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新撰組余談

杉さんぼく

以下、三条旅宿改め池田屋事件余談です。

同時代史料で捕縛メンバーからの裏付けはありませんから、池田屋事件騒動は冤罪だったかも…、というのはあながち間違いではないかも知れませんね。

ここに、京都知事だった北垣國道(晋太郎)の日記「塵海」があります。

その明治32年1月24日の条に、北垣國道は以下の様に記しました。
1月21日海舟危篤の記述に続く海舟薨去の訃報を、24日勝精から知らされてのその余話回想を綴るのです。

「維新ノ前元治甲子年六月…勝先生大坂二寓ス。國道之レヲ訪フ。…國道云、本月六日京都池田屋ノ変アリ。我輩同志ノ士多ク殺戮及ヒ捕縛セラル。…先生ノ門下坂本・千屋・望月等皆我信(ママ)友ナリ…。先生云、志士輩ハ如何ガスルカ。國道云、我が同志者坂本北副河田ノ輩、東西数百蝦夷ノ開拓ヲ図ル。此ハ先生(勝海舟)門下生中同意者頗ル多シ。故二此同志ハ大平山ニモ加ハラス、又長州ニモ走ラス、多ク京摂ノ間ニ潜伏シ、不幸ニシテ池田屋ノ変其有力者多数ヲ斃サレタリ。…故ニ北地策ハ全ク瓦解セリ。大仏南門前水口藩仮寓ト称シテ器械弾薬ヲ準備シ、又四条小橋西古高俊太郎別宅ヲ借リ、革具足製造所トシテ、大高又次郎之レヲ統轄シ、数十ノ壮士ヲ職工トシテ、日々具足ヲ制作シタリ。
此両所六月六日ニ襲ハレタリ。右ハ三十六年前、余二十七才同志者ト謀リ勝先生ヲ訪ヒ…実ニ一場ノ夢ノ如シ…」

ここに同志と記されたは、蝦夷視察経験ある北副佶馬、その話を参考にしようとしていた坂本龍馬、河田左久馬等ですが、海舟が保護しつつあった浪士たちを、蝦夷開拓にと協議していた、だから池田屋での話題にもあがったのではないか、とは飛躍かも知れません。。

同時代史料ってないんですかねえ、やはり。
(参考:塵海日記-北垣國道子孫・白倉光夫氏蔵1986年〜後に京都総合資料館寄託、2010年活字化により図書館で見れます)

2015/10/14 Wed 12:26 [No.153]