杉さんぼく
井上泰助が井上源三郎の首を埋めた余話。
日野に現在、誠の文字とともに、○に井の字をいただく土蔵の井上記念館(五代目井上雅雄館長)があります。
その井上家に口伝として伝わる話です。
30年位前はまだ日野には、御一新の時は…と云うより、瓦解の時は…と云う古老が少なくなかったと、日野の郷土史家・谷春雄先生が語られ、また以下のように指摘されてました。
「しり上がりの三多摩弁と作家は云うが、多摩地方はしり上がりではない、それに、しきりに武州三多摩と言っているが、徳川時代は多摩郡であり、西、南、北の三郡に別れたのは明治初年で、近藤、土方、井上、沖田の時代は三多摩はなかった」と。
そんな谷春雄先生が記す、風貌が源三郎に似た泰助、その泰助長男・覚太郎の妻ケイさんの、泰助が語り遺した記憶語り。
「源三郎おじさんは、普段無口でおとなしいが、思い込んだらてこでも動かない。…鳥羽伏見戦での命令、引けにも関わらず、戦い続けて遂に弾丸に当たって倒れ、手当て間もなく息を引き取った。…おじさんの首と刀を持って、大坂に引き揚げるため歩き出したが、首がこれほど重いとは思ってもみなかった。…一緒に引き揚げる隊士から『首を持っては一行に遅れ、敵に捕まる、残忍だろうが捨てろ』と言われ、とある寺の門前の田んぼを掘って埋め、舟で大坂に引き揚げた。誰か京都の方に行った時にはお参りして来い…」(1972年-82歳)
この寺が日野にあるのと、偶然な欣浄寺だったかどうかは定かではありません。
井上泰助、井上家伝に「泰助爺さんは近藤勇の刀持ちだった」ともあるように、近藤、土方が泰助父、松五郎に頼まれて個人的に小姓として雇った少年隊士でした。
記録に子供とありますが、今の12.3歳の比ではありません。
2015/10/19 Mon 07:58 [No.167]