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木曽 武
嘉永7年(1854)3月、吉田松陰は金子重輔とともに、海外渡航を企て、下田柿崎弁天島の祠に身を隠し、
夜 小船を漕いで米艦ポーハタン号に辿り着いたが、この時の日米の約束の前に、外遊三年の夢は挫折した。
世の人はよしあし事もいはばいへ
賊が誠は神ぞ知るらん
(松陰、下田平滑獄)
吉田松陰と金子重輔が、伊豆柿崎弁天島から密航しようとして失敗し投獄されたその翌年、安政2年(1855)西伊豆の戸田港から、幸運にも、ロシアへの密航成功した人物が居て、およそ20年もの間ロシアに滞在し、役人まで務めた。
「橘 耕斎」と言う・・・。不幸 挫折に終わった松陰と大違いだ。。。
2016/01/02 Sat 13:36 [No.228]
木曽 武
梅田雲濱源次郎ではなく。
雲濱梅田源次郎です。
雲濱は、名ではなく、号ですから、大概は名前の上に冠します。
2015/12/28 Mon 21:47 [No.224]
藤原改新
三好家は阿波出身で、三好長慶のときに台頭した一族である。長慶は父元長を謀殺した主君細川晴元や13代将軍足利義輝を京都より追放り
、し、近畿から四国にかけて十数カ国を勢力下に収めた人物である。
当時の「天下」という言葉には日本全国≠ニいう意味もあるが、より多用されていたのは京都及びその周辺≠ニいう意味であり、現在の首都圏という言葉の感覚に近い。当時多くの戦国大名が出兵の際に大義名分として足利一族を擁立して戦うのが常識だった。その中で足利一族を擁立することなく「天下」を支配した長慶は、まさしく天下人であった。
『信長公記』によると、松永久秀の弟 内藤宗勝の与力 赤沢加賀守が、関東で鷹を求め丹波へ帰る際、信長に一羽献上しようとしたとあるので、長慶は信長に興味を持ち、接触しようとしていたようである。しかし、長慶は信長の12歳年上で信長がまだ尾張時代の永禄7年に世を去っているので、信長を具体的にどう思っていたかまでは、解らない。逆に信長は長慶に対して高い関心を示していた。
永禄2年信長を含め諸大名が相次いで上洛している。2月に信長が、4月には斎藤義龍や長尾景虎が上洛した。この時期、諸大名の上洛が続いたのは前年の長慶と将軍義輝の争いに原因がある。その年の2月、「弘治」の元号が「永禄」に改まった。室町時代の慣習では、改元は天皇と将軍の合意によってなされる。ところが、時の正親町天皇は長慶によって5年間も京都を追放されていた義輝とではなく、長慶との間に改元を決めた。その為、将軍は改元に従わず、旧年号を使い続けるという異常事態になっていたのがこの時期である。
一方で、長慶は新たな武家の代表者として天皇に承認されることになった。半年後、ようやく義輝は改元に従い、長慶との講和が成立すると京都に戻っている。即ち、室町幕府が天皇に否定されるという緊急事態になったので、信長たちは上洛して自分の目で状況を確かめたかったのであろう。
義龍や景虎は義輝より様々な栄典を授与され、幕府の復活と判断したようだ。しかし、さしたる栄典も得ず、直ぐに京都を去った信長は逆に幕府の滅亡を予期したのではないだろうか。
その後、長慶は様々な要求を義輝に突きつけていく。正親町天皇の勅許も得て、南朝の遺臣であった松永久秀の家臣 楠正虎の名誉を回復させることで、北朝の守護を担ってきた室町幕府の正当性を失墜させた。又、足利尊氏が鎌倉倒幕の功により後醍醐天皇より拝領した桐御紋を長慶も拝領することで、三好家の家格を足利将軍並みに向上させようとした。さらに義輝の娘を人質に取り、上下関係を明らかにした。この様に、幕府を克服しようとする長慶をよく見ていた人物こそ信長である。
後に信長は足利義昭より、室町幕府の名門、一色家の名跡を継いだ斎藤義龍や、同じく上杉家の名跡を継いだ長尾景虎の様に、高い家格の家を継ぐようにと、名門斯波家の家督相続を許そうとした。しかし、信長はそれを断り、長慶の様に桐御紋のみを拝領した。又、義昭最初の挙兵を抑えた際には、義昭の息子の義尋を人質にすることで許している。長慶が義輝の娘を人質にすることで、上下関係を明らかにさせたことを彷彿させる行為である。
そして、再度挙兵した義昭を京都より追放した信長が最初したことは、正親町天皇に上申して決定した、「天正」への改元である。次いで、長慶や久秀がその名誉を回復させた楠正虎を自らの右筆に登用する。この様に信長が幕府を克服しようとした政策の原形は、長慶の政策であったのだ。
『信長公記』巻一の冒頭は、長慶による義輝殺害の場面から始まる。長慶は既に死去していたが秘匿されていたので、著者の太田牛一、つまり当時の織田家では長慶が義輝を殺害したと思っていた。この事件の原因について、『信長公記』は「天下執権」たる長慶に対し、義輝が「御謀反」したと記している。信長に対して暗君の義昭が背いたので追放したという主張の原形が垣間見える。
三好家と足利家の緊張が高まる中で、長慶は永禄7年に死去した。
2015/12/23 Wed 12:27 [No.222]
杉さんぼく
龍馬惨殺本のお薦めには、「龍馬暗殺の黒幕は歴史から消されていた」(中島信文著-彩流社刊2012)です。
曰わく「暗殺通説は、事件現場にいなかった土佐藩要人ら一部関係者による証言から事件後出来上がっており、…全て、土佐藩の武士が関係、関与しないと近江屋事件は無理がある」として、実によく調べています。
「龍馬を殺したるは実弟只三郎なり」と、実兄・手代木勝任が述べた資料についても、実は戊辰戦争で赦されるとなぜか明治5年、高知権参事に出仕、他藩から恵まれた土佐藩援助のもとに生きた、とその関係を紹介しています。
今井信郎→西郷隆盛
渡邊篤→海江田信義
の繋がりにも似てなくもありませんね。
龍馬書簡に見える「…寺町ニ川村盈進入道ニ行合…」(慶応元年9月7日権平 乙女宛)
「入道盈進までおんこし被成候…もし入道盈進がおくに二かへり候時ハ、伏見二て…」(同9月9日乙女宛)
の入道川村盈進が、龍馬旧知の医師にもかかわらず、土佐藩から駆けつけての死体検案書がないのは不思議なのはむべなるなかです。
龍馬惨殺の夜は、雨上がりの月夜だったのでしょうか?
その運命を予言したかのような龍馬の極月書簡がいまに残ります。
「…世の中の事ハ、月と雲、実二どフなるものやらしらず、おかしきものなり。…年のくれハ、米うけとりよなどよりハ、天下のセ話ハ実二おふざツパいなるもの二て、命さへすてれバおもしろき事なり」(慶応2年12月4日)
そう言えば、毎年の旧暦11月15日は満月か満月前夜です。
まさに、世の中は月と雲、人生終わるもおもしろきかなかも知れませんが。
世の中と言えば、
龍馬の歌の流布。
「世の中の人は 何ともいはゞ
いへ 我がなすことは我れのみぞ知る」
正しくは
「世の人は われをなにともゆはゞいへ わがなすことは われのみぞしる」
「…うちにいるのに こゝろのやみぢ さぐりさぐりて いでゝ行」(龍馬里謡)った龍馬dayの満月前夜、天に意志がある年の暮れゆく空があります。
今井信郎が述べた「雨上がりの月が煌々と輝いていた」、満月前夜19時21分の天気良ければの、龍馬慎太郎惨殺の月の光を見て、旧暦のその日こそ季節の体感を感じ、初夜の頃に龍馬・慎太郎、そして雲井龍藤吉を偲びましょう。
2015/12/03 Thu 07:11 [No.214]
木曾 武
梅田先生にお伺い」した処、返信を頂きました。
昭和八年 有明堂書店
「梅田雲浜先生」
内田周平・佐伯仲蔵共述
に、この写真が掲載されていると言う事です。
また、杉氏よりも返信を頂きました。
昭和11年-都日報社
京都市教育会編「維新史蹟」
11頁では、雲濱遺墨(林岸造氏蔵?)とあったと言う事でした。
ありがとうございました。
この間違いに接した京都市教育会では、再度「維新史蹟」を出さなければ成らなかったのでしょうか…
2015/12/01 Tue 08:51 [No.206]