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京都歴史研究会・代表
<京都歴史研究会7月講演会>をご案内致します。
◆演目:インパール作戦の真実
◆日時:平成28年7月24日(日)
13時〜16時30分
◆会場:河原町五条下ル
ひとまち交流館 京都 3階第5会議室
◆入場無料、予約無し
先着60名までは資料配布あり
◆ゲスト:谷 祥二(欠席の場合あり)
※予備講演:杉さんぼく
◆司会進行:岸野亮哉(僧侶写真家)
第二次大戦で最も悲惨な戦場といわれたインパール作戦。
京都府・陸軍第15師団として
作戦に参加し、補給なき過酷な戦いから、わずかに生き残った兵士がいました。
その生き証人の一人、当時23歳の谷祥二さん(96歳)が、戦後76年目の今、京都の地から悲惨な戦争の真実を語ります。
貴重な歴史証言を未来に伝えるために…。
是非、皆さまの心にご記録下さい。
※谷さんの体調を考慮の上、出演中止の場合、杉さんぼくの講演に変更します。
◆主催:京都歴史研究会
2016/07/19 Tue 07:05 [No.271]
京都歴史研究会・代表
<5月歴史講演会のご案内>
◆平成28年5月15日(日)14:00〜
◆場所:京都市中京区西洞院三条下ル柳水町75
◆会場:京の黒染屋/馬場染工業(株)TEL075-221-4759
◆演目:名水が語る京都の歴史
〜お茶と貴人の名水を中心に〜
◆講師:水文化研究家,カッパ研究会世話人
鈴木 康久(みちひさ)氏
◆柳の水説明:京都歴史研究会 代表 吉平 裕美
※馬場染工業の建つ西洞院三条下ルの地は、崇徳上皇、千利休、織田信雄、加藤清正…数多くの名だたる人物が関わった場所で、今も名水「柳の水」が湧き出ています。
講演会後は、その歴史人物らに思いを馳せながら、彼らも飲んだ同じ「柳の水」を、たっぷり味わって帰って頂きたいと思っています。
宜しければ、お立ち寄り下さい。
主催:京都歴史研究会
http://mb1.net4u.org/bbs/1109/article/id1
連絡(5月のみ使用)
:09038488284
※次回講演会の予告
平成28年7月24日(日)13時〜
ひとまち交流館 3階第5会議室
―インパール作戦の敗走と、
鳥羽伏見の戦いの同一性―
講演:谷 祥二(作戦生存兵士96歳)
予備講演:杉さんぼく
2016/04/23 Sat 16:12 [No.260]
杉さんぼく
吉井良隆宮司から、第54代良昭宮司の代になってる西宮神社吉井家の話をします。
その傍系の吉井宮司と言えばやはり貞俊権宮司が、伊勢本街道で馴染みが深いんですが、なぜか、「良」がつくのにこの権宮司さんは貞俊と言うお名前で、残念ながら故人になられてしまいました。
それにしても、吉井一族は皆さん健筆家です。
西宮史話の良隆宮司以前なら、14歳から国書神典を父良幹に受けた影響からか、その才覚を生かして、幾多の著述を残した吉井良秀に尽きます。
「老父の御神幸に関する記事は後人にとっては誠に有益」と、息、良尚宮司が記すように、その遺稿「樟園余影」(昭和15年和装本-良尚宮司編)がなかなか良い。
部屋で籠もって本探しをしていたら、偶然、手元に現れたこの良秀宮司、年譜に「37歳(明治22年)、信州の国学者飯田武郷の門について、皇典・歌文を研究し始めた」とあります。
云わずと知れた、飯田武郷は信州下諏訪で斬首された赤報隊相楽総三の首を奪って埋めた、とされる平田国学の雄です。
華夷弁論を著していた相楽総三と飯田武郷は、国学を通じての江戸での知り合いでした。
平田篤胤の死後門人のそんな武郷が、ほどなく幕末維新の政治運動が昂揚しつつあった慶応2年、京都に上がります。
しかし、何と、後に相楽総三梟首を画策した黒幕との噂があった、岩倉具視の所に落ち着くんです。
やがて、信州に帰郷した時に、下諏訪での相楽総三の偽官軍事件処刑に出会い、その首を神道に則って埋めてやりました。
皮肉な話しながらです。
西宮に来た飯田武郷を迎えた吉井良秀宮司と、何を語ったんでしょう。
皮肉と言えば、赤報隊と西宮…。
う〜ん、重い事件でしたね。
意外な繋がりがあるんですね。
だから、歴史は面白い。
お薦めです。
2016/04/09 Sat 09:01 [No.259]
杉さんぼく
マイナーな話しながら、京都歴史研究会の3月20日はおかげさまで盛況、会場定員30人部屋が予定オーバーした36人例会となりましたね。
32部の資料が行き渡らずで、それでも参加者の皆さん、知らなかった、勉強になった、と喜んで下さり、数名の会員入会もあったよし、重畳です。
何よりも、嬉しかったの田中河内介の分家で、田中河内介父子のような陶芸家壽寶・綏寶親子さんがいらっしゃった事です。
例会後、お彼岸ということもあり、会場向かいにある田中河内介菩提寺の金光寺さんに、10数名でお墓参りしました。
以下余談。
有馬正義が信頼した同志に、寺田屋到着に遅れた小河一敏がいます。
後に、小河は田中河内介惨殺を耳にし、明治8年、河内介父子事蹟を上申、招魂社合祀願いとして、「田中綏猷父子事蹟略記」を大久保内務卿に提出する事で世に出しました。
そこで明治天皇が田中河内介について問われた件。
その小河一敏発言以外に、別の話では黒田清隆が大久保に問い正した、とあります。
西郷が書簡で、河内介惨殺により「薩摩は勤王は語れない、三文芝居だ」と述べたのも無理はなく、だからかこうした事の起因に諸々、黒田清隆がなぜに酒乱になったとかとかや。
司馬遼さんが短編に書かなかった材料ながら、以下短編がお薦めです。(絶版なら図書館でどうぞ)
遺恨の譜(初出1974年)
滝口康彦
講談社文庫1984「遺恨の譜」
他、作品集等。
〜いわねばならぬ、いつかは真実を語り残しておかねばならぬ…との独白から始まり、旧薩摩藩士帖佐糺これを記す、で結ばれた田中河内介異聞です。
河内介の切腹
南條範夫
桃源社1981「華麗なる割腹」(新書版)
〜田中綏猷の生涯には二説あるとして、惨殺説と切腹説を紹介、異説に田中綏猷が仙石騒動で有名な仙石左京の次男である出自を述べ、経済学者でありながら、著者独特の史観を陳述開示しています。
2016/03/25 Fri 00:01 [No.253]
杉さんぼく
昭和2年の回天志士墨寶(森田金藏)にある薩摩中島治部なる人物が判らないので、気になってます。
中島治部通行券
辰九月三日
京都發足越後新發田城迄通行
兵部卿宮附屬
薩摩藩
中島治部家来壹人
なかなか珍しく面白い資料です。
2016/03/09 Wed 12:21 [No.250]
杉さんぼく
数日前の朝日新聞「教えて」欄で、「建立」(こんりゅう)の読みについて、鈴木明雄企画委員が答えていました。
身近に、他の読みでは「立=りゅう」の読みは見当たらない、と。
しかし、坂本龍馬を立馬と読む例のあるのが龍馬関係者なら、知られています。
新選組隊士で、後に高台寺党として分離した服部武雄こと三郎兵衛良章36歳が、慶応3年11月19日(1867)新選組との争闘、油小路にて闘死した時に、以下の詩歌が懐にあったと言うんですね。
坂本立馬主横死の由を聞きて
「たずぬべき 人もあらしの 激しくて 散る花のみにぞ 驚るかれぬる」(『近世殉国一人一首伝』)
ご存知のように、当時は音訓さえ通れば当て字もすくなくともなかったようです。
件(くだん)の坂本龍馬をも、桂小五郎や岩崎弥太郎などは、龍馬を「良馬」と書いた当て字をしていますから、あながち、「立馬=りゅうま」の読み当て字もないとはいえませんね。
ちなみに、昔は「りゅうま」での呼称でしたが、今は「りょうま」のようです。(2016/2/1記)
2016/02/02 Tue 14:47 [No.243]
杉さんぼく
龍馬の本家になる才谷屋文書(六代直益順水日記)の記述に、日下茂兵衛と言う土佐のネズミ小僧なる、享保の頃の怪盗の事が記されています。
本当にいたのだろうか、と伝説説、実在説の論議がある中、才谷屋文書に実在説の記載があったのです。
享保六年九月四日夜、蓮池町牢舎の罪人日下茂兵衛といふもの、相牢の者の銀を盗み取り、牢をぬけ欠け落ち仕る…。
貧農に生まれた茂兵衛、奉公した庄屋の娘との恋仲を阻止され、死に場所求めて、とある洞窟に入りました。
そこで、天狗か仙人にかに救われ修行、忍術の奥義を極めた、というわけです。
この忍術で、豪商や殿様の屋敷に忍び込み、盗んだお金はネズミ小僧のように貧しい人々に施したとされ、伝説ヒーローになりました。
なお、数十年前に丹中山(たんちやま)で、順水日記を残した直益さんのお墓発掘に出会えました。
その折り、拵えも立派な銀のキセルが、炭をひいた土の中から出て来ました。
このキセルを使いながら、土佐のネズミ小僧の事を順水日記に書いたのだと思うと、なかなかに感慨深くもあります。
参考
伝説の里を訪ねて(高知新聞学芸部編1994)
2016/01/20 Wed 06:43 [No.239]
杉さんぼく
2002年10月(高知は7月)に放送されて以来、行方知れずの龍馬兵法目録。
広域指定暴力団会長(故人)を尊敬しているという○氏が、桂浜龍馬会なる架空団体名で桂浜の闘犬センター(現在はない)に展示していたのを、龍馬生誕150年の折りでしたかに確かに見ました。
結局、そのいきさつがTVに出た以上世に出せず、金策に困って内々に売却したのかも知れません。
その〇氏とは広瀬勝氏の事で、既に故人になっていました。
だから、渡り渡ってか、現出したのではないでしょうか。
2016/01/07 Thu 00:45 [No.234]