、金子孫二郎などである。
水戸藩にとって 安政の大獄(獄とは裁判のこと)は思いも寄らない厳罰だった。
鵜飼父子は勅許降下の策謀があるから死罪はやむを得ないとしても、安島帯刀と茅根伊予之介は明らかな冤罪である。彼らの罪状は二つあって、一つは一橋を養君にする運動を応援したこと、もう一つは薩摩藩士 日下部伊三次(勅許降下の張本人)の水戸降勅運動に同意したことである。前者について安島と茅根が画策したのは事実であるが、それは臣下として当然であって、死罪に当たるような罪過ではなかった。後者は濡れ衣であって日下部の運動は安島とは無関係、彼はむしろ迷惑に感じたほどだった。

2015/07/23 Thu 22:11 [No.52]

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