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京都歴史研究会・代表
博多の豪商:島井宗室が5月中旬から京都に滞在していたが、6月初旬博多に向けて京都を立つと、信長に知らされた。ところが、これこそ信長を京都におびき出すための「罠」だった。
援軍を要請する羽柴秀吉の早馬により「天下布武」達成の最後の決戦、西国制覇のため自らも軍勢を率いての出陣を決意したところ、明智光秀、筒井順慶の軍が上洛する前に一足早く京都に赴き、ぜひとも「楢柴肩衝」の話だけはつけておきたい信長だった。
当時、茶会を開いたり、茶道具収集は武士の権力を表すステータスであったし、無論、政治に茶道を利用した信長は(御茶湯御政道)
この島井宗室が持つ楢柴肩衝を手に入れたかった。
そのため千宗易から島井宗室に連絡をさせ、「六月朔日なれば、上様の御館(本能寺)に参上仕る」との確約を得たのであろう。
こうして信長は安土城から38点の「大名物茶器」を運んで「楢柴肩衝」の茶入欲しさに5月29日の大雨の中、無防備な形で、本能寺に入ってしまったのだ。(38点の「大名物茶器」に関して、「本能寺の変」より11年後の文禄二年(1593)、堺の茶人の宗魯によって筆録「仙茶集」の中に「島井宗室宛て長庵の道具目録」あり)
この初夏の茶会は、当時の慣習としては当然「朝茶会」であった。島井宗室、神谷宗湛たちが茶道具の名器を十分湛能してから、信長へ表敬訪問に来た近衛前久など公卿41名と商人がやってきた。(これは山科言経日記に、関白以下大臣、前職までの公卿名が記され、宮廷がそっくりそのまま本能寺に移動したかのような様子が判る。)
2016/04/23 Sat 16:47 [No.261]
杉さんぼく
吉井良隆宮司から、第54代良昭宮司の代になってる西宮神社吉井家の話をします。
その傍系の吉井宮司と言えばやはり貞俊権宮司が、伊勢本街道で馴染みが深いんですが、なぜか、「良」がつくのにこの権宮司さんは貞俊と言うお名前で、残念ながら故人になられてしまいました。
それにしても、吉井一族は皆さん健筆家です。
西宮史話の良隆宮司以前なら、14歳から国書神典を父良幹に受けた影響からか、その才覚を生かして、幾多の著述を残した吉井良秀に尽きます。
「老父の御神幸に関する記事は後人にとっては誠に有益」と、息、良尚宮司が記すように、その遺稿「樟園余影」(昭和15年和装本-良尚宮司編)がなかなか良い。
部屋で籠もって本探しをしていたら、偶然、手元に現れたこの良秀宮司、年譜に「37歳(明治22年)、信州の国学者飯田武郷の門について、皇典・歌文を研究し始めた」とあります。
云わずと知れた、飯田武郷は信州下諏訪で斬首された赤報隊相楽総三の首を奪って埋めた、とされる平田国学の雄です。
華夷弁論を著していた相楽総三と飯田武郷は、国学を通じての江戸での知り合いでした。
平田篤胤の死後門人のそんな武郷が、ほどなく幕末維新の政治運動が昂揚しつつあった慶応2年、京都に上がります。
しかし、何と、後に相楽総三梟首を画策した黒幕との噂があった、岩倉具視の所に落ち着くんです。
やがて、信州に帰郷した時に、下諏訪での相楽総三の偽官軍事件処刑に出会い、その首を神道に則って埋めてやりました。
皮肉な話しながらです。
西宮に来た飯田武郷を迎えた吉井良秀宮司と、何を語ったんでしょう。
皮肉と言えば、赤報隊と西宮…。
う〜ん、重い事件でしたね。
意外な繋がりがあるんですね。
だから、歴史は面白い。
お薦めです。
2016/04/09 Sat 09:01 [No.259]
京都歴史研究会・代表
@織田信雄
信長の次男、織田 信雄
(のぶかつ:1558〜1630)
母は生駒吉乃(生駒家宗の娘)。生駒屋敷にて生まれた。
大和宇陀松山藩の初代藩主。
初め、伊勢北畠家の養子に入り、第10代当主として具豊(ともとよ)、信意(のぶおき)を名乗り、御本所と敬称された。
(最終的に北畠家を掌握した)
天正10年6月2日(1582)本能寺の変で信長と長男:信忠は共に倒れた。この時、信雄は伊勢松島の居城にいた。
変報を受けると直ぐに軍を率いて伊賀を越え、近江甲賀郡土山に出た。
(記載:安養寺文書⇒備前国の山岳仏教系の古寺、宝物と多くの古文書が残る。記載:勢州軍記⇒伊勢戦国史,神戸良政が記した。)
しかし、伊賀の国衆が不穏な動きを見せたため、それより西に軍を進ませることができなかった。
蒲生郡日野には、信長の妾子が保護されていて、これを支援するの精一杯で、とても弔合戦など余裕がなかった。
(直前に催された、信長の三男:信孝を将帥とする四国攻めに、信雄の采配下の伊勢衆も多く動員されたからではないかとされる。)
明智光秀と戦うには、兵力が不足していた。
秀吉の時代、小田原征伐の論功行賞で、加増ではなく、父信長の祖の地:尾張と北伊勢五郡は没収され国替えとなった。
(この時、家康は関東へ転封)
信雄は国替えを拒絶した為に改易され、下野国烏山に流罪となる。
秀吉に嵌められたのだ。
文禄(元年:1592)の役を迎え、
流罪を許され名護屋へ招かれた。その後、信雄や信長の弟:有楽斎(うらくさい/長益)は秀吉のお伽衆となった。
信長から、猿・はげ鼠
と
呼ばれた秀吉に対して、妙なプライドを捨てたのか?媚び諂(へつら)う生活を選んだ。
秀吉の死後、大坂天満屋敷に住み、関ヶ原の戦いの時は傍観。嫡男:秀雄は秀吉からもらった越前大野郡の亀山城主だが、関ヶ原では当初は東軍ににつき西軍の加賀大聖寺城攻めに参加。
その後、信雄の命で西軍に転じた。身を寄せた。
信長の弟:有楽斎(長益)は嫡男:長孝とともに東軍に参加し軍功を遂げる。同じく信長の弟:信包(のぶかね)は西軍だが戦地は関ヶ原ではなく丹後田辺城。
しかし、息子:信重(伊勢林1万石)は東軍に就かせ保険をかけた。
本能寺で死んだ信忠の息子は、西軍で戦地は木曽川など。
よって織田は、東西のどちらが勝ってもいいように二股をかけた。九鬼、津軽、真田のごとく。
2016/04/02 Sat 12:00 [No.254]
藤原改新
信長が最後に上洛する8日前に嫡男の三位中将信忠も上洛している。信忠の上洛もこれが最後となった。
では、信忠の上洛にはどのような目的があったのか?
信忠は5月中旬、安土城での徳川家康と穴山梅雪の接待の場に同席した後、21日、家康、梅雪一行とともに京都に入った。二人は信長から京都、大坂、奈良、堺を遊覧するよう勧められており、信忠はその警固役も兼ねての同行だったと思われる。
信忠の上洛は天下人の後継者の登場として耳目を集めた。事実、信忠は7年前の天正3年(1575年)に信長から家督を譲られている。
在京中の信忠の動向については、公家の勧修寺晴豊の日記『晴豊記』でその一端が判明する。22日、上洛した信忠はまず禁裏御所に参内した。そして晒し35反、飛騨布15反、絹30反を献上している。翌23日、今度は朝廷(禁裏御所と誠仁親王の二条御所)から京都所司代の村井貞勝のもとに、貫(絹の横糸)1引、晒し1反、「越後つつき」、妙覚寺を宿所としていた信忠のもとには、小鷹、唐錦、勅作の貝香がそれぞれ届けられている。これらは前日の信忠の献上品に対する返礼として贈られたものだろう。26日には信忠は家康、梅雪を伴って清水寺に参詣し、能興行を見物している。その後3人は武家伝奏の甘露寺経元から饗応を受けている。翌27日には、朝廷から再び信忠に「十合十荷」(皮籠などの箱物10個と酒樽10荷)の贈り物があった。この様に、信忠と朝廷の交流には親密なものがあった。朝廷は信長の後継者に熱い眼差しを送ったことだろう。
京都見物を終えた家康、梅雪一行は29日、堺に向けて出立した。その案内人は信長の側近 長谷部秀一と信忠の側近と思われる「杉原殿」である。実は信忠も二人に同行して堺に下向する予定だった。しかし、直前になって信長が上洛してくるのを知り、急遽予定を変更して出迎えの為、在京することにしたのである。信忠が信長側近の森乱に宛てた書状(5月27日付)には、次の様に記されている。「(上様が)中国表に近々出馬されるとのことで、私は堺見物はいったん遠慮しました。一両日中に上洛されると聞いていますので、京都にてお待ち申し上げます」
結果として、この方針変更が信忠の命運を決したのである。
一方、信忠の下向を心待ちにしていたのは、堺の豪商達だった。信長の後継者をもてなして、織田権力との親密な関係を深めようと考えていたが、中止と聞いて落胆したのである。堺の会合衆の一人だった千宗易も女婿の少庵に宛てた書状(5月28日付)で、「殿様(信忠)が下向なされないことについて、我らをはじめ堺南北の者達は力を失い、茶湯の面目も失った。返す返すも残念である」と嘆いている。
この様に、朝廷や堺衆などの信忠への期待は大きかった。
2016/02/08 Mon 01:40 [No.245]
杉さんぼく
数日前の朝日新聞「教えて」欄で、「建立」(こんりゅう)の読みについて、鈴木明雄企画委員が答えていました。
身近に、他の読みでは「立=りゅう」の読みは見当たらない、と。
しかし、坂本龍馬を立馬と読む例のあるのが龍馬関係者なら、知られています。
新選組隊士で、後に高台寺党として分離した服部武雄こと三郎兵衛良章36歳が、慶応3年11月19日(1867)新選組との争闘、油小路にて闘死した時に、以下の詩歌が懐にあったと言うんですね。
坂本立馬主横死の由を聞きて
「たずぬべき 人もあらしの 激しくて 散る花のみにぞ 驚るかれぬる」(『近世殉国一人一首伝』)
ご存知のように、当時は音訓さえ通れば当て字もすくなくともなかったようです。
件(くだん)の坂本龍馬をも、桂小五郎や岩崎弥太郎などは、龍馬を「良馬」と書いた当て字をしていますから、あながち、「立馬=りゅうま」の読み当て字もないとはいえませんね。
ちなみに、昔は「りゅうま」での呼称でしたが、今は「りょうま」のようです。(2016/2/1記)
2016/02/02 Tue 14:47 [No.243]
京都歴史研究会・代表
寛文2年(1662)、歴代藩主を祀る『祠堂』(家廟)を水戸城内に建てて、儒式祭祀を始めた。
光圀は寛文6年(1666)家礼に基づく喪祭儀礼を解説した『喪祭儀略』を和文で撰述させ、藩士らの墳墓を坂戸と常磐に授け、自葬儀祭を勧めた
これは光圀が権力者だから出来たことかも知れない
そして喪祭儀略は、写本として流通、改定増補を経て、水戸藩では近世を通じて儒教儀礼が行われ続けた
徳川斉昭(1800〜1860)は喪祭儀略を基に『喪祭式』を編纂、明治になって
斉昭の子、第11代(最後)の藩主:昭武(1853〜1910)によって出版された。
権威ある儒教喪祭儀礼マニュアル書が成立し、儀礼も執り行われてきたが、新しい時代の到来により終焉を迎えている
。
但し、神道式の葬儀『喪祭式』として、儒教の喪祭儀式が取り入れられ変化して、僅かに残り現在に至っている。
2016/01/30 Sat 22:26 [No.241]
藤原改新
元治元年春、思いを遂げられない苛立ちの中で、河合宗貞、江坂行正(行厚の弟)が、ついに国抜けをする。幕府も国許(姫路)も因循姑息で新しい時代認識がないという怒りからであった。こうした志士の動静に対し、極端な警戒心を持っていたのが、家老の高須広正である。
高須は2人の国抜けを奇貨として、志士の一掃を謀った。徹底捜査を命じるとともに、親族、縁者への追及を強めたのである。先ず、宗貞の養父で、尊王派の一方のリーダー 河合宗元の追及が始まった。宗元の身を案じた長州、鳥取の志士が逃走を促したが、宗元は従わず獄に下った。又、宗貞の実父である境野意英にも追及が及んだ。意英は高須の姉婿でもあった。高須の追及は、時に姉にも迫り苛烈を極めた。意英は京都にあった時、宗元ら志士に共感し、情報交換や会合場所として彼らに自邸を提供していた。城主の忠積が志士の活動を快く思わず、大っぴらな集会を阻止しているのを見て、密会所として京都の自邸を密かに提供していたのだった。高須はこの事を知っており、意英の家士を陥れ、その秘密会合の関係書類を入手した。これによって、姫路志士の動静と、その背後の動きや人脈が一気に解明されてしまったのである。この密謀は高須によって、こと細かに忠積に報告された。その結果、同年4月、志士のリーダーで2年前の文久2年家老に復帰したばかりの河合良翰を、江戸 染井村に幽閉した。それと前後して厳しい取り調べを受けていた境野意英が自ら命を絶って抵抗した。その直後から志士らの一斉検挙が始まった。
国抜けした河合宗貞、江坂行正は長州入りを図っていたが、捕らえられ、姫路の獄につながれた。
紅粉屋殺害に呼応して、京都で千種有文の家士 賀川肇を暗殺した萩原正興、江坂行厚、伊舟城致美、松下綱光、市川久明をはじめ、武井守正らも次々と逮捕された。
その年の暮れ、彼らに厳しい断罪が下された。
紅粉屋殺害の上、国抜けした2人に斬首、賀川肇暗殺容疑者の5人と河合宗元に自刃の命。彼らと行動を共にした6人には終身刑の永牢、さらに河合宗元、宗貞につながる縁戚の河合良翰をはじめ、各関係者、親族一門にも家禄没収、蟄居謹慎、差控等、総計70人に及ぶ厳しい処罰が言い渡された。元治元年12月26日、処分発表と同時に即日、刑の執行も行われた。甲子の年に当たることから、後に『甲子の獄』と呼ばれる。
2016/01/13 Wed 00:28 [No.237]
藤原改新
姫路の紅粉屋襲撃に呼応して、姫路の志士が京都で公武合体派の公家 千種有文の家臣 賀川肇を暗殺するという事件を起こした。文久3年1月28日である。実行者は姫路から上洛して、桂小五郎、久坂玄瑞、真木和泉らと交流し、尊王攘夷運動に没頭していた萩原正興、江坂行厚らである。攘夷の実行を求める動きは姫路の他の志士にも急速に広がり行動も過激化する。賀川暗殺の半月後、萩原正興らは河合宗元と謀り、攘夷実行に逡巡する幕府の態度を改めさせる為、死をもって建言することを決意する。尊攘派の公家 姉小路公知邸へ、その旨を告げに訪れた。姉小路卿は志を了としたが、自害を諌めた。(この姉小路卿も同年5月20日、京都御所の朔平門外にて襲撃された。)
同年8月17日に大和で、10月12日には生野で、尊攘派による義挙が相次いで起こったが、義挙は失敗に終わった。又、大和義挙の翌日、8月18日宮中において、会津、薩摩の密謀による尊攘派一掃を図るクーデターが起きた。この義挙とクーデターに姫路の志士も多数関係する。
大和義挙では、紅粉屋暗殺を謀った河合宗貞、武井守正らが資金調達に奔走した他、元小川村の住人の北村義貞は直接襲撃に参加した。北村義貞は生野義挙でも武器運搬などで加勢したが、他の志士らは鎮圧側に回っている。ただ、平野國臣らは飾磨から船場川を遡り生野を目指しており、その途中、姫路城下で志士らと何らかの接触があったのではないかと見られる節もある。一方、クーデターでは、江坂行厚、伊舟城致美、萩原正興ら在京の志士が、長州に落ちる三条実美らの馬側に従い警護に当たった。
2016/01/11 Mon 19:57 [No.236]