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秋芳
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緋剣の魔術師会(魔術流派)
「ニヴォズの剣」あるいは「緋色の魔術師会」とも称される魔術師の一派。ヴィッセン十二王の称号のひとつ「ニヴォズ」に由来する魔術流派である。
十二王の称号のひとつ「ニヴォズ」はヴァンデミエル姫より賢者の学院の院長(学長)に授けられ、以後、歴代の院長(学長)が継承した。ところが魔動機文明の末期、当時の継承者であった院長(学長)は学院の高弟ではなく、旅の魔術師に称号を授けてしまう。
この行為については、十二王の一員として王国の運営に関与し続けたため、次第に貴族化し学院の外に対しても影響力を得た院長職を本来の姿に戻すためであった、との説が有力である。魔術師としての技量や賢者としての知識を有する者よりも、学院内での政治力を持つ者が院長(学長)となり、ニヴォズの称号を継承していることへの反発であったとする説もある。どちらにせよ、当時の「ニヴォズ」は魔術師として賢者として力を持つ者に称号を継承させようと判断したことは確かであり、次代の「ニヴォズ」となった旅の魔術師の非凡な力量からもそのことがうかがえる。
新たな「ニヴォズ」となったのは、大陸を放浪し各地に残る古代魔法文明の痕跡を調査していた老魔術師であった。真語・操霊・深智魔法のいずれにおいても、その実力は学院の指導者たちをはるかに越え、危険を伴う旅と遺跡探索から得た実践的な魔術は、学院での研究では得られない活きた魔術のあり方は成していた。
学院の指導者層は、老魔術師の埃まみれの姿を「泥にまみれた手で貴重な書物を扱う不心得者」と揶揄した。また、老魔術師が攻撃魔法に精通していたことも揶揄の対象となった。怪物の返り血を浴び、あるいは自らの血にまみれて周辺の遺跡から帰還する老魔術師に対して「血まみれのニヴォズ」との蔑称を贈り、表面上は敬いながらも実質的には学院の中枢から遠ざけ、名目だけの閑職を与え、学院の運営や指導方針の決定に参加させることはなかった。
老魔術師は、この冷遇に対して、あえて「血まみれの雪(ブラッディ・スノウ)」の二つ名を名乗って応え、危険を乗り越えるため命を護るための魔術の必要性を訴えた。その毅然とした態度と実学としての魔術というスタンスは、すぐに若い魔術師たちの賛同を得ることとなった。
老魔術師に賛同した若者たちは、「血まみれ」と蔑まれながらも胸を張ってそれを肯定した師の心意気をうつすものとして、いつしか緋色に染めたローブ類を着用するようになった。これに猛反発した学院側が若手魔術師の統制を試み、学院を二分するほどの騒動に発展した。ここに至って老魔術師は、学院の分裂や争乱は己の望むところではないとして、ニヴォズの称号を十二王に返還し、賛同する若者を連れてヴィセンを離れた。
ヴィッセンを離れた老魔術師はフェンディル王国へと遷り、弟子たちとともにザルツ地方の研究を続けた。フェンディル王国からの度重なる招聘は固辞し、以後は生涯権力と関わることはなかった。
晩年、自身が培った魔術理論を「剣」「杖」「杯」「護符」の4種の文書にまとめ上げると、高弟たちはこれを教本として研究と指導に努め、「緋色の魔術師会」と呼ばれる魔術流派が誕生した。
老魔術師の死後、高弟たちはフェンディル王国内でザルツ地方の研究を続けたが〈大破局〉によって散り散りとなり、貴重な文書やアーティファクトも散逸した。かつての教本のひとつ、「剣」の内容として「緋色の魔術師会」の一端を現在に伝えているのが、今日、「緋剣の魔術師会」と呼ばれる一派である。
「剣」には攻撃魔法の実践的かつ効果的な使用法がまとめられたと言われており、危険と隣り合わせの冒険者のなかには、この流派の秘伝を修得する者が少なくない。この流派の流れを汲む魔術師はザルツ地方全域に存在しており、師を求めることはそう難しくない。
現在のヴィッセンにおいては、賢者の学院が過去の行為を謝罪するとともにその功績を認め、選択制カリキュラムの一部に取り入れている。ヴィッセンの賢者の学院でこの魔術流派を学んだ者は、十二王の称号を冠して「ニヴォズの剣」と呼ぶこともある。
2012/02/24 Fri 22:12 [No.257]