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木曽 武
将軍が飲む茶に限って、御大層に・・・
それを真剣に有難がって、恐れ戦いて勤務する役人が、関係の無い通行近隣の、上は大名から下は庶民までに、その責任を権力で押し付る道中なんて・・・
まぁ 迷惑な話ですなぁ!
のんびり宿泊なんかしてねぇで、宿場継立でトットとイッチめぇよ!!
たかが小便の元を(チョット言い過ぎ、汗)
すみませんでした
2015/07/21 Tue 07:31 [No.38]
木曽 武
深い歴史が隠れていた処だったのですね!
僕の 35〜40年に及んだバイク人生の中で、
和歌山・三重に向かう途中、何度も十津川を訪れてますが…
山の中の田舎、不文明なつり橋、の感しか無かったのですが…
その頃の僕の頭の中で、天誅組と十津川は繋がってませんでした。
不勉強だったんですね、今でも深くは分からないのですが(恥)
2015/07/18 Sat 09:20 [No.29]
杉さんぼく
十津川郷士について述べましょう。
まず郷とはムラ、士とはサムライのことで、十津川村天誅殺人事件という、西村京太郎氏の小説に沿革説明がありますから、これが判りやすいでしょう。
十津川と言えば、天誅組挙兵が思い浮かべます。
詳細は略しますが、天誅組となぜ十津川なのかと言えば、十津川の勤王にゆかりある土地柄だと言うことがあげられます。
それは神武東征の先駆けを勤めた八咫烏伝説に、十津川郷が関与した伝を誇りにしていたからです。
以後、天皇の吉野や熊野等の御用立を勤め、壬申の乱、南北朝大塔宮親王の潜居、楠木正勝(大楠公の孫)の奮戦に労力をなして来ました。(大正時代に、正勝の賊名は除かれ正四位を追贈)
古来からのこうした縁で、幕末期の十津川郷士は禁裏御守衛願い出て、禁裏近くの屋敷とは別に、勤王浪士が出入り出来た京都円福寺に十津川屋敷を構えて勤王活動を始め、やがて、皇軍御先鋒とした中山忠光以下の天誅組に参加するわけです。
十津川郷に当てた天忠組檄文(事情大略)は云う。「十津川郷の為には急度御盡力被為在候思召に付、郷中有志の人々も兼ての忠義猶更憤發方、今天朝の御為死力を以て被盡度深く御頼被思召候…」
十津川郷士の農兵としての発端はと言えば、嘉永年間、あの松陰もわざわざ訪ねた大和の儒者森田節齊、その門下乾十郎が十津川に来て、節齊がに記すように「当時、僕等十津川農兵調練凡二千人、意在護鳳輦、憂国之志如…」として、調練した事があるのは多分に間違いありません。
それ以前には、天保14年に藤本鐵石も来ていますし、安政5年には松本奎堂も入郷しています。
その後、陸援隊・土佐濱田辰弥(田中光顕)なども、十津川郷士を頼って逃れ、鳥羽伏見前後の鷲尾侍従内勅の高野山義挙隊長として、十津川郷士650余名の働きを見ています。
従って、勤王運動にはやはりゆかりある土地柄と言えなくはありません。
「十津川ハ、山岳重畳の間二散布スル僻邑ニシテ、戸数一千有余、闔郷ノ人ハ、皆南朝ノ遺臣ニシテ、古来郷士ト称ス…」(明治維新発祥記-建標会編大正8年)
前述の田中光顕日記や中岡慎太郎日記には、しきりと十津川郷士の名前が出て来るのが見受けられます。
2015/07/18 Sat 08:39 [No.21]
木曽 武
奥津希多世ママさん こんばんは
嵐寛十郎こと、むっつり右門(近藤右門)それから鞍馬天狗…
大好きでした!!!
映画はどれも見たいのに、お金が無くて、たまに貰う僅かの小遣いを、お菓子とか欲しいものも買わずに、必死で貯めて映画を見に行ったものです。嬉しくてうれしくて……
懐かしい小学生の頃の思い出です。
2015/07/17 Fri 18:53 [No.17]
木曽 武
杉さん こんにちは
結構たくさん書き込みましたね!
面白いです! もちろん勉強になります。
明治6年1月1日(12/3)は水曜日だったそうですが、間違いないですか。
2015/07/16 Thu 16:48 [No.14]
杉さんぼく
国持ちの土佐藩は、明治3年全国に同じて論告を出しました。人間平等論、いわゆる平均四民論です。
各藩独自性もあったようで、土佐藩は
「階級によらず人間人々自由なる貴重の産物を知らしめる、古来からの武士(もののふ)の士は言葉の間違いだった」
と、他藩以上に過度な論告を行いました。
やはり、山内氏、長宗我部氏(チョースガメ)間における反目思想により、土佐風土を疎かにし、領民敵視政策が形成される様になり、農民が下士を敵視した場面は多分にありました。
わずか5万石の山内氏が、24万石にまでなって、土佐を収める話は数年前のNHk大河ドラマで明らかになりましたが、この山内氏により郷士制度を新設する事で差別構造を造り上げてしまいました。
これに伴う中で、斬り捨てごめん権すら与えられた訳です。
当時の上士盛組の歌に
「士の命は君にあり、いつも試せよ我が刀、にえと匂いの銘文と…」
とあり、豪気さがありました。
その象徴的な事件が、井口村門前事件に遡る60年ほど前の、寛政年間(1790年代)に起こる高村退吾事件です。
酒席の場に上士井上某が、郷士高村退吾を呼び、刀剣の目利きをさせたが酷評されたので、武士のあり方の間違った行き過ぎで斬殺してしまい、井上某は御咎めなしの処分に終わった事件でした。
これに郷士は激怒、国中の騒ぎになり、翌年藩はやむなく井上某を追放処分にする事で収束、これらの因縁が、郷士任命の天保庄屋同盟(天子を持ち上げた万民思想)から土佐勤王党に結びつきます。
やがて、こうした素因が土佐自由民権運動にまで発展したのではないか、と思われてなりません。
2015/07/15 Wed 22:27 [No.13]
木曽 武
甲子(カッシ・きのえね) 文化元年(1804)
乙丑(イッチュウ・きのとうし)2年(1805)
丙寅(ヘイイン・ひのえとら) 3年(1806)
丁卯(テイボウ・ひのとう) 4年(1807)
戊辰(ボシン・つちのえたつ) 5年(1808)
己巳(キシ・つちのとみ) 6年(1809)
庚午(コウゴ・かのえうま) 7年(1810)
辛未(シンビ・かのとひつじ) 8年(1811)
壬申(ジンシン・みずのえさる)9年(1812)
癸酉(キユウ・みずのととり) 10年(1813)
甲戌(コウジュツ・きのえいぬ)11年(1814)
乙亥(イツガイ・きのとい) 12年(1815)
丙子(ヘイシ・ひのえね) 13年(1816)
丁丑(テイチュウ・ひのとうし)14年(1817)
戊寅(ボイン・つちのえとら)文政元年(1818)
己卯(キボウ・つちのとう) 2年(1819)
庚辰(コウシン・かのえたつ) 3年(1820)
辛巳(シンシ・かのとみ) 4年(1821)
壬午(ジンゴ・みずのえうま) 5年(1822)
癸未(キビ ・みずのとひつじ) 6年(1823)
甲申(コウシン・きのえさる) 7年(1824)
乙酉(イツユウ・きのととり) 8年(1825)
丙戌(ヘイジュウ・ひのえいぬ) 9年(1826)
丁亥(テイガイ・ひのとい) 10年(1827)
戊子(ボ シ・つちのえね) 11年(1828)
己丑(キチュウ・つちのとうし) 12年(1829)
庚寅(コウイン・かのえとら)天保元年(1830)
辛卯(シンボウ・かのとう) 2年(1831)
壬辰(ジンシン・みずのえたつ) 3年(1832)
癸巳(キ シ・みずのとみ) 4年(1833)
甲午(コウゴ・きのえうま) 5年(1834)
乙未(イツビ・きのとひつじ) 6年(1835)
丙申(ヘイシン・ひのえさる) 7年(1836)
丁酉(テイユウ・ひのととり) 8年(1837)
戊戌(ボジュツ・つちのえいぬ) 9年(1838)
己亥(キガイ・つちのとい) 10年(1839)
庚子(コウシ・かのえね) 11年(1840)
辛丑(シンチュウ・かのとうし) 12年(1841)
壬寅(ジンイン・みずのえとら) 13年(1842)
癸卯(キボウ・みずのとう) 14年(1843)
甲辰(コウシン・きのえたつ)弘化元年(1844)
乙巳(イッシ・きのとみ) 2年(1845)
丙午(ヘイゴ・ひのえうま) 3年(1846)
丁未(テイビ・ひのとひつじ) 4年(1847)
戊申(ボシン・つちのえさる)嘉永元年(1848)
己酉(キユウ・つちのととり) 2年(1849)
庚戌(コウジュツ・かのえうぬ) 3年(1850)
辛亥(シンガイ・かのとい) 4年(1851)
壬子(ジンシ・みずのえね) 5年(1852)
癸丑(キチュウ・みずのとうし) 6年(1853)
甲寅(コウイン・きのえとら)安政元年(1854)
乙卯(イッポウ・きのとう) 2年(1855)
丙辰(ヘイシン・ひのえたつ) 3年(1856)
丁巳(テイシ・ひのとみ) 4年(1857)
戊午(ボゴ ・つちのえうま) 5年(1858)
己未(キ ビ・つちのとひつじ) 6年(1859)
庚申(コウシン・かのえさる)万延元年(1860)
辛酉(シンユウ・かのととり)文久元年(1861)
壬戌(ジンジュツ・みずのえいぬ)2年(1862)
癸亥(キガイ・みずのとい) 3年(1863)
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甲子 元治元年(1864)
乙丑 慶応元年(1865)
丙寅 2年(1866)
丁卯 3年(1867)
戊辰 明治元年(1868)
己巳 2年(1869)
庚午 3年(1870)
辛未 4年(1871)
壬申 5年(1872)
癸酉 6年(1873)
甲戊 7年(1874)
乙亥 8年(1875)
2015/07/14 Tue 17:31 [No.7]