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京都歴史研究会代表
9月19日(土)13時〜16時半
ひと・まち交流館京都
(京都市下京区河原町五条下ル)3階第5会議室にて
◇梅田雲濱五代目子孫
梅田昌彦氏(元大阪芸術大学教授)の記念講演は素晴らしかったです。。
◇詩吟も良かったです♪
◇朗読お疲れ様♪
◇雲濱生誕200年を顕彰するフォーラムを、
*パネラー
◇大高忠兵衛の子孫
◇維新クラブ会長:赤禰武人研究者
◇古高俊太郎研究者
◇鳥取藩:水戸学研究者
◇京都の天皇陵研究者
◇京都歴史研究会代表
*参加者約70名
ちょっとアンケートや記帳が上手く出来ませんでした。これからの課題ですね。
しかし、参加の皆さんから良かったと喜びの声をたくさん頂戴し、
大成功のフォーラムになりました。
約半年前からの準備でしたから、会員さん初め、応援下さった皆々様ご苦労様でした。
フォーラムを聴いて下さった皆々様
有り難う御座いました!
2015/09/20 Sun 22:47 [No.137]
杉さんぼく
本名和栗吉次郎(1822[1836?]〜1894)、墓に刻まれたように後年名乗る井汲=いくみ姓は、剣を学んだ師の備中津山藩士井汲唯一に由来します。
彼は元治元年12月18日の「倉敷-下津井屋事件」(下津井屋が米の買い占めをする不正を、大橋と云う町役人が代官所に訴えますが、まるで時代劇のように、その代官は下津井屋と結託していて、身柄を釈放し、逆に下津井屋が、大橋は不逞浪士と交流あり、と逆訴して、これに対して大橋は数人の同志と一緒に、下津井屋を襲撃して、4人を惨殺、放火した、という事件=明治2年・和栗吉次郎嘆願書)に連座して大坂に来て、ぜんざい屋(武者小路家臣)本多大内蔵に入り込みます。
ここで、「大坂に登り…共に事を謀り…来る20日を以て計画を実行すべく」(那須盛馬書簡)の、土佐藩士の大坂蜂起計画を知ることになります。
当時、獄中にあった武市瑞山の獄外書簡にも、「大坂一挙もいかが候や…只々1日も早くあれかしと祈る事に御座候…」「大坂一挙の事、頗る急務に御座候…」とありますから、確かにそうした計画はあったのでしょう。
和栗には、京の池田屋事件の事が頭にあったのかも知れません。
「谷三十郎と申す者、(大坂)八軒家に寓居罷あり、馴染みに御座候」(井汲恭平関係文書)と、早速、この件を、同郷の新選組幹部の谷三十郎に持ち込み、新選組に入隊を得ます。
入隊を期に、名を兄に因んで、谷川辰蔵と名乗りました。
そして、維新前後に井汲恭平と改名し、倉敷に帰郷しています。
維新前の無断脱国や、下津井屋事件でのその遺族の訴えに罪を問われますが、官軍兵士での軍功で不問にされました。
1894年(明治27年)1月2日、井汲恭平として黒谷に墓石を刻み京都で死去。
なぜか、墓石側面に「泉州堺」の文字、堺県の下級官吏だった由縁でしょうか、それとも何か泉州堺にまつわる縁者か何かにつながりある曰くがあるのでしょうや。
2015/09/11 Fri 10:14 [No.129]
京都歴史研究会代表
さて、この講座のレジェメで、彦根城博物館所蔵
戊午の密勅の写しのコピーを戴いた。
また、安政の大獄での処分リストも初めて見た。
これには、評定所(老中1名.寺社奉行.勘定奉行.町奉行.大目付.目付)が諮問決定した処分リストに、それより重い[死罪]の言葉などを付箋紙で貼り付けられたものだった。
例えば、吉田松陰は、初めは
「流罪」判決が「死罪」となっている。
井伊直弼が貼ったと伝わる、
罪を一段以上重くした書き換えだったが、母利美和教授が言うには、井伊直弼ではなく、井伊直弼と皆で決定した罪状という。。
因みに安政の大獄/主な処分者…
◆安政6年4月22日:前関白/鷹司政通、鷹司輔煕、前左大臣/近衛忠煕、前内大臣/三条実万⇒落飾(出家)。前武家伝奏/東坊城聡長⇒永蟄居。
青蓮院宮(久邇宮朝彦親王)⇒隠居永蟄居。
◆安政6年8月27日:
徳川斉昭⇒国許永蟄居。
水戸藩主/徳川慶篤⇒差控。
徳川慶喜⇒隠居・慎。
◆安政6年8月27日:第一次断罪水戸藩家老/安島帯刀⇒切腹。
京都留守居役/鵜飼吉左衛門⇒死罪.鵜飼幸吉⇒獄門。
藩士茅根伊予之介⇒死罪。
鮎沢伊大夫・小林良典⇒遠島。池内大学⇒中追放。
勘定奉行/川路聖謨(かわじとしあきら)⇒罷免.隠居差控。
◆安政6年9月6日
前老中/堀田正睦(ほったまさよし/佐倉藩主)⇒隠居。
◆安政6年9月10日
前老中/松平忠固⇒隠居。
◆安政6年10月7日:第二次断罪橋本左内・頼三樹三郎・飯泉喜内⇒死罪。
大覚院門跡家臣/六物空万⇒遠島。
◆安政6年10月27日:第三次断罪
吉田松陰⇒死罪。
◆安政6年12月16日
茅根伊予之介の息子/熊太郎⇒遠島。
※これにて処分終了。
だが、その翌年、安政7年3月3日、
井伊直弼(1815〜1860年3月24日)は、安政の大獄の報復を受けるような形で、
桜田門外において暗殺された
2015/09/11 Fri 07:23 [No.124]
京都歴史研究会代表
昔の教科書では
建武の中興でしたが
現在は…
建武の新政と教えてますね。
中興の意味が判りにくいのかも知れません。
2015/09/08 Tue 07:35 [No.114]
木曽 武
そうでしたね!
平安京の道路は、大路と小路が有りましたね。
自分が使った資料では、大路10丈・小路4丈だったので、
会報の投稿「鴻臚館」では、大路・小路の分け目なく、
[道は10丈] と書いてしまってます。
失敗してますが、宜しくです。
2015/09/06 Sun 10:33 [No.111]
木曽 武
若いころから、数十年気に成ってました。
PCも無く、ネットなども無く・・・
映画を見てはブツブツ
TVを見てはブツブツ
よく書いてくれました。早く大勢の人達が理解してほしいと思います。
2015/08/26 Wed 08:18 [No.104]
木曽
木曽 武こと・・・・です
13人目に参加 よろしくです。
2015/08/19 Wed 11:21 [No.97]
藤原改新
神戸にある湊川神社(楠公さん)の御祭神は楠木正成、子正行及び、弟正季以下一族十六柱並びに菊池武吉である。楠木正成は元弘元年(1331年)9月に後醍醐天皇の命を受け、鎌倉倒幕の兵を挙げ、執権北条氏の大軍と戦った。奇策智謀に優れ、鎌倉幕府を崩壊に導き、「建武中興」に大きな功績を立てた。しかし、まもなく足利尊氏が背き、一度は九州へ敗走したが、再び勢力を盛り返して京都に攻め上がってきた。正成は子正行に後事を託して桜井の駅で別れ、湊川で迎撃した。敵は数万に対して、味方は七百余騎、激戦の末、衆寡敵せず。延元元年(1336年)5月25日、「七生滅賊」を誓って、弟正季以下一族の人々と共に、殉節を遂げた。元禄5年(1692年)徳川光圀(水戸黄門)は、家臣の佐々宗淳(助さん)を遣わして碑石を建て、光圀みずから表面の「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字を書き、裏面には明の遺臣朱舜水の作った賛文を刻ませた。この墓碑建立によって、幕末から維新にかけて、頼山陽・吉田松陰・真木和泉・三条実美・坂本龍馬・高杉晋作・西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文などは、皆この墓前にぬかづいて報国の至誠を誓い、国事に奔走したのである。
2015/08/14 Fri 21:15 [No.94]