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  1. [203] 天正10年(1582年)5月29日、織田信長は1年3ヶ月ぶりに上洛する為、安土城を発した。供廻は僅かに小姓2,30人だった。この供廻の少なさが信長の致命的な失態だったといえる。信長の旗本馬廻はこの時どうしていたか?大半は安土城のある近江国内に在住していたと思われる(人数は不明)。『信長公記』には「上洛後すぐに中国筋へ発向なされるので、出陣の用意をととのえておき、お知らせが有り次第出陣するように、と  ・・・・ >> 続き本能寺の変直前の動向 藤原改新 2015/11/29 15:47
    1. [215] 中国出陣を目前に控えていたはずの信長が、在京中に大規模な茶会を開く予定だったのではないかと言われている。上洛に合わせて、安土から大量の茶道具を本能寺に搬送させていた。右筆である楠長諳が書いた「御茶道具目録」には、38種の茶道具が記載されている。いずれも信長愛蔵の品々で、九十九茄子、珠光小茄子、万歳大海、珠光茶碗、牧谿絵、千鳥香炉など、名物逸品がそろっていた。そしてこの目録は博多商人の島井宗室に宛て  ・・・・ >> 続き本能寺の変直前の動向 2 藤原改新 2015/12/05 18:49
      1. [245] 信長が最後に上洛する8日前に嫡男の三位中将信忠も上洛している。信忠の上洛もこれが最後となった。
        では、信忠の上洛にはどのような目的があったのか?

        信忠は5月中旬、安土城での徳川家康と穴山梅雪の接待の場に同席した後、21日、家康、梅雪一行とともに京都に入った。二人は信長から京都、大坂、奈良、堺を遊覧するよう勧められており、信忠はその警固役も兼ねての同行だったと思わ  ・・・・ >> 続き
        本能寺の変直前の動向 3
        藤原改新 2016/02/08 01:40
    2. [251] 慶長8年(1603)、徳川家康が上洛の際の宿舎として造営したのが、観光客で賑わう『二条城』。

      しかし、一番最初の『二条城』は、永禄12年(1569)に、織田信長が室町幕府第15代将軍足利義昭の為に築城したもので、

      歴史上では区別の為に
      『旧二条城』とされている。
      場所は、上京区下立売通室町西南角(平安女学院の敷地内)。> 続き
      旧二条城・二条御所(二条殿)
      京都歴史研究会・代表 2016/03/11 20:40
    3. [252] 誤植がありました。

      誠仁親王の前の文章訂正します。
      関白二条晴良邸の跡地に建ったのが二条御所(別名:二条殿)です♪
      織田信忠終焉の地
      京都歴史研究会・代表 2016/03/11 20:52
      1. [258] 光秀の謀反が実は家康を討つ為だったという説が有る。光秀が軍勢を洛中の本能寺へと向かわせるにあたって、「家康を討つ為だ」と喧伝したことは、イエズス会資料や明智軍の兵士の回想『本城惣右衛門覚書』にも見えられるので、ほぼ事実だろう。しかし、これは中国へ出陣するはずなのに、反対方向の京都に向かって進軍することを兵士達に怪しまれないようにする為の偽装だったことは明らかである。又、京都に自邸や家臣の屋敷を持っ  ・・・・ >> 続き本能寺の変直前の動向4 藤原改新 2016/04/07 12:22
        1. [263] 光秀は謀反を決行するにあたり、機密保持を重視し、家老衆にも 出陣直前まで心中を明かさなかったことが『信長公記』で確認できる。だから、配下の与力大名に対しても事前に通告すらしていない。では、光秀の与力大名である丹後の細川藤孝•忠興父子と大和の筒井順慶の動向はどの様なものだったのか?

          『信長公記』巻十五によれば、5月17日、信長に家康饗応の役目を解かれた光秀が  ・・・・ >> 続き
          本能寺の変直前の動向5
          藤原改新 2016/04/25 22:25

[ 編集 ][ 返信 ]本能寺の変直前の動向

藤原改新

天正10年(1582年)5月29日、織田信長は1年3ヶ月ぶりに上洛する為、安土城を発した。供廻は僅かに小姓2,30人だった。この供廻の少なさが信長の致命的な失態だったといえる。信長の旗本馬廻はこの時どうしていたか?大半は安土城のある近江国内に在住していたと思われる(人数は不明)。『信長公記』には「上洛後すぐに中国筋へ発向なされるので、出陣の用意をととのえておき、お知らせが有り次第出陣するように、という旨のお触れだったので、御供がなかった」信長を守るべき親衛隊は在地に待機したままで、信長からの出陣命令を待っていたのである。(信長の上洛にも随従せず、安土城の留守居衆も含まれていないから、中国出陣の為在所で待機していた旗本衆だといえる。)『晴豊記』には「その日の夕刻までに宿所の本能寺に入った信長は、翌6月1日参集した公家、門跡衆と対面した時、西国へは4日に出陣するつもりだと述べている。」とすれば、旗本衆もこの日までに上京するか、大坂辺りに集結する予定だったと思われる。又、信長出陣の目的は中国攻めの為だけで無く、九州や四国まで含めた西国全体の予定を意図していた可能性がある。

2015/11/29 Sun 15:47 [No.203]

[ 編集 ][ 返信 ]本能寺の変直前の動向 2

藤原改新

中国出陣を目前に控えていたはずの信長が、在京中に大規模な茶会を開く予定だったのではないかと言われている。上洛に合わせて、安土から大量の茶道具を本能寺に搬送させていた。右筆である楠長諳が書いた「御茶道具目録」には、38種の茶道具が記載されている。いずれも信長愛蔵の品々で、九十九茄子、珠光小茄子、万歳大海、珠光茶碗、牧谿絵、千鳥香炉など、名物逸品がそろっていた。そしてこの目録は博多商人の島井宗室に宛てられたものだった。宗室こそ信長が主宰する茶会の賓客だった可能性が考えられる。一方、徳川家康が主賓の1人だったとする説もある。イエズス会の「1582年度日本年報追信」には、「信長が都に来た時、これが最後になったが、三河の国主やその他の諸侯に見せる為、ほとんど全ての道具を揃えて来たからである。」と書かれている。家康は当時、上方遊覧の為、京都から泉州堺に下向して滞在中、堺代官の松井友閑や堺の豪商、茶人たちに茶湯などの接待を受けていた。本能寺の変当日の6月2日朝、上京の途につくが、これが信長、信忠父子の死が伝えられる前の出立だった。「宇野主水日記」の同日条によれば、家康一行は当日の朝、火急に上京していったとある。その理由は信長が安土から上洛した為だとしている。家康は予め信長から、上洛したから茶会を開く旨知らされていたからだろう。ところが、その上京の途上、河内の飯盛山か枚方辺りで京都から堺に向かっていた茶屋四郎次郎と行き会い、凶報を聞いて狼狽するのである。では、茶会はいつ開かれる予定だったのか?茶会は6月3日に予定されており、信長は家康や公家衆を客にして茶会を開き、愛蔵の茶道具を披露することによって、その由緒や権威を高めようとした。尚、信長がこれらの茶道具をいつ本能寺へ運び込んだか不明。信長の上洛時に随従したのは近習たち数十人のみだから、大量の茶道具類まで帯同出来たとは思えないので、上洛直前に搬入していたのだろう。

2015/12/05 Sat 18:49 [No.215]

[ 編集 ][ 返信 ]本能寺の変直前の動向 3

藤原改新

信長が最後に上洛する8日前に嫡男の三位中将信忠も上洛している。信忠の上洛もこれが最後となった。
では、信忠の上洛にはどのような目的があったのか?

信忠は5月中旬、安土城での徳川家康と穴山梅雪の接待の場に同席した後、21日、家康、梅雪一行とともに京都に入った。二人は信長から京都、大坂、奈良、堺を遊覧するよう勧められており、信忠はその警固役も兼ねての同行だったと思われる。
信忠の上洛は天下人の後継者の登場として耳目を集めた。事実、信忠は7年前の天正3年(1575年)に信長から家督を譲られている。

在京中の信忠の動向については、公家の勧修寺晴豊の日記『晴豊記』でその一端が判明する。22日、上洛した信忠はまず禁裏御所に参内した。そして晒し35反、飛騨布15反、絹30反を献上している。翌23日、今度は朝廷(禁裏御所と誠仁親王の二条御所)から京都所司代の村井貞勝のもとに、貫(絹の横糸)1引、晒し1反、「越後つつき」、妙覚寺を宿所としていた信忠のもとには、小鷹、唐錦、勅作の貝香がそれぞれ届けられている。これらは前日の信忠の献上品に対する返礼として贈られたものだろう。26日には信忠は家康、梅雪を伴って清水寺に参詣し、能興行を見物している。その後3人は武家伝奏の甘露寺経元から饗応を受けている。翌27日には、朝廷から再び信忠に「十合十荷」(皮籠などの箱物10個と酒樽10荷)の贈り物があった。この様に、信忠と朝廷の交流には親密なものがあった。朝廷は信長の後継者に熱い眼差しを送ったことだろう。

京都見物を終えた家康、梅雪一行は29日、堺に向けて出立した。その案内人は信長の側近 長谷部秀一と信忠の側近と思われる「杉原殿」である。実は信忠も二人に同行して堺に下向する予定だった。しかし、直前になって信長が上洛してくるのを知り、急遽予定を変更して出迎えの為、在京することにしたのである。信忠が信長側近の森乱に宛てた書状(5月27日付)には、次の様に記されている。「(上様が)中国表に近々出馬されるとのことで、私は堺見物はいったん遠慮しました。一両日中に上洛されると聞いていますので、京都にてお待ち申し上げます」
結果として、この方針変更が信忠の命運を決したのである。

一方、信忠の下向を心待ちにしていたのは、堺の豪商達だった。信長の後継者をもてなして、織田権力との親密な関係を深めようと考えていたが、中止と聞いて落胆したのである。堺の会合衆の一人だった千宗易も女婿の少庵に宛てた書状(5月28日付)で、「殿様(信忠)が下向なされないことについて、我らをはじめ堺南北の者達は力を失い、茶湯の面目も失った。返す返すも残念である」と嘆いている。

この様に、朝廷や堺衆などの信忠への期待は大きかった。

2016/02/08 Mon 01:40 [No.245]

[ 編集 ][ 返信 ]旧二条城・二条御所(二条殿)

京都歴史研究会・代表

慶長8年(1603)、徳川家康が上洛の際の宿舎として造営したのが、観光客で賑わう『二条城』。

しかし、一番最初の『二条城』は、永禄12年(1569)に、織田信長が室町幕府第15代将軍足利義昭の為に築城したもので、

歴史上では区別の為に
『旧二条城』とされている。
場所は、上京区下立売通室町西南角(平安女学院の敷地内)。

『二条御所』は、
天正7年(1579)に、義昭の二条城を廃し、信長の京屋敷として造られた建物。

現在も旧二条城と二条御所(別名:二条殿)を混同している書籍が多い。

二条御所(別名:二条殿)の場所は、
中京区金吹町…現在は廃校の龍池小学校を再利用した建物[京都国際マンガミュージアム]の場所である。

烏丸御池の北西で、二条殿町の名前が残り、二条殿交番も建っている。

当時の公家:山科言継(ときつぐ)の日記『言継卿記』やフロイス書簡にも、屋敷の壮麗さが記されていたが、完成して間もなく、信長は屋敷を二条関白:誠仁(さねひと)親王に献上してしまう。

それで屋敷は二条御所と呼ばれた。

信長は京都に城を築かず、寺社や豪商の屋敷などを宿舎にあてていた。そう、日蓮宗の寺院は、壕と土塁と塀を廻らせ、櫓を建てた城郭的な構造を持っており、信長は上洛時の宿舎として妙覚寺(妙覚寺城)をしばしば利用した。

本能寺も城郭のような壕がある立派な寺だったのだが、後に悲劇を生むとは知る由もなかった。

天正10年(1582)6月2日、
卯の刻(午前6時頃)、本能寺の変

本能寺があったのは、
西洞院六角通〜蛸薬師通。
信長の長男:信忠は、西洞院通りから二筋東の衣棚通り、北は押小路通り(本能寺から北東約700m)の妙覚寺に宿泊していた(現在は上妙覚寺町の町名が残る)。

信忠は、光秀謀反の報を聞くと東隣の二条御所(二条殿)に、500ばかりの手勢を率いて移った。

一時休戦し、先に誠仁親王一行を退去させた後、激闘の末に信忠は自害し果てた。享年26歳。
本能寺と二条御所の戦闘が終わったのは、辰の刻(午前8時頃)だった。

ところで旧二条城は、
足利義昭の将軍座所で、こちらが最初に別名を二条御所と呼ばれた。

それで、二条殿と混同が起きているのだ。

信長が、足利義輝邸の跡地に70日間のスピードで築いた城で、石垣には墓石や石仏を利用していて、信長の神仏を信じない怖ろしさが垣間見える。

2016/03/11 Fri 20:40 [No.251]

[ 編集 ][ 返信 ]織田信忠終焉の地

京都歴史研究会・代表

誤植がありました。

誠仁親王の前の文章訂正します。
関白二条晴良邸の跡地に建ったのが二条御所(別名:二条殿)です♪

2016/03/11 Fri 20:52 [No.252]

[ 編集 ][ 返信 ]本能寺の変直前の動向4

藤原改新

光秀の謀反が実は家康を討つ為だったという説が有る。光秀が軍勢を洛中の本能寺へと向かわせるにあたって、「家康を討つ為だ」と喧伝したことは、イエズス会資料や明智軍の兵士の回想『本城惣右衛門覚書』にも見えられるので、ほぼ事実だろう。しかし、これは中国へ出陣するはずなのに、反対方向の京都に向かって進軍することを兵士達に怪しまれないようにする為の偽装だったことは明らかである。又、京都に自邸や家臣の屋敷を持っている光秀なら、家康がすでに堺に下向していたことは知っていただろう。

では、光秀はいつの時点で謀反を決意したのだろうか?
普通、それに対する答えは、5月28日に愛宕山で興行された百韻連歌の発句「ときは今あめが下知る五月哉」に光秀の思いが込められていたとされる。しかし、この「百韻連歌」の解釈は多義的であり、謀反の決意表明と見なすのは結果から見た後付けの解釈ではないだろうか。例えば、『信長公記』にも愛宕百韻のことが記されているが、その様な解釈は見られない。

又、「愛宕百韻」と同日付で、光秀が山陰の伯耆国内で反毛利の抵抗を続けている豪族、福屋隆兼に宛てた書状が興味深い(「福屋文吾旧記文書」)。その書状には、「山陽道に毛利、吉川、小早川が出陣し、羽柴藤吉郎が対陣しているので、今度の出陣では先ず彼の表(備中)で働くように、という上意である。そこへ着陣したうえで、様子を見てから伯耆へ発向するつもりである」とある。光秀は備中に出陣し、秀吉を支援した後、伯耆に向かい、福屋と合流しようとしていた。つまり、光秀は謀反の3日前に至っても、中国攻めの先陣として出陣するつもりだったのである。とすれば、光秀の決意は28日以降ということになる。

その決定的な契機は27日、信忠が堺に下向せずに信長の上洛を迎える為に滞京を決めたのを程なく知っただろう。イエズス会資料には、次の様に書かれている。「彼(光秀)は信長並びにその世子(信忠)が共に都にあって、さほど多くの兵を伴っていなかったから、両者を殺害する絶好の機会と考え、己が企てを実行することに意を決した」
この様に、光秀は出陣直前に至り、信長、信忠父子が共に少ない供廻で在京しているのを確認してから、ようやく謀反の決断を下したものと考えられる。

2016/04/07 Thu 12:22 [No.258]

[ 編集 ][ 返信 ]本能寺の変直前の動向5

藤原改新

光秀は謀反を決行するにあたり、機密保持を重視し、家老衆にも 出陣直前まで心中を明かさなかったことが『信長公記』で確認できる。だから、配下の与力大名に対しても事前に通告すらしていない。では、光秀の与力大名である丹後の細川藤孝•忠興父子と大和の筒井順慶の動向はどの様なものだったのか?

『信長公記』巻十五によれば、5月17日、信長に家康饗応の役目を解かれた光秀が中国出陣を命じられた。細川忠興や池田恒興らの摂津衆も同様である。ただ、その中には忠興の父 藤孝と筒井順慶の名前がない。

細川家については忠興が出陣し、藤孝は留守居という分担だったのだろう。忠興が丹後宮津から出陣したのは6月3日。舅である光秀の軍勢と合流する予定だったのだろう。松井康之•有吉立行を先手として半里ほど進み、犬の堂まで来たとき、愛宕下坊の幸朝僧正からの急使で本能寺の変を知らされ、忠興は急ぎ宮津に引き返した。そして父子共々髻を払って信長への弔意を示したのである。(『綿考輯録』巻九)。

順慶については、『多聞院日記』五月十八日条に「筒井順慶は昨夕(17日)帰る。来る二十日、西国へ出陣の用意である」とあり、安土から大和へ戻り、二十日に中国に向けて出陣する予定だったことがわかる。だが、順慶が実際に出陣したのは6月2日の朝だったようで、同日記には「順慶が今朝上京したところ、上様(信長)が急に西国へ御出馬とのことで、すでに安土へ帰られたか。その為(順慶は奈良へ)帰られた」とある。日記の記主 多聞院英俊は、本能寺の変当日の混乱した状況をよく把握できていなかったのだろう。順慶は上京したものの、途中で光秀の謀反を知り、とりあえず帰国したものと思われる。その後、光秀から参陣を強く期待された順慶が迷走するのはよく知られているとおりである。

2016/04/25 Mon 22:25 [No.263]