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  1. [153] 以下、三条旅宿改め池田屋事件余談です。

    同時代史料で捕縛メンバーからの裏付けはありませんから、池田屋事件騒動は冤罪だったかも…、というのはあながち間違いではないかも知れませんね。

    ここに、京都知事だった北垣國道(晋太郎)の日記「塵海」があります。

    その明治32年1月24日の条に、北垣國道は以下の様に記しました。
    1月21日  ・・・・ >> 続き
    新撰組余談
    杉さんぼく 2015/10/14 12:26
    1. [154] 資料
      元冶元年6月6日・池田屋事件の町奉行引き渡し

      大鷹屋忠兵衛 42歳
      西川耕蔵 42歳
      松村重助 43歳
      瀬尾幸十郎 31歳
      大中主膳 16歳
      澤井帯刀 23歳
      入江彦助 37歳
      官藤主水 33歳
      森主計 18歳
      内田太郎右衛門 22歳
      佐藤一郎 31歳
      > 続き
      新撰組余談資料
      杉さんぼく 2015/10/14 12:29
      1. [155] ★大国家文書(風聞書留)
        6月5日昨昼後.四条真町江向ケ壬生浪士様之者八人下部三人罷越.枡屋喜右衛門方ニ而土蔵ニ有之候左之品-武着類.興桑方壱ツ.桃成形壱ツ.鎧弐ツ.陣笠取合五ツ計。

        ★若杉家日記6月5日壬生浪士乱謀もの召取相成.アレコレト怪我人者多分切殺候也。

        京都の資料「人のうわさ」(京都総合資料館蔵)によれば、古高俊太郎から押  ・・・・ >> 続き
        続・新撰組余談資料
        杉さんぼく 2015/10/14 12:33
        1. [156] 資料=新撰組油小路事件の死体検案書

          一、藤堂平助(南部弥七郎)弐拾八、九才位
          疵所両足、横腹弐ケ所。
          面上鼻より口へ掛(け)深さ二寸程、長さ七寸斗り、刀を握り候儘果て。

          一、同所辻北東手に倒れ果て居り候ものは、三宅安兵衛(服部武雄)三拾才位
          疵所背中数ヶ所、これは倒れ候ところを散々に切り付け候趣にて、疵の数分からず。
          > 続き
          新撰組余談資料(鳥取藩風聞録)
          杉さんぼく 2015/10/14 12:47
    2. [157] 自分の本籍は 大仏南門前です(笑)Re: 新撰組余談 全く別の話ですが・・・ 2015/10/14 20:32
    3. [158] 丹羽出雲守 31歳
      川勝寛治 35歳
      河村能登守 45歳
      吉川兼治 39歳
      らは、伏見で捉えられたと聞きます。
      池田屋事変とは関係の無い、殉難者ですね。
      Re: 新撰組余談
      全く別の話ですが・・・ 2015/10/14 20:37
      1. [159] ですね。

        結局は、浪士並びに勤王方取締の事件だったんでしょうか。

        近藤局長は「洛陽の騒動」と確か書簡で記していますし、六角獄舎の村井正禮は「三条逆旅」と言って累史を残しました。

        総合資料館資料「人のうわさ」は、やはり風聞だけにその辺りに触れています。

        従って、三条池田屋だけの話ではありません。
        Re^2: 新撰組余談
        杉さんぼく 2015/10/15 00:17
        1. [167] 井上泰助が井上源三郎の首を埋めた余話。

          日野に現在、誠の文字とともに、○に井の字をいただく土蔵の井上記念館(五代目井上雅雄館長)があります。
          その井上家に口伝として伝わる話です。

          30年位前はまだ日野には、御一新の時は…と云うより、瓦解の時は…と云う古老が少なくなかったと、日野の郷土史家・谷春雄先生が語られ、また以下のように指摘されてました。<  ・・・・ >> 続き
          新撰組余談-源さんの首
          杉さんぼく 2015/10/19 07:58
          1. [170] 鳥羽伏見戦で、江戸に帰って「源三郎おじさんは伏見戦で討死なされた…」と、井上家に書簡をあてて伝えていますから、しっかりしたものです。(戦前まで現存していたが、現在紛失で行方不明)

            「とかく論議される新選組の功罪や、源三郎の人物批評はともかく、我が家の歴史と伝承は新選組史料とともに永く譲り続けてゆきたいものである」(子孫が語る新選組)(1979)と、孫に当たる故井上信衛(ノブエ  ・・・・ >> 続き
            新撰組余談-続・源さんの首
            杉さんぼく 2015/10/19 19:26
        2. [193] 武州八王子を中心に周辺村落に土着した郷士集団に、八王子千人同心があります。

          甲斐と武蔵の国境警備、治安の任をなし、天正18年(1590)の徳川氏が江戸入りに際し、甲斐武田の旧臣遺臣を中心に組織されました。

          八王子千人同心に土方姓はないか、と千人同心姓名在所図表(嘉永甲寅季秋)を見れば、八王子周辺の日野荒井村に、土方姓の千人同心、土方甚蔵さんがいました。<  ・・・・ >> 続き
          新撰組余話・八王子千人同心と土方姓
          杉さんぼく 2015/11/11 18:26
        3. [194] 西川耕蔵正義(1823〜65)は三条通の北村書肆に生まれました。
          書を読み学問を好み、梅田雲浜(1815〜59)に学んだ町人勤王家で、古高俊太郎の相弟子にもなります。

          元治元(1864)年6月5日池田屋の密議に加わりましたが、新選組の御用改めの急襲の難を逃れてながら、数日後、聖護院の寓居に隠れていたところ捕えられてしまいます。

          そして、翌元治二  ・・・・ >> 続き
          新撰組池田屋事件余話 西川耕蔵(北村太助)
          杉さんぼく 2015/11/11 22:55

[ 編集 ][ 返信 ]新撰組余談

杉さんぼく

以下、三条旅宿改め池田屋事件余談です。

同時代史料で捕縛メンバーからの裏付けはありませんから、池田屋事件騒動は冤罪だったかも…、というのはあながち間違いではないかも知れませんね。

ここに、京都知事だった北垣國道(晋太郎)の日記「塵海」があります。

その明治32年1月24日の条に、北垣國道は以下の様に記しました。
1月21日海舟危篤の記述に続く海舟薨去の訃報を、24日勝精から知らされてのその余話回想を綴るのです。

「維新ノ前元治甲子年六月…勝先生大坂二寓ス。國道之レヲ訪フ。…國道云、本月六日京都池田屋ノ変アリ。我輩同志ノ士多ク殺戮及ヒ捕縛セラル。…先生ノ門下坂本・千屋・望月等皆我信(ママ)友ナリ…。先生云、志士輩ハ如何ガスルカ。國道云、我が同志者坂本北副河田ノ輩、東西数百蝦夷ノ開拓ヲ図ル。此ハ先生(勝海舟)門下生中同意者頗ル多シ。故二此同志ハ大平山ニモ加ハラス、又長州ニモ走ラス、多ク京摂ノ間ニ潜伏シ、不幸ニシテ池田屋ノ変其有力者多数ヲ斃サレタリ。…故ニ北地策ハ全ク瓦解セリ。大仏南門前水口藩仮寓ト称シテ器械弾薬ヲ準備シ、又四条小橋西古高俊太郎別宅ヲ借リ、革具足製造所トシテ、大高又次郎之レヲ統轄シ、数十ノ壮士ヲ職工トシテ、日々具足ヲ制作シタリ。
此両所六月六日ニ襲ハレタリ。右ハ三十六年前、余二十七才同志者ト謀リ勝先生ヲ訪ヒ…実ニ一場ノ夢ノ如シ…」

ここに同志と記されたは、蝦夷視察経験ある北副佶馬、その話を参考にしようとしていた坂本龍馬、河田左久馬等ですが、海舟が保護しつつあった浪士たちを、蝦夷開拓にと協議していた、だから池田屋での話題にもあがったのではないか、とは飛躍かも知れません。。

同時代史料ってないんですかねえ、やはり。
(参考:塵海日記-北垣國道子孫・白倉光夫氏蔵1986年〜後に京都総合資料館寄託、2010年活字化により図書館で見れます)

2015/10/14 Wed 12:26 [No.153]

[ 編集 ][ 返信 ]新撰組余談資料

杉さんぼく

資料
元冶元年6月6日・池田屋事件の町奉行引き渡し

大鷹屋忠兵衛 42歳
西川耕蔵 42歳
松村重助 43歳
瀬尾幸十郎 31歳
大中主膳 16歳
澤井帯刀 23歳
入江彦助 37歳
官藤主水 33歳
森主計 18歳
内田太郎右衛門 22歳
佐藤一郎 31歳
近江屋きん 22歳
和泉屋手代・幸二郎 34.5歳
和泉屋重助 45.6歳
丹波屋次郎兵衛 49歳
同人倅・万助 26歳

(中山忠能履歴)

●捕縛の六角獄舎収監者
大鷹屋忠兵衛 42歳
西川耕蔵 42歳
松村屋重助 43歳
大中主膳 16歳
瀬尾幸十郎 33歳
澤井帯刀 23歳
内山太郎右衛門 28歳

近江屋きん 22歳
佐藤一郎 31歳
宮津屋三郎右衛門 46歳
松下喜三郎 20歳
近江屋とき 27歳
吉兵衛 32歳
近江屋宇兵衛 43歳
勇助
桝屋喜右衛門 36歳
池田屋惣兵衛 56歳
豊後屋友七 48歳
同人倅・久蔵 21歳
和泉屋弟分・幸次郎 33歳
和泉屋重助 43歳
丹波屋次郎兵衛 43歳
同人養子・万助 26歳
木村甚五郎 28歳
百姓・越二 30歳

兼次郎 21歳
伊勢屋又七 25歳

正徳寺弟子・念道 70歳
永寿院僧・光山 22歳
池田屋入江彦助 31歳
官重主水 33歳(佐伯稜威雄)

森主水 18歳

丹羽出雲守 31歳
川勝寛治 35歳
河村能登守 45歳
吉川兼治 39歳

(新選組池田屋夜襲一件)

2015/10/14 Wed 12:29 [No.154]

[ 編集 ][ 返信 ]続・新撰組余談資料

杉さんぼく

★大国家文書(風聞書留)
6月5日昨昼後.四条真町江向ケ壬生浪士様之者八人下部三人罷越.枡屋喜右衛門方ニ而土蔵ニ有之候左之品-武着類.興桑方壱ツ.桃成形壱ツ.鎧弐ツ.陣笠取合五ツ計。

★若杉家日記6月5日壬生浪士乱謀もの召取相成.アレコレト怪我人者多分切殺候也。

京都の資料「人のうわさ」(京都総合資料館蔵)によれば、古高俊太郎から押収されたのは以下の通りとあります。
「…具足七領、鑓拾本、鉄砲拾挺、塩硝沢山」

「木砲数門、甲冑拾領、砲弾丸一発、竹筒入り火薬五本」(古高自白部分)

そして、近藤勇書簡。
「…甲冑拾壱領、槍二十五筋、木砲十貫目位五門、短筒三挺、火薬大筒壱本、一重藤弓拾壱張、矢五百筋、他外着込、長刀、武器類五持有之…」
あと、書簡類がありましたが、陰謀には関与しない私的な書付ばかりでした。

大仏辺の元山七郎からは
「鑓五本、具足類二荷、内二具足二領…」

実はこれら以上に、四条千本某所から押収されています。
「…大砲の玉つづらに六盃、松烟(硝煙)多分二買い込み、大坂より西高瀬にて積み登りし鉄砲、大筒、船に六盃も差し置きにあいなり…(俊太郎)同類の者、近江屋菊次郎21歳、正法寺弟子・念道70歳、同永寿院・光山42歳、枡屋喜右衛門、伊勢屋又七35歳」(改訂肥後藩国事史料)

古高の武具類に比べて、大掛かりなつづら六盃の砲弾、大量の硝煙、川船六盃の鉄砲、大砲等…、これらの武器弾薬を何に使おうとしていたのでしょうか。

2015/10/14 Wed 12:33 [No.155]

[ 編集 ][ 返信 ]新撰組余談資料(鳥取藩風聞録)

杉さんぼく

資料=新撰組油小路事件の死体検案書

一、藤堂平助(南部弥七郎)弐拾八、九才位
疵所両足、横腹弐ケ所。
面上鼻より口へ掛(け)深さ二寸程、長さ七寸斗り、刀を握り候儘果て。

一、同所辻北東手に倒れ果て居り候ものは、三宅安兵衛(服部武雄)三拾才位
疵所背中数ヶ所、これは倒れ候ところを散々に切り付け候趣にて、疵の数分からず。
うつむせに倒れおり候を、翌日あおむけ候ところ、腕先三ヶ所、股脚四、五ヶ所、かか先(踵)一ヶ所、胴腹一ヶ所、流血夥し。

一、油小路通七条少し上ル東側へ寄り倒れ果て居り候は、寺(毛)内監物 三拾弐、参才位
疵所書き尽くし難く、五体散々離れ離れに相成り、実に目も当てられぬ斗に御座候。
傍に刀の折れ候儘捨てこれあり、脇さし握り候儘果て居り候。(鳥取藩慶応丁卯筆記より)

2015/10/14 Wed 12:47 [No.156]

[ 編集 ][ 返信 ]Re: 新撰組余談

全く別の話ですが・・・

自分の本籍は 大仏南門前です(笑)

2015/10/14 Wed 20:32 [No.157]

[ 編集 ][ 返信 ]Re: 新撰組余談

全く別の話ですが・・・

丹羽出雲守 31歳
川勝寛治 35歳
河村能登守 45歳
吉川兼治 39歳
らは、伏見で捉えられたと聞きます。
池田屋事変とは関係の無い、殉難者ですね。

2015/10/14 Wed 20:37 [No.158]

[ 編集 ][ 返信 ]Re^2: 新撰組余談

杉さんぼく

ですね。

結局は、浪士並びに勤王方取締の事件だったんでしょうか。

近藤局長は「洛陽の騒動」と確か書簡で記していますし、六角獄舎の村井正禮は「三条逆旅」と言って累史を残しました。

総合資料館資料「人のうわさ」は、やはり風聞だけにその辺りに触れています。

従って、三条池田屋だけの話ではありません。

2015/10/15 Thu 00:17 [No.159]

[ 編集 ][ 返信 ]新撰組余談-源さんの首

杉さんぼく

井上泰助が井上源三郎の首を埋めた余話。

日野に現在、誠の文字とともに、○に井の字をいただく土蔵の井上記念館(五代目井上雅雄館長)があります。
その井上家に口伝として伝わる話です。

30年位前はまだ日野には、御一新の時は…と云うより、瓦解の時は…と云う古老が少なくなかったと、日野の郷土史家・谷春雄先生が語られ、また以下のように指摘されてました。

「しり上がりの三多摩弁と作家は云うが、多摩地方はしり上がりではない、それに、しきりに武州三多摩と言っているが、徳川時代は多摩郡であり、西、南、北の三郡に別れたのは明治初年で、近藤、土方、井上、沖田の時代は三多摩はなかった」と。

そんな谷春雄先生が記す、風貌が源三郎に似た泰助、その泰助長男・覚太郎の妻ケイさんの、泰助が語り遺した記憶語り。

「源三郎おじさんは、普段無口でおとなしいが、思い込んだらてこでも動かない。…鳥羽伏見戦での命令、引けにも関わらず、戦い続けて遂に弾丸に当たって倒れ、手当て間もなく息を引き取った。…おじさんの首と刀を持って、大坂に引き揚げるため歩き出したが、首がこれほど重いとは思ってもみなかった。…一緒に引き揚げる隊士から『首を持っては一行に遅れ、敵に捕まる、残忍だろうが捨てろ』と言われ、とある寺の門前の田んぼを掘って埋め、舟で大坂に引き揚げた。誰か京都の方に行った時にはお参りして来い…」(1972年-82歳)

この寺が日野にあるのと、偶然な欣浄寺だったかどうかは定かではありません。

井上泰助、井上家伝に「泰助爺さんは近藤勇の刀持ちだった」ともあるように、近藤、土方が泰助父、松五郎に頼まれて個人的に小姓として雇った少年隊士でした。
記録に子供とありますが、今の12.3歳の比ではありません。

2015/10/19 Mon 07:58 [No.167]

[ 編集 ][ 返信 ]新撰組余談-続・源さんの首

杉さんぼく

鳥羽伏見戦で、江戸に帰って「源三郎おじさんは伏見戦で討死なされた…」と、井上家に書簡をあてて伝えていますから、しっかりしたものです。(戦前まで現存していたが、現在紛失で行方不明)

「とかく論議される新選組の功罪や、源三郎の人物批評はともかく、我が家の歴史と伝承は新選組史料とともに永く譲り続けてゆきたいものである」(子孫が語る新選組)(1979)と、孫に当たる故井上信衛(ノブエイ)氏も、武田遺臣であり、1700年に八王子千人同人筆頭とあるのを誇りに語り遺されていますね。

井上源三郎一重(日野八坂神社奉納額)、一武(墓石)。
年齢は30歳(生卒、天保10亥年3月1日、明治元辰年正月4日死、享年30).40歳(新選組始末記)とも…。

結局は首の行方は不明としか言いようがありません。

もって、瞑すべし。

なお、源三郎終焉については、井上資料館長も同行した市川三千代さん(2008)の、淀調査報告があるとの事で擱筆とします。

2015/10/19 Mon 19:26 [No.170]

[ 編集 ][ 返信 ]新撰組余話・八王子千人同心と土方姓

杉さんぼく

武州八王子を中心に周辺村落に土着した郷士集団に、八王子千人同心があります。

甲斐と武蔵の国境警備、治安の任をなし、天正18年(1590)の徳川氏が江戸入りに際し、甲斐武田の旧臣遺臣を中心に組織されました。

八王子千人同心に土方姓はないか、と千人同心姓名在所図表(嘉永甲寅季秋)を見れば、八王子周辺の日野荒井村に、土方姓の千人同心、土方甚蔵さんがいました。

あと、戸倉新田(国分寺)にも土方姓の土方兼五郎さんがおりました。

武田家遺臣の千人同心に名を連ねる中に、土方姓があるのも大したもんです。

多分、土方副長のお大尽生家土方家もどこか繋がりがあるのではないでしょうか。

石田寺に行く途中、土方生家(土方記念館)からモノレール高架下に行く手前の北側に、今も大きな豪農屋敷があるかも知れません。(15、6年前でしたが)

参考
江戸幕府千人同心史料(村上直編/1983文献出版)

2015/11/11 Wed 18:26 [No.193]

[ 編集 ][ 返信 ]新撰組池田屋事件余話 西川耕蔵(北村太助)

杉さんぼく

西川耕蔵正義(1823〜65)は三条通の北村書肆に生まれました。
書を読み学問を好み、梅田雲浜(1815〜59)に学んだ町人勤王家で、古高俊太郎の相弟子にもなります。

元治元(1864)年6月5日池田屋の密議に加わりましたが、新選組の御用改めの急襲の難を逃れてながら、数日後、聖護院の寓居に隠れていたところ捕えられてしまいます。

そして、翌元治二年(1865)西土居刑場で斬罪に処せられました。
その顕彰碑が近江の三井寺建てられています。

建てたのは西川太治郎氏。
西川耕蔵の一族で、その正義伝や池田屋事変記を著した近江新報社長で、後に大津市長(在任明治41〜43年)にもなりました。

顕彰碑所在地 滋賀県大津市園城寺町(三井寺内、小関越えをしたらすぐ目に入ります)

建立年 明治38年
建立者西川太治郎
寸 法 高120×幅48cm
碑 文
[東南]
贈従五位故西川耕蔵君招魂碑
[西北]
君諱正義通称耕蔵西川氏近江人来寓京都従学梅田雲浜業成授徒君為人直実好義屹有君子之風
元治元年六月会有志諸士於三条旅宿池田屋密議国事其夜為幕吏所襲遂死於獄享年四十有三
葬於洛東霊山明治卅六年十一月勅贈従五位又賜靖国神社合祀蓋特典也
宗族西川太治郎哀君非命而感天恩之厚手編輯其履歴名殉難録刊行於世焉頃日又建招魂碑于近江長等山以祭之嗚乎西川氏之族好義之深至此豈可不感哉

明治卅八年六月 鉄斎富岡百練撰

辞世
天は父地は母なるそか中に
立身にしあれはつとめさらめ哉 西川正義
石工 北条徳太郎鐫

続く

2015/11/11 Wed 22:55 [No.194]