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新撰組余談資料

杉さんぼく

資料
元冶元年6月6日・池田屋事件の町奉行引き渡し

大鷹屋忠兵衛 42歳
西川耕蔵 42歳
松村重助 43歳
瀬尾幸十郎 31歳
大中主膳 16歳
澤井帯刀 23歳
入江彦助 37歳
官藤主水 33歳
森主計 18歳
内田太郎右衛門 22歳
佐藤一郎 31歳
近江屋きん 22歳
和泉屋手代・幸二郎 34.5歳
和泉屋重助 45.6歳
丹波屋次郎兵衛 49歳
同人倅・万助 26歳

(中山忠能履歴)

●捕縛の六角獄舎収監者
大鷹屋忠兵衛 42歳
西川耕蔵 42歳
松村屋重助 43歳
大中主膳 16歳
瀬尾幸十郎 33歳
澤井帯刀 23歳
内山太郎右衛門 28歳

近江屋きん 22歳
佐藤一郎 31歳
宮津屋三郎右衛門 46歳
松下喜三郎 20歳
近江屋とき 27歳
吉兵衛 32歳
近江屋宇兵衛 43歳
勇助
桝屋喜右衛門 36歳
池田屋惣兵衛 56歳
豊後屋友七 48歳
同人倅・久蔵 21歳
和泉屋弟分・幸次郎 33歳
和泉屋重助 43歳
丹波屋次郎兵衛 43歳
同人養子・万助 26歳
木村甚五郎 28歳
百姓・越二 30歳

兼次郎 21歳
伊勢屋又七 25歳

正徳寺弟子・念道 70歳
永寿院僧・光山 22歳
池田屋入江彦助 31歳
官重主水 33歳(佐伯稜威雄)

森主水 18歳

丹羽出雲守 31歳
川勝寛治 35歳
河村能登守 45歳
吉川兼治 39歳

(新選組池田屋夜襲一件)

2015/10/14 Wed 12:29 [No.154]

新撰組余談

杉さんぼく

以下、三条旅宿改め池田屋事件余談です。

同時代史料で捕縛メンバーからの裏付けはありませんから、池田屋事件騒動は冤罪だったかも…、というのはあながち間違いではないかも知れませんね。

ここに、京都知事だった北垣國道(晋太郎)の日記「塵海」があります。

その明治32年1月24日の条に、北垣國道は以下の様に記しました。
1月21日海舟危篤の記述に続く海舟薨去の訃報を、24日勝精から知らされてのその余話回想を綴るのです。

「維新ノ前元治甲子年六月…勝先生大坂二寓ス。國道之レヲ訪フ。…國道云、本月六日京都池田屋ノ変アリ。我輩同志ノ士多ク殺戮及ヒ捕縛セラル。…先生ノ門下坂本・千屋・望月等皆我信(ママ)友ナリ…。先生云、志士輩ハ如何ガスルカ。國道云、我が同志者坂本北副河田ノ輩、東西数百蝦夷ノ開拓ヲ図ル。此ハ先生(勝海舟)門下生中同意者頗ル多シ。故二此同志ハ大平山ニモ加ハラス、又長州ニモ走ラス、多ク京摂ノ間ニ潜伏シ、不幸ニシテ池田屋ノ変其有力者多数ヲ斃サレタリ。…故ニ北地策ハ全ク瓦解セリ。大仏南門前水口藩仮寓ト称シテ器械弾薬ヲ準備シ、又四条小橋西古高俊太郎別宅ヲ借リ、革具足製造所トシテ、大高又次郎之レヲ統轄シ、数十ノ壮士ヲ職工トシテ、日々具足ヲ制作シタリ。
此両所六月六日ニ襲ハレタリ。右ハ三十六年前、余二十七才同志者ト謀リ勝先生ヲ訪ヒ…実ニ一場ノ夢ノ如シ…」

ここに同志と記されたは、蝦夷視察経験ある北副佶馬、その話を参考にしようとしていた坂本龍馬、河田左久馬等ですが、海舟が保護しつつあった浪士たちを、蝦夷開拓にと協議していた、だから池田屋での話題にもあがったのではないか、とは飛躍かも知れません。。

同時代史料ってないんですかねえ、やはり。
(参考:塵海日記-北垣國道子孫・白倉光夫氏蔵1986年〜後に京都総合資料館寄託、2010年活字化により図書館で見れます)

2015/10/14 Wed 12:26 [No.153]

続々・お伊勢参り道中咄

杉さんぼく

しかし、伊勢本街道は距離的に短い分、険しい山道が多く、これより北を走る北街道(青越え)の方が平坦であった為、参勤交代に使われたりして、次第に伊勢本街道の整備は怠られるようになり、利用者も減っていった。

明治時代に入り、一時は復興的に整備がなされるものの時既に遅く、鉄道の普及に伴い伊勢本街道は時代に取り残されてしまった。

かつては参宮者で賑わった旅籠も廃業に追い込まれ、今では沿道の人口も減って、過疎の一途を辿るばかりだ。

しかし、開発が進まなかった分、常夜灯や道標、旧旅籠の遺構、細くうねる様に続く道など、旧道の面影を随所に見ることが出来、旅人たちが目にした事の、往時の街道風情の名残りを今に留めている。

お伊勢七度、熊野へ三度、愛宕詣での月参り、朝熊詣らねば片詣り、お伊勢お多賀の子でござる…とやら、こんな里謡が今に生きる庶民旅、それが伊勢参り街道である。

2015/10/13 Tue 23:10 [No.152]

続・お伊勢参り道中咄

杉さんぼく

また、約60年に一度、「参宮ブーム」現象が起こり、年間何百万人もの参宮者が伊勢参りをした。

これを「おかげ参り」と呼び、慶安3年(1650)、宝永2年(1705)、明和8年(1771)等があり、とりわけ文政13年(1830)に起こった「おかげ参り」はつとに有名である。

こういった人々を伊勢へと駆り立てる原動力には、神宮信仰はもとより、旅そのものへの憧れや、日常からの逃避が大いにあったのは否めない。

無論、十返舎一九の東海道中膝栗毛や、北斎に歌川広重の東海道五十三次等の影響もなくはない。

実際、講に属さない個人の参宮者も多く、関東、東海方面からの東海道を上り、四日市の日永追分で東海道と別れて、伊勢を目指すルートが挙げられる。

これは、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』などでも紹介されているルートで、「伊勢街道」「参宮街道」の別称もある。

これに対し、西国、関西方面からの参宮者が辿った道筋のほとんどが、大和(奈良)を経由するものだ。

大阪を経て、奈良から伊勢に至る道は複数あるが、最短コースが「伊勢本街道」と呼ばれる道である。

大阪の玉造稲荷神社を起点として、大和との県境にある暗峠を越え、奈良(猿沢池)から三輪、初瀬(ここまでは初瀬街道とも)、榛原、山粕、菅野、奥津、多気、津留、相可、田丸などを経て、宮川を渡って山田(伊勢)に到る約170kmの行程だ。

そもそも「伊勢本街道」は、神宮を伊勢に祀った倭姫命が、大和から伊勢へ向かった際に通った道といわれ、松本清張氏の小説「Dの複合」ではないが、北緯34度31分を貫くいわゆる「太陽の道」とも関連付けられることから、「神意に叶う道」として、西からの参宮者が多く利用した道であった。

2015/10/13 Tue 15:02 [No.151]

お伊勢参り道中咄

杉さんぼく

伊勢本街道と伊勢詣りについて〜
★「伊勢に行きたい、伊勢路が見たい、せめて一生に一度でも」、と伊勢音頭でも唄われたように、神宮の鎮まる伊勢を目指す旅は、江戸時代の庶民が夢にまで見た憧れの旅だった。

その伊勢参宮の歴史は古く、鎌倉時代中期以降、神宮信仰の担い手であった御師の布教の力が大きい。
これにより全国的な広まりと共に、道の整備なども進み、旅のし易い環境が整っていった。

戦国末期には、織田信長の政策などによって各地の関所が廃され、参宮者の数も増加。更に、江戸時代になると、幕府主体の宿駅制度の制定や交通事情の改善に加え、経済的・時間的余裕を持つまでになった庶民層も大いに旅を楽しむことが出来、賑わいを増した。

そうした安定期の江戸時代にあっては、旅そのものがいわば娯楽であったから、伊勢詣りは最も人気の高い旅の目的地として確立するに到った。

村などの共同体で講を作り、積立金を元手に代表者が伊勢まで旅して参拝(代参)するというケースも全国的に見られた。
これが伊勢講である。

2015/10/13 Tue 14:49 [No.150]

気になる人々 続・藤野齋と千葉重太郎

杉さんぼく

やがて翌7日になって、ようやく山田から、裏判所と千葉より500両を借り出す事に成功、借金清算して東京を後に出来ました。
こうした経緯に藤野の心に残ったのは、山田のような藩官僚への不信と憤懣のなにものでもありません。
考えれば、龍馬と土佐藩京都官僚にも似たような何らの関係があったのでは、と勘ぐれます。
かくして出征者35人中、戦死4人病死2人他負傷の山国隊、明治元年11月25日京都に凱旋しました。
明治5年6月25日付けで、藤野が出した「自弁取調書」には、「255両出兵中因藩御裏判所ニテ借用金額996両ヲ正金ヲ以、千葉重太郎及山田宗平殿へ、帰後金策二付…」
「996両鳥取藩裏判所より軍隊へ金度々借リ入、巳年2月繰り替金ヲ以返納ス」
との記載が見えます。
996両のうちの千葉の500両は、どうにかかき集めて元利と521両余りを、帰郷後直ちに12月の12日に発送返金しています。

明治2年1月21日には、千葉に謝礼として上羽二重一疋を贈っていますから、藤野って人は律義で偉いですねえ。

上記の自弁取調書いわく、軍費7800両のうち4400両を返済し、3400両が借財として残ったそうで、杣山売却等で返済したりした後、明治8年6年終身禄返還により、返納されたようです。

参考
山国隊史(永井登1906)/丹波山国隊史(水口民次郎.山国護国神社1966)/征東日記[山国農兵隊日記](藤野齋-仲村研・宇佐美英機編1985)/山国隊(仲村研1968)

2015/10/06 Tue 06:51 [No.148]

気になる人々 藤野齋と千葉重太郎

杉さんぼく

山国隊、藤野齋と千葉重太郎について触れます。

それは明治元年11月に始まります。

山国隊が因州藩の属農兵隊という事で、因幡藩江戸屋敷納戸役(金銀.衣服.調度出納)千葉重太郎が、藤野齋を因州裏判所(藩財政)に周旋した間柄により、帰郷に際し、それまでの立て替え金373両の返却督促に千葉重太郎が来ました。

今、帰郷費用を裏判所に借財申請しているとの藤野の弁に、半額でも返金願いたいと千葉が迫ります。

困った藤野は、11月1日河田左久馬に隊費陳情助力を乞いますが、色よい返事なく、11月5日の東京出立まで藤野は金策に奔走する訳です。

隊員不満も募り、河田名義の裏判所借受金50両で隊員をなだめながら、当時の上京していた因幡藩京都留守居役・山田宗平に、書面で500両の借財調達依頼をしました。

とにかく山田宅で待つと、そこに千葉がやって来ました。

そして言うには、裏判所から500両を拙者名義で借り、373両は拙者に返金して貰って、残127両から河田名義の50両を返却すればどうか?と持ちかけました。
ある意味、体のいい千葉の徴収の仕方で、千葉はそこまで、因州藩に関わり合っていたのです。

だからか先年、妹佐那が因州鳥取藩士と婚姻していたという事実が判明しました。

こうした中で、山国隊は11月5日に東京を出立します。
藤野はしかし借財問題で同行出来ません。

その夜、千葉が藤野を訪ねて来ました。
藤野はしかし、再借財、返金の金銭については言い出せず、憤懣は因幡藩京都留守居役山田宗平に向かいます。

翌日、不誠実だからだと、6日深川で宴席に耽る山田を訪ねて藤野は激しく詰問します。

続く

2015/10/06 Tue 06:48 [No.147]

龍馬奥津城余談

杉さんぼく

東大維新資料編纂所の資料に、鳥取藩丁卯筆記と云うリアルタイムな探索方記述があります。

「…右三人の死骸、神道の式をもって…高台寺の南隣、国阿上人の旧跡霊山山内、村上歳太郎請け持ちの山地に埋葬に相成り、右山地埋葬の場所へ続きをもって一見仕り候ところ…檜木五寸角くらいの標木、長さ五尺くらい三本建て並べこれあり…坂本龍馬紀直柔神霊、裏に慶応三年丁卯十一月十六日神去三十三才とあい記しこれあり、左の方向同断標面、中岡慎太郎道正神霊、裏に同断年号月日とも、下に三十才と認めこれあり、右の方標面、籐吉神霊、裏に前同断、下に十九才とあい認め記しこれあり候…」

と、葬儀の翌日に墓碑の前に立った鳥取藩探索方が書き残して報告しています。

この記述を改めて見ると、今の龍馬慎太郎墓との違いがあるのは判りますか?

現在の墓は、右手に「中岡慎太郎道正之墓」

左手の真ん中に「坂本竜馬直柔之墓」

そして、囲い外には「藤吉之墓」です。

これは一般的かどうか判りませんが、著名ランクの本来なら一番右に龍馬であり、慎太郎はその次の位置にある訳です。

つまり、集合墓なら一番が右に龍馬であり、左に慎太郎との順番になります。

さて、そこで鳥取藩探索方のリアルタイムな記述です。

「…右三人の死骸、神道の式をもって…檜木五寸角くらいの標木、長さ五尺くらい三本建て並べこれあり…坂本龍馬紀直柔神霊、裏に慶応三年丁卯十一月十六日神去三十三才とあい記しこれあり、左の方向同断標面、中岡慎太郎道正神霊…」

と、葬儀の翌日に墓碑の前に立って報告しています。

「右三人の死骸、…三本建て並べこれあり…坂本龍馬紀直柔神霊、あい記しこれあり、左の方向同断標面、中岡慎太郎道正神霊…これあり…」

当初は、右に龍馬、その左に慎太郎だったのですよ。

いつから代わったのか?疑問に感じざるを得ません。

2015/10/06 Tue 06:37 [No.146]

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