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歴史語り・続々・竹島

杉さんぼく

幕府の鳥取藩への、元禄9年1月28日(正月廿八日)[西暦1696年3月1日]付老中の連署布達
「向後 竹島へ渡航之儀 制禁 可申付旨 被仰出之候間」因幡鳥取藩藩主池田綱清(松平伯耆守)宛で、竹島(=現鬱陵島)渡航禁止を通告しています。

幕府の見解は、竹島(=現鬱陵島)には、我が国の命により日本人の竹島(=鬱陵島)への出漁を禁じたことを知らせました。

龍馬が知らなかった布達ですが、さすがに情報通だったのが桂小五郎です。

安政5年7月11日付けの桂小五郎宛て書状がそれを記している。
「竹島・大坂島・松島合せて世に是れを竹島と云ひ、二十五里に流れ居り候。竹島計り十八里之あり、三島とも人家之れなく候。大坂島に大神宮の小祀之れあり、出雲地より海路百二十里計り。産物蛇魚類、良材多く之れあり、開墾致し候上は良田美地も出来申すべし。此の島蝦夷の例を以て開墾仰せ付けられば、下より願ひ出で航海仕り候もの之れあるべく候。」

松浦四郎の「竹島雑誌」が竹島の周回を16里、出雲の島根半島の雲津から隠岐経由竹島までが約120里としていること等から考察すると、竹島から松島まで25里は同じ鬱陵島を竹島(アルゴノート島)と松島(ダジュレー島)とした1840年以降のシーボルトの「日本図」に合致しています。

松陰が「万国地図」、すなわち世界地図から竹島を確認し、最近まで元禄竹島一件の事は知らなかった、と語っている事からも島も現在の竹島でないのが判ります。
時に、大坂島を大坂浦とされるが、大坂浦に近い島の意味で、竹島とも呼ばれていた竹嶼の事かも知れません。

2015/10/22 Thu 19:07 [No.175]

新撰組余談-続・源さんの首

杉さんぼく

鳥羽伏見戦で、江戸に帰って「源三郎おじさんは伏見戦で討死なされた…」と、井上家に書簡をあてて伝えていますから、しっかりしたものです。(戦前まで現存していたが、現在紛失で行方不明)

「とかく論議される新選組の功罪や、源三郎の人物批評はともかく、我が家の歴史と伝承は新選組史料とともに永く譲り続けてゆきたいものである」(子孫が語る新選組)(1979)と、孫に当たる故井上信衛(ノブエイ)氏も、田遺臣であり、1700年に八王子千人同人筆頭とあるのを誇りに語り遺されていますね。

井上源三郎一重(日野八坂神社奉納額)、一(墓石)。
年齢は30歳(生卒、天保10亥年3月1日、明治元辰年正月4日死、享年30).40歳(新選組始末記)とも…。

結局は首の行方は不明としか言いようがありません。

もって、瞑すべし。

なお、源三郎終焉については、井上資料館長も同行した市川三千代さん(2008)の、淀調査報告があるとの事で擱筆とします。

2015/10/19 Mon 19:26 [No.170]

新撰組余談-源さんの首

杉さんぼく

井上泰助が井上源三郎の首を埋めた余話。

日野に現在、誠の文字とともに、○に井の字をいただく土蔵の井上記念館(五代目井上雅雄館長)があります。
その井上家に口伝として伝わる話です。

30年位前はまだ日野には、御一新の時は…と云うより、瓦解の時は…と云う古老が少なくなかったと、日野の郷土史家・谷春雄先生が語られ、また以下のように指摘されてました。

「しり上がりの三多摩弁と作家は云うが、多摩地方はしり上がりではない、それに、しきりに州三多摩と言っているが、徳川時代は多摩郡であり、西、南、北の三郡に別れたのは明治初年で、近藤、土方、井上、沖田の時代は三多摩はなかった」と。

そんな谷春雄先生が記す、風貌が源三郎に似た泰助、その泰助長男・覚太郎の妻ケイさんの、泰助が語り遺した記憶語り。

「源三郎おじさんは、普段無口でおとなしいが、思い込んだらてこでも動かない。…鳥羽伏見戦での命令、引けにも関わらず、戦い続けて遂に弾丸に当たって倒れ、手当て間もなく息を引き取った。…おじさんの首と刀を持って、大坂に引き揚げるため歩き出したが、首がこれほど重いとは思ってもみなかった。…一緒に引き揚げる隊士から『首を持っては一行に遅れ、敵に捕まる、残忍だろうが捨てろ』と言われ、とある寺の門前の田んぼを掘って埋め、舟で大坂に引き揚げた。誰か京都の方に行った時にはお参りして来い…」(1972年-82歳)

この寺が日野にあるのと、偶然な欣浄寺だったかどうかは定かではありません。

井上泰助、井上家伝に「泰助爺さんは近藤勇の刀持ちだった」ともあるように、近藤、土方が泰助父、松五郎に頼まれて個人的に小姓として雇った少年隊士でした。
記録に子供とありますが、今の12.3歳の比ではありません。

2015/10/19 Mon 07:58 [No.167]

北畠顕家と風林火山

藤原改新

大阪阿部野にある阿部野神社の御祭神は、北畠顕家と『神皇正統記』を著した父の准三后北畠親房である。北畠顕家は建の新政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。足利尊氏が叛したため西上し、新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。その後、伊勢、大和などを中心に北朝軍相手に互角に戦い一進一退を繰り返したが、遂に和泉国堺浦 石津に追い詰められ、奮戦の末に討ち取られて戦死した。延元3年5月22日、21歳。
北畠顕家は若年ながらも文両道に優れた人物である。何よりも現実を見つめ、後醍醐帝を諌めた諫奏文『顕家諫奏文』は名文書として有名である。建の親政における天皇の政治の矛盾、一部側近らの横暴を厳しく批判していた。
又、「北畠鎮守府将軍起つ」の知らせに奥州の土豪、士が続々参軍、白河の関を越える時には総勢10万余騎の大軍となり、疾風枯葉まく進撃を続けた。顕家軍の先頭には北畠氏の定紋「割菱」と親房が孫子の兵法を学んで作り、京都から送った「風林火山」の旌旗が風にはためいていた。
疾如風徐如林侵
掠如火不動如山
兵法書『孫子』にある「疾きこと風の如く 徐かなること林の如し 侵掠すること火の如く 動かざること山の如し」この軍旗と菱の定紋は戦国の名将、田信玄率いる甲州軍団の専売特許ではない。約260年も前に顕家の率いる、北畠軍団が掲げていたのである。

2015/10/16 Fri 07:35 [No.166]

気になる人々 続-大塩平八郎〜浮き世の有り様

杉さんぼく

天明5年(1834)、大坂の医者らしい穿鑿好きの好事家が書いた「浮き世の有り様」全13巻(日本庶民生活史料集成J巻/1970/三一書房)の中で、大塩平八郎の乱に関しては、天保8年雑記6〜8巻に記載があり、かなりの記述が割かれています。

今でいえば、大した取材力の筆走りです。

第6巻には瓦版の写しがかなりの枚数を費やしていますから、瓦版はずいぶん出たのかも判りませんね。

大塩の乱、米価騰貴に始まり、堀伊賀守家来筆記まで、実にこまめに書いていますから驚きです。

有名な新選組の旗が「誠」一字で象徴的なのは知られていますけど、パラパラとめくるとこの本に所載されている大塩平八郎の目標旗には、桐の紋が描かれていました。

言うまでもなく、桐は今川家の紋で、大塩は今川の臣を先祖と思っていたのかも知れません。

あと「救民」、「東照大権現」「天照皇太神宮(中)・八幡大菩薩(左)・湯両聖主(右)」の旗がありました。

詳細の興味ある方は図書館でご覧下さい。

2015/10/16 Fri 04:55 [No.165]

気になる人々 続-大塩平八郎〜清河八郎

杉さんぼく

その一例に清河八郎の話をします。
この清河八郎が安政2年、母親他を伴って京都を始め伊勢や金毘羅、岩国等を廻った日記「西遊草」を残しています。
むろん大坂にも泊っています。
しかし、清河八郎なら大塩平八郎事件に興味持ちそうと思うのに、各地では旧跡に興味を示しながらも大塩事件遺跡には全く触れていません。
「心斎橋通は大坂第一にぎはひの町にて、夜店のにぎはひをびただし…中の芝居にいたる。四、五町先の道頓堀にあり…狂言も至て手抜多く、さらに見る事もなけれども、やはり面白く遊覧せしとぞ…大坂の芝居は江戸にひとしき事のよしゆへ…今日のみにあらぬゆへ、またみるべき折もあらん…」(安政2年5月30日=1855/7/13金)

江戸時代の娯楽は、やはり芝居や狂言、浄瑠璃等が主流でしたから、大塩事件もそうした演目、題材で多種多様あればまた違ったかも知れません。

歴史の事実と嘘と虚構の、面白き虚構表現伝播恐るべし…。
「…相変わらず不景気と見へ、昔日の大坂にはあらざれども、三都の事ゆへ、所によりにぎわひはかわらざるなり。されども町人の地にて、士気のもののあるまじき所なり。此又自然の勢ひなり」(安政2年5月30日=1855/7/13金)

参考=西遊草(岩波文庫 小山松勝一郎校注1993)

2015/10/16 Fri 04:46 [No.163]

新撰組余談資料(鳥取藩風聞録)

杉さんぼく

資料=新撰組油小路事件の死体検案書

一、藤堂平助(南部弥七郎)弐拾八、九才位
疵所両足、横腹弐ケ所。
面上鼻より口へ掛(け)深さ二寸程、長さ七寸斗り、刀を握り候儘果て。

一、同所辻北東手に倒れ果て居り候ものは、三宅安兵衛(服部雄)三拾才位
疵所背中数ヶ所、これは倒れ候ところを散々に切り付け候趣にて、疵の数分からず。
うつむせに倒れおり候を、翌日あおむけ候ところ、腕先三ヶ所、股脚四、五ヶ所、かか先(踵)一ヶ所、胴腹一ヶ所、流血夥し。

一、油小路通七条少し上ル東側へ寄り倒れ果て居り候は、寺(毛)内監物 三拾弐、参才位
疵所書き尽くし難く、五体散々離れ離れに相成り、実に目も当てられぬ斗に御座候。
傍に刀の折れ候儘捨てこれあり、脇さし握り候儘果て居り候。(鳥取藩慶応丁卯筆記より)

2015/10/14 Wed 12:47 [No.156]

続・新撰組余談資料

杉さんぼく

★大国家文書(風聞書留)
6月5日昨昼後.四条真町江向ケ壬生浪士様之者八人下部三人罷越.枡屋喜右衛門方ニ而土蔵ニ有之候左之品-着類.興桑方壱ツ.桃成形壱ツ.鎧弐ツ.陣笠取合五ツ計。

★若杉家日記6月5日壬生浪士乱謀もの召取相成.アレコレト怪我人者多分切殺候也。

京都の資料「人のうわさ」(京都総合資料館蔵)によれば、古高俊太郎から押収されたのは以下の通りとあります。
「…具足七領、鑓拾本、鉄砲拾挺、塩硝沢山」

「木砲数門、甲冑拾領、砲弾丸一発、竹筒入り火薬五本」(古高自白部分)

そして、近藤勇書簡。
「…甲冑拾壱領、槍二十五筋、木砲十貫目位五門、短筒三挺、火薬大筒壱本、一重藤弓拾壱張、矢五百筋、他外着込、長刀、器類五持有之…」
あと、書簡類がありましたが、陰謀には関与しない私的な書付ばかりでした。

大仏辺の元山七郎からは
「鑓五本、具足類二荷、内二具足二領…」

実はこれら以上に、四条千本某所から押収されています。
「…大砲の玉つづらに六盃、松烟(硝煙)多分二買い込み、大坂より西高瀬にて積み登りし鉄砲、大筒、船に六盃も差し置きにあいなり…(俊太郎)同類の者、近江屋菊次郎21歳、正法寺弟子・念道70歳、同永寿院・光山42歳、枡屋喜右衛門、伊勢屋又七35歳」(改訂肥後藩国事史料)

古高の具類に比べて、大掛かりなつづら六盃の砲弾、大量の硝煙、川船六盃の鉄砲、大砲等…、これらの器弾薬を何に使おうとしていたのでしょうか。

2015/10/14 Wed 12:33 [No.155]

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