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杉さんぼく
騙る会にはなりたくないですね。
2015/07/18 Sat 08:58 [No.25]
杉さんぼく
山鉾巡行は四条通りまでが優雅な祗園囃子の流れと共に進む、八坂祗園社への奉納神事で、河原町の辻回しからは、戻り囃子音色に乗って鉾町に戻ります。
2015/07/18 Sat 08:56 [No.24]
杉さんぼく
はい、明治6年1月1日(12/3)は水曜日で間違いありませんよ。曜日記載の万年新旧暦は会長代表も持っておられます。
新旧暦は、明治以前歴史の基本中の基本ですからね。
君が代斉唱に目くじらたてる、文科省もなぜか教えようとしません。
2015/07/18 Sat 08:50 [No.23]
杉さんぼく
ちなみに、龍馬惨殺に、十津川の者としてその名刺が利用されました。
そこには、慶応年間、獄にいた適塾々生十津川郷士深瀬仲麿の名がありました。(適塾会誌にご子孫寄稿談)
十津川郷士の名が出るなら、中岡慎太郎を狙っていたのか、或いはカモフラージュだったか…。
2015/07/18 Sat 08:41 [No.22]
杉さんぼく
十津川郷士について述べましょう。
まず郷とはムラ、士とはサムライのことで、十津川村天誅殺人事件という、西村京太郎氏の小説に沿革説明がありますから、これが判りやすいでしょう。
十津川と言えば、天誅組挙兵が思い浮かべます。
詳細は略しますが、天誅組となぜ十津川なのかと言えば、十津川の勤王にゆかりある土地柄だと言うことがあげられます。
それは神武東征の先駆けを勤めた八咫烏伝説に、十津川郷が関与した伝を誇りにしていたからです。
以後、天皇の吉野や熊野等の御用立を勤め、壬申の乱、南北朝大塔宮親王の潜居、楠木正勝(大楠公の孫)の奮戦に労力をなして来ました。(大正時代に、正勝の賊名は除かれ正四位を追贈)
古来からのこうした縁で、幕末期の十津川郷士は禁裏御守衛願い出て、禁裏近くの屋敷とは別に、勤王浪士が出入り出来た京都円福寺に十津川屋敷を構えて勤王活動を始め、やがて、皇軍御先鋒とした中山忠光以下の天誅組に参加するわけです。
十津川郷に当てた天忠組檄文(事情大略)は云う。「十津川郷の為には急度御盡力被為在候思召に付、郷中有志の人々も兼ての忠義猶更憤發方、今天朝の御為死力を以て被盡度深く御頼被思召候…」
十津川郷士の農兵としての発端はと言えば、嘉永年間、あの松陰もわざわざ訪ねた大和の儒者森田節齊、その門下乾十郎が十津川に来て、節齊がに記すように「当時、僕等十津川農兵調練凡二千人、意在護鳳輦、憂国之志如…」として、調練した事があるのは多分に間違いありません。
それ以前には、天保14年に藤本鐵石も来ていますし、安政5年には松本奎堂も入郷しています。
その後、陸援隊・土佐濱田辰弥(田中光顕)なども、十津川郷士を頼って逃れ、鳥羽伏見前後の鷲尾侍従内勅の高野山義挙隊長として、十津川郷士650余名の働きを見ています。
従って、勤王運動にはやはりゆかりある土地柄と言えなくはありません。
「十津川ハ、山岳重畳の間二散布スル僻邑ニシテ、戸数一千有余、闔郷ノ人ハ、皆南朝ノ遺臣ニシテ、古来郷士ト称ス…」(明治維新発祥記-建標会編大正8年)
前述の田中光顕日記や中岡慎太郎日記には、しきりと十津川郷士の名前が出て来るのが見受けられます。
2015/07/18 Sat 08:39 [No.21]
杉さんぼく
国持ちの土佐藩は、明治3年全国に同じて論告を出しました。人間平等論、いわゆる平均四民論です。
各藩独自性もあったようで、土佐藩は
「階級によらず人間人々自由なる貴重の産物を知らしめる、古来からの武士(もののふ)の士は言葉の間違いだった」
と、他藩以上に過度な論告を行いました。
やはり、山内氏、長宗我部氏(チョースガメ)間における反目思想により、土佐風土を疎かにし、領民敵視政策が形成される様になり、農民が下士を敵視した場面は多分にありました。
わずか5万石の山内氏が、24万石にまでなって、土佐を収める話は数年前のNHk大河ドラマで明らかになりましたが、この山内氏により郷士制度を新設する事で差別構造を造り上げてしまいました。
これに伴う中で、斬り捨てごめん権すら与えられた訳です。
当時の上士盛組の歌に
「士の命は君にあり、いつも試せよ我が刀、にえと匂いの銘文と…」
とあり、豪気さがありました。
その象徴的な事件が、井口村門前事件に遡る60年ほど前の、寛政年間(1790年代)に起こる高村退吾事件です。
酒席の場に上士井上某が、郷士高村退吾を呼び、刀剣の目利きをさせたが酷評されたので、武士のあり方の間違った行き過ぎで斬殺してしまい、井上某は御咎めなしの処分に終わった事件でした。
これに郷士は激怒、国中の騒ぎになり、翌年藩はやむなく井上某を追放処分にする事で収束、これらの因縁が、郷士任命の天保庄屋同盟(天子を持ち上げた万民思想)から土佐勤王党に結びつきます。
やがて、こうした素因が土佐自由民権運動にまで発展したのではないか、と思われてなりません。
2015/07/15 Wed 22:27 [No.13]
杉さんぼく
旧暦は明治5年11月9日に司法省令第22号により、12月3日を明治6年(1873)1月1日としました。
従って、明治5年は12月2日まででした。
だから、明治6年1月1日(12/3)以降は現代暦で解釈します。
余談ながら例えば、池田屋騒動は元治元年6月5日(新暦1864/7/8-金)に起こっていますが、新撰組ファンならご存知の、通説にいう祇園祭の宵宮ではありません。
正しくは宵々山であり、6/5は曳き初めとかで宵宮は6/7でした。
それに山鉾巡行は、昭和41年まで前祭(7/17)と後祭(7/24)に分けての巡行があり、現在の7/17〜18になり、だからこそ俗に後の祭り、と言うようになったとかで、近年、再び二回巡行になりました。
ついでながら、桜田門外の変も正しくは安政7年です。
何故ならその15日後の、3/18(1860/4/8日)に万延元年と改元されたからです。
最近では、正しい安政7年年号で紹介されつつあります。
、
では龍馬暗殺は…?。
即死なら、慶応3年11月15日(1867年12月10日・火曜日)初夜(20:00頃)でした。
或いは16日(11日・水曜日)かも知れませんが、とにかくも11月15日(12/10火)として、方や通説に云う龍馬生誕についてはどうでしょうか。
正しい記述は、天保6年11月15日(1836年1月3日)です。
天保6年(1835年)11月15日とか、1835年(天保6年)11月15日とあるなら、それは間違いで、作家であれ、歴史家・研究者であれ正確ではなく信頼は出来ません。
また、坂本龍馬(1835〜1867)とある表記も然りです。
1835は、1836〜1867とするのが正しい記述です。
因みに天保6年は閏7月があり、1年は13ヶ月の384日ありました。
こうした基本的な歴史年号を教える歴史の教師は、教育現場には多分皆無でしょう。
なぜなら、何年に何々があった、起こった等で年号を覚えるのが歴史と思わされているのですから。
そして、今度はそれを教える側になるのですから。
歴史は現代であり、現代は歴史なら、正しい月の満ち欠けに拠る旧暦が記載された、新旧年表をもってして教えて貰いたいものです。
2015/07/15 Wed 22:14 [No.12]
杉さんぼく
滋賀県知事として名を残した人物に籠手田安定(コテダヤスサダ)がいる。
天保11年3月21日(1840'4'23)-明治32年3月30日(1899)
平戸藩藩士の剣術家で、旧名は桑田源之丞と称した。
維新後の経歴は、滋賀県知事、元老院議官、島根県知事、新潟県知事、貴族院議員を歴任、心形刀流剣術に一刀正伝無刀流剣術の免許皆伝者で、剣術愛好家として知られ、浅見崎門派でもあった。
維新前には、藩探索方に任じられて京都入りし、情報収集を行う傍ら、直心影流戸田一心斎栄之助(黒谷に墓あり)の道場に通い、師範代高山峰三郎と面識を持つ。
やがて第2代滋賀県令就任した籠手田と、大津で再会した高山峰三郎は滋賀県警察官に採用されている。
1883年(明治16年)11月、東京の地方官会議出席に際し、その高山峰三郎らを始め、腕自慢数名を引き連れて、警視庁に試合を挑んだ。
この時、高山は警視庁の撃剣世話掛選りすぐり36名を連破して、明治剣道史上、この出来事は一大事件として語り草となった。
新潟県令知事に転じた籠手田は、京都から剣術家の小関教政父子を新潟へ招き庇護し、教政に心形刀流と無刀流の免許皆伝を与え、教政を引き連れ旧新発田藩剣術師範今井常固の道場を破ったりもしている。
強い者を配下に従え、こうしてたびたび道場破りを行う性癖は、剣術マニアの籠手田の病気のようなものであったのかも知れない。
明治32年(1899)、死去。
さて、そんな籠手田安定の剣術余談。
明治15年(1882)7月16日、京都体育場で撃剣大会が開かれた時の事。
その前年、1月に無刀流山岡鉄舟に入門し、高弟となっていた籠手田安定はこの大会に参加する。
その相手が、なぜか元京都見廻組(二条城番役からの転属)の素性を隠して参加していた渡邊篤である。
言わずもがな、明治44年に坂本龍馬暗殺を自白した履暦(歴)書を、遺言として書き残した人物で、渡邊はこの履(歴)書に遡る明治13年、既に履暦(歴)原本を記していた。
元見廻組の矜持だったのか、その2年後の剣術大会出場だったのである。
仮に、龍馬慎太郎惨殺に関与したなら、10数年後の剣技はまだまだ衰えてはいなかったかも知れない。
終章、剣で身を立てて終えた渡邊篤と立ち会った籠手田安定の剣も剣術家だっただけに、またかなりな腕だっただけにの面白いエピソードといわざるを得ない。
2015/07/15 Wed 19:23 [No.11]