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  1. 梅田雲浜生誕200年mini見に記念フォーラム(-)
  2. 安島帯刀余話(-)
  3. 玉としての天皇(-)
  4. 上原立齋先生(-)
  5. 道と路の道中咄(-)
  6. 石高でいくら(-)
  7. 紀元二千六百年の歌と平安神宮(-)
  8. Re^2: 幕臣高橋泥舟伊勢守(-)

梅田雲浜生誕200年mini見に記念フォーラム

杉さんぼく

そう、台風が心配です。

何しろ、配付資料が90部(1部14〜5枚)創刊号会報100部に加え、無料提供単行本が20冊以上あるのですからね。

さて〜。

結婚式の司会はこれまで幾度となくこなしてきましたけども、話の成り行きの分からない今回は、いやはや、いやはや…。

まさに、太宰治の口にするヴェルレーヌの「恍惚と不安の二つ我れにあり」です。

詩吟の先生、以前はH見の消防署長さんだったんですって。

今は、京都の消防局関連で何かあれば会見の場に出られてコメントをされる由のお偉いさんの由。(それは浅見刑事局長のようなのでありませんか!?)

2015/08/11 Tue 00:16 [No.89]

安島帯刀余話

杉さんぼく

安島帯刀は、斉昭が藤田東湖の後継ぐ人間として信任していた家老だっただけに、惜しまれた。
井伊大老の思惑を忖度して死を決意してか、鏡に自分の自撮り肖像画を残しただけに、その思いや計り知れない。

切腹、自刃、丁重に死したと言う。

2015/08/05 Wed 20:01 [No.87]

玉としての天皇

杉さんぼく

天皇、天皇制、天皇制ideologyと言うことの思想史上の相違かも知れません。

天皇存在価値、天皇存在制度、左翼言語から生まれた天皇制ideologyのあり方が、最も顕著に問われたのが徳川幕府末期でしたから、それは桂書簡にいう「玉」の認識観念でもあきらかです。

そんな天皇「玉」取り騒ぎの戊辰戦争、波及の東北は会津、庄内にとって不幸だった奥羽列藩同盟(明確にはどうか判りませんが)での、米沢の離反でした。

米沢藩の、義理と人情を量りにかけねばならない義には、「玉」の価値より、制度への読みがあり、会津の不幸は「玉」孝明天皇辰翰にあった、と言っても過言ではないのではないでしょうか。

九重・菊と荊冠旗は、やはり現代までも続くタブーかも知れまい。

知れば迷ひ、知らねば迷ふ恋の道(豊玉)

と言うところでありましょう。

2015/08/05 Wed 15:36 [No.86]

上原立齋先生

杉さんぼく

京都に近い大津に大練寺と云うのがあり、そこに漢学者上原甚太郎立斎(1794〜1854)の墓があるのを皆さん方はご存知でしょうか?

上原甚太郎立斎は寛政6年(1794)高島郡新儀村北畑(高島市)上原丹三郎の長男に生まれ、若くから大津に出て若林強斎の学統を学び、崎門学者(儒学者、山崎闇斎の門下)として京都にも名を知られた学者でした。

その名声を聞いたのが小浜藩士、梅田源次郎雲濱で、京都遊学中に立斎の弟子となることを申し出て、その非凡さを見抜かれて学友となし親交を深めました。

その後、梅田雲濱は大津の北保町荒神堂近くの坂本町にある米穀商、中村五兵衛の別宅を借りて私塾、湖南塾を開塾、その時に立斎は娘信(しん)を雲濱に嫁がせました。

信は、書画にも優れた若い才女で、尊王攘夷運動に奔走する雲濱を支えてよく尽くし、貧困生活にもめげずにいましたが、辛労が祟ってか29歳の若さで病死しました。

そして、立斎は嘉永7年(1854)1月8日、61歳で没しています。

「梅田雲濱先生湖南塾址」が、長等小学校の校門前に梅田雲濱顕彰碑(ここは二度目の塾で、最初の開塾地は、現在の浜大津5丁目辺りとかです)としてありますが、師の上原立斎と娘のとの交情話には、激動の幕末期を足早に駆け抜けた若き学徒のドラマとして、尾花川(日本婦道記-山本周五郎)のような小説にはならないものでしょうか?

2015/08/04 Tue 14:39 [No.83]

道と路の道中咄

杉さんぼく

弥生から古墳文化の発達と共に畿内を軸とした各地を結ぶ幹線を山道、海道という交通概念を生みました。

江戸時代になって、いわゆる、東海道や中山道等の五街道が整備され、その一つに奥州道中(白河までで、以北は仙台道、松前道に通ずる)があります。

奥州道中の道の奥(みちのく)、奥(道奥)としての「奥大道」の確定は古く、官道東山道、東海道が律令政府下で設定された事を嚆矢とします。

この官道を通じ、移住、文化交流が展開し、言語社会のコミュニケーションが図られ道の奥、奥州陸奥(みちのく)文化が築かれて行きました。

では古代統一国家が誕生する以前はどうだったのでしょう。

道が出来るのは、未知なる所に通ずる事からであり、地域形成の「ムラ社会」群落地域間の争いが繰り返されていた頃は、物資や人の交流はあるもにもせよ、その間を結ぶ未知なる道の整備が行き届く交通路(道)の概念はまだありませんでした。

やがて、古代黎明の中央政府が飛鳥時代から平安時代前期にかけて、大宰府へと通ずる山陽道を始めとした、計画的に整備・建設した道路または道路網を造ります。これを古代道(古代ハイウェイ)と言いました。

6〜12mの地方道、都の近辺は24〜42mの幅員がありました。
その路は、遣随使、遣唐使交流から得た、当時の隋・唐の道路制度に影響がなくもない直線であるのが特徴でした。

直線道路、つまり大路(横大路の名が今にとどむ)は、大和盆地にまず7世紀初頭から設造が始まり、やがて全国的な整備が進んで行ったようで、各地では今も発掘調査が行われていますが、遅々として歩まずとかです。しかし、8世紀末〜9世紀の平安時代初頭の行政改革により次第に衰退し、11世紀には廃絶したようで、今も昔も道路問題はあるんですね。

かくして古代から、やがて大化の改新を経て以降、日本全土統一の基準に律令制が制定されます。
この頃から、各地の統治や租税の徴収を円滑に行うために各地を結ぶ交通路が整備されて行ったのでしょう。
駅逓・伝馬などの駅制の発達による、宿場整備がなされて、奈良時代になると、多くの街道も整備されて行きました。

ちなみに、街道とは江戸時代の謂いです。

2015/07/31 Fri 20:07 [No.80]

石高でいくら

杉さんぼく

石高の単純な計算を記せば、現在、仮にコシヒカリなりを5kg2880円としたら、1kg576円です。
1升は1.4kgですから、これに576円を掛けると806円40銭になります。
806円をわかりやすく800円として、100升は10斗で1石、1両、銀60匁ですから、100升掛ける800円となり80000円(8万円)になる訳です。

銀60匁=銭4000文が8万円で、一文は20円、当時の28そばが320円で食べられたんですね。

そして、俗に二束三文と言われるのは、わらじが二束で60円だったと云うことでした。

小判壱両は二分銀2枚、一分銀は4枚 二朱銀は8枚 一朱銀が16枚で金壱両となります
そして江戸は金使い 上方は銀使いでした。
この通貨は 金壱両に銀60匁が相場です
一円が10枚で10円玉になるようなものです
歴史勉強する基本に 新旧暦や貨幣制度も知る必要はありますね

ちなみに、千両箱は8000万円、重い筈のなにものでもありません。

1石=銀60匁=16朱=4分(歩)=1両
1石=10斗=100升=1升=10合
1升800円(100升8万円)

余談ですが、長州藩が武器弾薬を購入する6万両を山口から下関へ現送するのに、一頭の馬に千両箱五つをつけた12頭に予備馬を加え14頭行列で運んだと言います。

2015/07/31 Fri 17:59 [No.79]

紀元二千六百年の歌と平安神宮

杉さんぼく

京都の観光地のひとつに、平安京を思わせる平安神宮があります。

しかし、平安神宮の大極殿等6棟が重要文化財指定されたのは、まだ新しく平成22年(2010)12月の事です。

それはその創建が古来からの神宮ではないからであり、明治28年(1896)3月15日、平安遷都1100年を記念した、内国勧業博覧会のメインとして内裏を復元されて建てられたからです。

平安遷都の桓武天皇を祭神とし、金鵄輝く日本の栄えある光身に受けて〜(紀元2600年)と歌われた皇紀年2600年に当たる昭和15年(1940)に、平安京の都で最後の天皇だった孝明天皇を祭神に加えた神社です。

そして、平安遷都1100年の時代を現す行列祭りとして、遷都の10月22日に時代祭りとして行われ始めました。

余談ながら、戦時歌謡史を調べてると、この紀奉祝国民歌「紀元2600年」がなかなかいいメロディーです。

金鵄(きんし)輝く日本の
栄えある光 身に受けて
今こそ祝え この朝(あした)
紀元2600年
あゝ 一億の胸はなる〜(紀元二千六百年)

ご年配の方ならご存じでしょうね。
ところが、庶民はこれを替え歌にして歌っていたよう、こちらの方が有名だとか。
「金鵄」上がって15銭
栄えある「光」30銭
今こそ来たぜ この値上げ
紀元は2600年あゝ 一億の民は泣く
「金鵄」上がって15銭
栄えある「光」30銭
それより高い「鵬翼」は
苦くて辛くては50銭
あゝ 一億の金がいる〜
金鵄10本とは最も安いタバコのゴールデンバットの衣替え、光10本、鵬翼20本とはタバコ銘柄です。
なんでも、平均61%も値上がりしたそうです。

この替え歌を歌っていたが為に、私服警察が小学校に来て、歌の上手い小学6年生に尋問したという話が伝わります。

戦後七十年、国民の平和を守ると題目を唱え、憲法違反だされるのにも関わらず、都合合わせで憲法を守ると云う今の長州政府答弁に、金鵄は輝かないでしょう。

2015/07/31 Fri 06:44 [No.78]

Re^2: 幕臣高橋泥舟伊勢守

杉さんぼく

大阪天王寺は一心寺の見上げる程の戊辰東軍碑は、確かに高橋泥舟の筆でしたね、確かに。

幕末三舟の中でも、一番高値の泥舟です。
ちなみに、次が鐵舟で、数の多い海舟が一番安い訳です。

さすがに代表、よく気付いてくれました。
杉浦正一郎梅譚は正しくは杉浦梅潭(サンズイ編)でした。

今のところ、国文学資料館へ寄贈されたこの梅潭資料に気付いて、資料館学芸員以外、小生が知る限りで紹介するのは松浦玲先生と菊池明氏くらいでしょうか。

そう言えば、京都でしきりに、この付近碑建立に熱心な地理学者氏が最近、この梅潭資料から池田屋事件絡みの新発見があった、としてものの本に書いてましたっけ。(伊藤宗祐先生は認めてくれない、布引敏雄先生からは批判された、と書いてボヤいてもいますが)

二冊になった梅潭全集は、確かに歴史的な知られざる価値がありますね。

高木俊輔先生にこの件を期待しているのですが。

2015/07/28 Tue 23:25 [No.76]

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