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木曾 武
梅田先生にお伺い」した処、返信を頂きました。
昭和八年 有明堂書店
「梅田雲浜先生」
内田周平・佐伯仲蔵共述
に、この写真が掲載されていると言う事です。
また、杉氏よりも返信を頂きました。
昭和11年-都日報社
京都市教育会編「維新史蹟」
11頁では、雲濱遺墨(林岸造氏蔵?)とあったと言う事でした。
ありがとうございました。
この間違いに接した京都市教育会では、再度「維新史蹟」を出さなければ成らなかったのでしょうか…
2015/12/01 Tue 08:51 [No.206]
杉さんぼく
高知の北東は薊野真宗寺山にある岡田家墓地に、岡田宜振(タカノブ)とあるのが以蔵の墓です。(あの有名な沢田マンションの横からも登れた)
仲人まがいの世話好き好人物だった、とされる父義平の代に高知に出てきたようで、その以前は岡田家の墓もある神通寺村(香美市)に住んでいました。(未見)
いわゆる、黒岩某から郷士株を買った譲受(ゆずりうけ)郷士でした。
以蔵は、詩文経書等に通じた父義平・和漢学問にも身につけた母里江の血を受けた事もあってか、当初は書を竹村東野氏、剣を麻田勘七氏に学んだ(殉難録稿)、とあります。
やがて13、4歳になった頃、麻田勘七氏弟子武市半平太さんに、以蔵を入門させました。
この以蔵さんには6歳下の弟がいて、土佐勤王党名簿に名を連ねた宜登=のち登稔、通称「慶次=啓吉」がいます。
薊野真宗寺山に行くと、以蔵の墓と共に「岡田登稔墓」「岡田登稔妻墓」とあるのが弟夫婦の墓です。
以蔵亡き後、家督は宜稔=啓吉さんが引き継いで、会津戦争に従軍、佐賀の乱では敗れた江藤新平を、自宅に泊めたりもしています。
この宜稔=啓吉さん、残念ながら、39歳で亡くなり(明治15年)、遺児の男子、虎輔さんは札幌農学校から大蔵省〜タバコ産業界に名を残し、次男の諒児さんは、大蔵省〜四国税務署長を務めました。
ちなみに以蔵の母、里江さんは89歳まで長命(明治39年歿)しています。
この宜稔氏の子孫宅には、まだまだ資料があるとされているだけに、人斬り以蔵に憚る事なく、もっと世に出て欲しいものです。
(参考/松岡司著=岡田以蔵正伝2014)
2015/12/01 Tue 08:36 [No.205]
杉さんぼく
国書神典の系譜吉井良秀にの遺稿「樟園余影」(昭和15年)が、信州の国学者飯田武郷の門人だったんですか。
確かに、飯田武郷は信州に多くの系譜流布する平田国学の第一人者で、相楽総三の首を奪って埋めた、とされています。
なるほど、なるほど。
2015/11/27 Fri 06:52 [No.201]
奥津希多世ママ
西宮神社吉井良隆宮司から、今は第554代良昭宮司になってるんですね。
その傍系の吉井宮司と言えば貞俊権宮司が、伊勢本街道で馴染みが深いんですが、なぜか、「良」がつくのにこの権宮司さんは貞俊と言うお名前で、残念ながら故人になられてしまいました。
吉井一族は皆さん健筆家です。
西宮史話の良隆宮司以前に、14歳から国書神典を父良幹に受けた影響からか、その才覚を生かして、幾多の著述を残した吉井良秀に尽きます。
「老父の御神幸に関する記事は後人にとっては誠に有益」と、息、良尚宮司が記すように、その遺稿「樟園余影」(昭和15年)がなかなか良い。
この良秀宮司、年譜によれば
「37歳(明治22年)、信州の国学者飯田武郷の門について、皇典・歌文を研究し始めた」
とあります。
云わずと知れた、飯田武郷は信州下諏訪で斬首された赤報隊相楽総三の首を奪って埋めた、とされる平田国学の雄でした。
意外な繋がりがあるんですね。
だから、歴史は面白い。
2015/11/27 Fri 05:11 [No.200]
杉さんぼく
武州八王子を中心に周辺村落に土着した郷士集団に、八王子千人同心があります。
甲斐と武蔵の国境警備、治安の任をなし、天正18年(1590)の徳川氏が江戸入りに際し、甲斐武田の旧臣遺臣を中心に組織されました。
八王子千人同心に土方姓はないか、と千人同心姓名在所図表(嘉永甲寅季秋)を見れば、八王子周辺の日野荒井村に、土方姓の千人同心、土方甚蔵さんがいました。
あと、戸倉新田(国分寺)にも土方姓の土方兼五郎さんがおりました。
武田家遺臣の千人同心に名を連ねる中に、土方姓があるのも大したもんです。
多分、土方副長のお大尽生家土方家もどこか繋がりがあるのではないでしょうか。
石田寺に行く途中、土方生家(土方記念館)からモノレール高架下に行く手前の北側に、今も大きな豪農屋敷があるかも知れません。(15、6年前でしたが)
参考
江戸幕府千人同心史料(村上直編/1983文献出版)
2015/11/11 Wed 18:26 [No.193]
杉さんぼく
服部半蔵、いうまでもなく武将忍者であるのは、誰しもに知られています。
その墓が東京の四谷西念寺にあり、墓維持に窮した時の事。
そこで勝海舟が相談を受けた(明治16年月26日)関連の記述が、海舟日記にあります。
…梶田(政光)、服部半蔵へ三円遣わす…(3月14日)
海舟と服部半蔵、どう繋がるんでしょうね。
男谷家邸で生まれた海舟は、父男谷小吉が御家人勝家に婿入りして、名乗ることになる勝の由来を調べさせたことがあります。
そして近江坂田郡勝村(長浜勝町)だったことを知ると共に、男谷の遠祖が近江国の山上郷から、落ち武者として越後(柏崎)に土着したのもあわせて知りました。
いずれも近江の出、そして勝家、物部尾輿子孫の太郎冠者季時が勝村(長浜市勝町)に住んだことから名乗り、その子の左近時明は今川氏、孫の市郎左衛門時直は徳川氏に仕え、玉薬奉行配下同心となります。
そこに、服部半蔵正成支配の伊賀同心が加わり、戦乱に活躍しました。
つまり、伊賀同心と隠密行動をした玉薬組同心(箪笥方)でした。
時直の江戸入り以後、代々勝家は大箪笥組、玉薬同心として火薬や鉄砲玉等の製造管理する任にありながら、公儀隠密方役割をも果たしています。
居住区は、忍者拝領屋敷の多い伊賀町、忍町の東、御箪笥町でした。
こうした事どもを知ってか、明治2年(1869)冬の事、徳川慶喜が海舟の永年の労をねぎらった折りの話です。
海舟は皮肉を込めて答えます。
「…私の先祖は伊賀同心で、権現様の冬、夏両御陣とも先手組で、鉄砲持って敵に向かった、そんな二度の軍(いくさ)が済んでも矢張りり同心だ。ソコを考えればナンでもないわさ」
海舟、忍、忍んで忍者を愛おしんだ結果の、まさに義邦(ヨシクニならぬギノクニ)の、長命、艶福にてコレデオシマイの一生でした。
2015/11/10 Tue 20:08 [No.189]
杉さんぼく
幕末維新、息2人と共に親子で戦死して死んだ話では、中島三郎助がいるのが巷間知られています。
同じような話を、敦賀の水戸浪士墳墓から読み取れます。
それが、水戸石名坂の黒澤八十衛門、利八郎、新次郎親子です。
水戸藩尊攘改革派で、水戸藩から麻裃一代着用を許された八十衛門は、水戸筑波挙兵に利八郎、新次郎を伴って参加しました。
そして、西上長行路の敦賀という異郷の地で、八十衛門は斬首惨殺前に病死し、利八郎、新次郎は悲痛な惨殺の最後を遂げました。
その死後の家系は、八十衛門の女婿新介が跡を継ぎ、現在、水戸黒澤家の庭には三人の顕彰碑が建てられていると言います。
こうして親子での情熱ってすごくはありませんか。
敦賀の武田耕雲齊墳墓にその名前があれば、そんな感慨の供養にふけってみるのも悪くはありません。
ちなみに、天狗党由来。
斉昭の兄、八代藩主斉脩(なりのぶ)文化文政時代からのようで、斉昭の新伊勢物語には以下のように記されています。
江戸にては口慢者杯を天狗と申歟に承り候所、水戸にては義気有之有志の者を天狗と申候。…今日の暮(くらし)にも指及ながら…容易に人に出来不申事を致候を中々人の出来候事に無之、天狗に可有之と感心致候より、義気強く国家の為に忠を存候者は何れも天狗の仲間、是も天狗の仲間と申様に相成候義にて、天狗と申は拙老が国にては義勇のかへ名と申者にて、江戸にて申候とは相違に有之候…。
いわば、改革派の下級武士層集団でした。
かたや、諸生党。
水戸保守、佐幕派が藩校弘道館の諸生徒に手を廻して「諸生」の名で建言書を出した事から、諸生党と呼称されるようになったわけで、この代表が天狗党弾圧をし、逆に明治になってから、武田耕雲齊遺児などに惨殺された市川三左衛門です。
残念ながら、水戸浪士天狗党はいまだに子孫探しがリアルタイムで進んでいるようですが、諸生党子孫探しは捗らないこともあり、諸生党関連資料は多くありません。
うつ人も
うたる人も心せよ
同じ御国の
御民ならずや
あだみかた(仇味方)
カツも負くるも
哀れなり
同じ御国の人と思へば
(太田垣蓮月尼)
参考
幕末の日立(鈴木彰/郷土ひたち文化研究会1974)
2015/11/07 Sat 21:42 [No.188]