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歴史語り・竹島

杉さんぼく

弱腰の日本を見くびって韓国が実効支配する竹島、竹が生えるから竹島でもありませんが、語源的には、タキ・タケなどは、急峻な地形を意味するそうで、ようは竹というのは当て字なんだとか。

どうやら昔、日本では鬱陵島を竹島と呼び、現在の竹島は松島と呼んでいたらしく、なぜ松島のままではなかったのかはわかりません。

この、竹島/独島問題の一因は、こんにち韓国領として確定している鬱陵島との取り違えからもたらされたようです。

確かに江戸時代、日本人は竹島/独島を「松島」、鬱陵島を「竹島」と呼んでいました。

松陰が訪ねる文献資料の旅に、長久保赤水がいました。
その著す「日本輿地路程全図」(1775年)には、はっきり松島・竹島の名称が付され、大西教保の『隠岐古記集』(1823)には、「『松島』は小さな生木なき岩島、『竹島』は竹木繁茂した大島」(川上健三著『竹島の歴史地理学的研究』古今書院1996)とあり、竹島/独島と鬱陵島に対して、鬱陵島=竹島とする呼称が江戸時代には行われていたようなのです。

「竹島」の島名が逆転し、現在の島に与えられるようになったのは、ヨーロッパ人が鬱陵島を「発見」し、また長崎出島オランダ館の医師シーボルトによる誤った島名の混乱に端を発すると言います。

1787年、フランスの航海者で、こんにち宗谷海峡の国際名称に名を残すラ・ペルーズは、航海の途中で鬱陵島を見つけ、これを「ダジュレー島」と命名、ついで、1789年イギリス探検家ジェームス・コルネットがこの鬱陵島を見つけ、「アルゴノート島」と命名しました。

実は、この2島は同じ島でありながら、報告された際の位置が異るため、欧米の地図上には、日本海にダジュレー島とアルゴノート島の2島が存在する表記になってしまいました。

2015/10/22 Thu 17:49 [No.173]

気になる人々 田中河内介父子

杉さんぼく

田中河内介父子に対し、科人‐とがにんと云う烙印を押された―、との認識で言われる方がいます。

しかしながら、これは正しくなく、ましてや科人(咎人)ではないのではありません。

柿本人麻呂のいろは歌ではありませんが、やはりは罪科=とがなくて死すと思われます。

同じ例に、長州人による中山忠光卿惨殺事件があります。

中山忠光卿は、田中河内介の影響を強く受けて、闘う尊攘公家として暗殺されたとは言え、遠い長州の地で死しましたからね。
確かに、薩摩の罪刑はきつい法制がありました。

しかし、身ぐるみ剥いで、足枷手枷をして重しをつけ、海に沈めて投棄するのは、裁きも何もあったものではありません。
子孫にまで、追求するのも咎人以上です。

地元で祀られ建てられた小豆島の墳墓撤去にまで、薩摩人は干渉、疵跡抹消を求めて、明治12年の森遷郡長はこれを拒否した、と伝わります。(これについては、河内介が長州から資金を受けていたから、これをして薩摩人は背信行為だ、としたとも言われている)

偽装家紋まで墓に彫らねばならなかったのは、辛い限りです。
明治24年の贈位まで、これまた辛い限りです。

遺族への薩摩のしつこさ、陰謀の有り様、幽霊話しにまで仕立てるのは、やはり維新史上の汚点でしょうね。

これは赤報隊にまで続きます。

2015/10/21 Wed 13:04 [No.172]

平成墳墓録 田中河内介余話

杉さんぼく

田中河内介父子に対し、科人‐とがにんと云う烙印を押された―、との認識で言われる方がいます。

しかしながら、これは正しくなく、ましてや科人(咎人)ではないのではありません。

柿本人麻呂のいろは歌ではありませんが、やはりは罪科=とがなくて死すと思われます。

同じ例に、長州人による中山忠光卿惨殺事件があります。

中山忠光卿は、田中河内介の影響を強く受けて、闘う尊攘公家として暗殺されたとは言え、遠い長州の地で死しましたからね。
確かに、薩摩の罪刑はきつい法制がありました。

しかし、身ぐるみ剥いで、足枷手枷をして重しをつけ、海に沈めて投棄するのは、裁きも何もあったものではありません。
子孫にまで、追求するのも咎人以上です。

地元で祀られ建てられた小豆島の墳墓撤去にまで、薩摩人は干渉、疵跡抹消を求めて、明治12年の森遷郡長はこれを拒否した、と伝わります。(これについては、河内介が長州から資金を受けていたから、これをして薩摩人は背信行為だ、としたとも言われている)

偽装家紋まで墓に彫らねばならなかったのは、辛い限りです。
明治24年の贈位まで、これまた辛い限りです。

遺族への薩摩のしつこさ、陰謀の有り様、幽霊話しにまで仕立てるのは、やはり維新史上の汚点でしょうね。

これは赤報隊にまで続きます。
こうした薩摩の非情さは河内介父子に止まらず、もう一艘に乗せた筑前秋月の海賀宮門、河内介の甥千葉郁太郎、河内介の義兄弟を結ぶ中村主計をも、上陸後に出発前から密命を帯びた薩摩の数人によって浜辺を血に染めています。
惨殺資料には、八〜九箇所の刺殺傷が記録にあります。
(物語秋月史 幕末維新編-三浦末雄/昭和56年福岡秋月町)

自藩士ではなく、他国人をもこうして惨殺した薩摩人の方こそ、咎人かも知れません。

その海賀宮門等三人の惨殺には、西郷従道や大山巌などの名前が挙がります。

藩命に従うか従わないかを、藩密命に従った薩摩人たちが、他国人志士たちを惨殺したのは、どう考えても維新史上は汚点のなにものでもなく、禁門の変で御所守護をした会津が靖国神社に祀られてなく、その御所禁裏を襲い、禁を犯した久坂玄瑞たち長州人が祀られるのおかしい、と会津が異論を説な得る(となうる)のもまたしかりです。

これも間違いでないのかも分かりません。

2015/10/21 Wed 05:40 [No.171]

新撰組余談-続・源さんの首

杉さんぼく

鳥羽伏見戦で、江戸に帰って「源三郎おじさんは伏見戦で討死なされた…」と、井上家に書簡をあてて伝えていますから、しっかりしたものです。(戦前まで現存していたが、現在紛失で行方不明)

「とかく論議される新選組の功罪や、源三郎の人物批評はともかく、我が家の歴史と伝承は新選組史料とともに永く譲り続けてゆきたいものである」(子孫が語る新選組)(1979)と、孫に当たる故井上信衛(ノブエイ)氏も、武田遺臣であり、1700年に八王子千人同人筆頭とあるのを誇りに語り遺されていますね。

井上源三郎一重(日野八坂神社奉納額)、一武(墓石)。
年齢は30歳(生卒、天保10亥年3月1日、明治元辰年正月4日死、享年30).40歳(新選組始末記)とも…。

結局は首の行方は不明としか言いようがありません。

もって、瞑すべし。

なお、源三郎終焉については、井上資料館長も同行した市川三千代さん(2008)の、淀調査報告があるとの事で擱筆とします。

2015/10/19 Mon 19:26 [No.170]

平成墳墓録 田中河内介

杉さんぼく

以下、田中近江介=北村氏関連墓


田中近江介夫妻

(正面)
松岳院殿仙阿樹開大居士
松壽院妙弌貞閑大姉

(右側面)
万延元庚申年四月二日卒
従六位下近江介藤原朝臣綏長

(左側面)
北村栄三郎藤原朝臣綏之定

……………………………………
亀岡から京都に出て来た医師田中近江介の祖(本姓は北村姓)

(正面)
北村綏之

妻千登瀬

(右側面)
明治八年三月十卒
享年四十有二

(左側面)
〇の中に〓引き家紋 北村氏

……………………………………
(正面)
貞岳妙薫大姉

(右側面)
嘉永五子十二月二日

(左側面)
〇の中に〓引き家紋 田中氏

……………………………………
(正面)
壽光院薫譽妙香禅定尼
壽松院香弌貞薫大姉

先祖代々諸精霊 玉夢恵光童女

壽岳院殿香阿凉薫大姉
智玉恵薫童女

(右側面)
天保六年五月建立

(左側面)
〇の中に〓引き家紋 北村氏

2015/10/19 Mon 08:18 [No.169]

平成墳墓録

杉さんぼく

田中河内介先妻-増榮(田中近江介の長女/出生は文政7年=1824)

(正面)
英朗院懿淑安貞大姉

(裏面)
嘉永三年庚戊七月五日卒
田中河内介藤原朝臣綏猷妻
俗名増榮
年廿有九

(左側面)
哀児 佐磨介猷建

……………………………………
田中河内介後妻-松の井=をり江墓(厳=いわ-戒名'松巌院勁操貞順大姉)

(正面)
貞順大孺人之墓

(裏面)
安政六年八月五日卒
田中河内介後配
山岸良午之女
年四十二

……………………………………
田中河内介次男の力太郎(田中玄靜)養父母になる、田中玄良(杉原英二郎=杉原時行)、妻美壽榮(田中近江介次女)夫妻の墓

(正面)
積善院専阿浄念居士

徳麟院信弌妙教大姉

(右側面)
明治十六未年八月二日
田中玄良妻 俗稱 美壽栄
明治元年戊辰年九月十日卒
行年四十有五
(左側面)
(○の中に縦算木[V]がある偽装家紋)

哀子
田中玄靜源實弌建立

……………………………………

2015/10/19 Mon 08:13 [No.168]

新撰組余談-源さんの首

杉さんぼく

井上泰助が井上源三郎の首を埋めた余話。

日野に現在、誠の文字とともに、○に井の字をいただく土蔵の井上記念館(五代目井上雅雄館長)があります。
その井上家に口伝として伝わる話です。

30年位前はまだ日野には、御一新の時は…と云うより、瓦解の時は…と云う古老が少なくなかったと、日野の郷土史家・谷春雄先生が語られ、また以下のように指摘されてました。

「しり上がりの三多摩弁と作家は云うが、多摩地方はしり上がりではない、それに、しきりに武州三多摩と言っているが、徳川時代は多摩郡であり、西、南、北の三郡に別れたのは明治初年で、近藤、土方、井上、沖田の時代は三多摩はなかった」と。

そんな谷春雄先生が記す、風貌が源三郎に似た泰助、その泰助長男・覚太郎の妻ケイさんの、泰助が語り遺した記憶語り。

「源三郎おじさんは、普段無口でおとなしいが、思い込んだらてこでも動かない。…鳥羽伏見戦での命令、引けにも関わらず、戦い続けて遂に弾丸に当たって倒れ、手当て間もなく息を引き取った。…おじさんの首と刀を持って、大坂に引き揚げるため歩き出したが、首がこれほど重いとは思ってもみなかった。…一緒に引き揚げる隊士から『首を持っては一行に遅れ、敵に捕まる、残忍だろうが捨てろ』と言われ、とある寺の門前の田んぼを掘って埋め、舟で大坂に引き揚げた。誰か京都の方に行った時にはお参りして来い…」(1972年-82歳)

この寺が日野にあるのと、偶然な欣浄寺だったかどうかは定かではありません。

井上泰助、井上家伝に「泰助爺さんは近藤勇の刀持ちだった」ともあるように、近藤、土方が泰助父、松五郎に頼まれて個人的に小姓として雇った少年隊士でした。
記録に子供とありますが、今の12.3歳の比ではありません。

2015/10/19 Mon 07:58 [No.167]

気になる人々 続-大塩平八郎〜浮き世の有り様

杉さんぼく

天明5年(1834)、大坂の医者らしい穿鑿好きの好事家が書いた「浮き世の有り様」全13巻(日本庶民生活史料集成J巻/1970/三一書房)の中で、大塩平八郎の乱に関しては、天保8年雑記6〜8巻に記載があり、かなりの記述が割かれています。

今でいえば、大した取材力の筆走りです。

第6巻には瓦版の写しがかなりの枚数を費やしていますから、瓦版はずいぶん出たのかも判りませんね。

大塩の乱、米価騰貴に始まり、堀伊賀守家来筆記まで、実にこまめに書いていますから驚きです。

有名な新選組の旗が「誠」一字で象徴的なのは知られていますけど、パラパラとめくるとこの本に所載されている大塩平八郎の目標旗には、桐の紋が描かれていました。

言うまでもなく、桐は今川家の紋で、大塩は今川の臣を先祖と思っていたのかも知れません。

あと「救民」、「東照大権現」「天照皇太神宮(中)・八幡大菩薩(左)・湯武両聖主(右)」の旗がありました。

詳細の興味ある方は図書館でご覧下さい。

2015/10/16 Fri 04:55 [No.165]

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