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  1. [254] @織田信雄

     信長の次男、織田 信雄
    (のぶかつ:1558〜1630)
    母は生駒吉乃(生駒家宗の娘)。生駒屋敷にて生まれた。
    大和宇陀松山藩の初代藩主。

    初め、伊勢北畠家の養子に入り、第10代当主として具豊(ともとよ)、信意(のぶおき)を名乗り、御本所と敬称された。
    (最終的に北畠家を掌握した)

    > 続き
    織田信長の関係者たち
    京都歴史研究会・代表 2016/04/02 12:00
    1. [255] @織田信雄続き、
      そして織田同士は戦わないようした。
       大坂の陣のとき、信包は死没していたが、信雄は先に片桐且元の殺害計画があることを本人に知らせ大坂を脱出させ、徳川に大坂の内情を知らせ、自らも脱出した。

       信雄の戦功から(家康の織田家を存続させる温情か)、元和元年(1615)、上野国甘楽郡(かんらぐん,群馬県)に2万石・大和国宇陀郡に3万石の  ・・・・ >> 続き
      Re: 織田信長の関係者たち
      京都歴史研究会・代表 2016/04/02 12:03
      1. [256] @織田信雄…続々…
        上野国小幡藩では養蚕など事業に務め、楽山園を造園(現代でも名園として知られる)。江戸後期、養蚕事業は地域の一大地場産業となり、明治期の富岡製糸場へと繋がっていく。

        安土城近くの桑實寺は天智天皇の時代に建立され、養蚕が行われていた。信雄はそれを見て思いついた感がある。

        やがて領地を子供らに分け与え、晩年は京都に移り  ・・・・ >> 続き
        Re^2: 織田信長の関係者たち
        京都歴史研究会・代表 2016/04/02 12:07
      2. [257] @織田信雄ラスト、

        ◆信雄系列⇒上野小幡藩、宇陀松山藩、山形天童藩
        ◆有楽斎系列⇒戒重(かいじゅう)藩、後に岩田藩、芝村藩と改称、柳本藩
        ◆信包(のぶかね)系列⇒(丹波氷上郡の柏原藩)

        信雄の五男:高長(たかなが)が、宇陀松山藩の第2代藩主。高長系織田家初代となり。

        三男:信良が信雄の所領の一部、上野国で甘楽,多  ・・・・ >> 続き
        Re^2: 織田信長の関係者たち
        京都歴史研究会・代表 2016/04/02 12:15

[ 編集 ][ 返信 ]織田信長の関係者たち

京都歴史研究会・代表

@織田信雄

 信長の次男、織田 信雄
(のぶかつ:1558〜1630)
母は生駒吉乃(生駒家宗の娘)。生駒屋敷にて生まれた。
大和宇陀松山藩の初代藩主。

初め、伊勢北畠家の養子に入り、第10代当主として具豊(ともとよ)、信意(のぶおき)を名乗り、御本所と敬称された。
(最終的に北畠家を掌握した)

天正10年6月2日(1582)本能寺の変で信長と長男:信忠は共に倒れた。この時、信雄は伊勢松島の居城にいた。

変報を受けると直ぐに軍を率いて伊賀を越え、近江甲賀郡土山に出た。
(記載:安養寺文書⇒備前国の山岳仏教系の古寺、宝物と多くの古文書が残る。記載:勢州軍記⇒伊勢戦国史,神戸良政が記した。)
しかし、伊賀の国衆が不穏な動きを見せたため、それより西に軍を進ませることができなかった。

蒲生郡日野には、信長の妾子が保護されていて、これを支援するの精一杯で、とても弔合戦など余裕がなかった。

(直前に催された、信長の三男:信孝を将帥とする四国攻めに、信雄の采配下の伊勢衆も多く動員されたからではないかとされる。)

明智光秀と戦うには、兵力が不足していた。

秀吉の時代、小田原征伐の論功行賞で、加増ではなく、父信長の祖の地:尾張と北伊勢五郡は没収され国替えとなった。
(この時、家康は関東へ転封)
信雄は国替えを拒絶した為に改易され、下野国烏山に流罪となる。

秀吉に嵌められたのだ。

文禄(元年:1592)の役を迎え、
流罪を許され名護屋へ招かれた。その後、信雄や信長の弟:有楽斎(うらくさい/長益)は秀吉のお伽衆となった。

信長から、猿・はげ鼠
呼ばれた秀吉に対して、妙なプライドを捨てたのか?媚び諂(へつら)う生活を選んだ。

秀吉の死後、大坂天満屋敷に住み、関ヶ原の戦いの時は傍観。嫡男:秀雄は秀吉からもらった越前大野郡の亀山城主だが、関ヶ原では当初は東軍ににつき西軍の加賀大聖寺城攻めに参加。
その後、信雄の命で西軍に転じた。身を寄せた。

信長の弟:有楽斎(長益)は嫡男:長孝とともに東軍に参加し軍功を遂げる。同じく信長の弟:信包(のぶかね)は西軍だが戦地は関ヶ原ではなく丹後田辺城。
しかし、息子:信重(伊勢林1万石)は東軍に就かせ保険をかけた。

本能寺で死んだ信忠の息子は、西軍で戦地は木曽川など。

よって織田は、東西のどちらが勝ってもいいように二股をかけた。九鬼、津軽、真田のごとく。

2016/04/02 Sat 12:00 [No.254]

[ 編集 ][ 返信 ]Re: 織田信長の関係者たち

京都歴史研究会・代表

@織田信雄続き、
そして織田同士は戦わないようした。
 大坂の陣のとき、信包は死没していたが、信雄は先に片桐且元の殺害計画があることを本人に知らせ大坂を脱出させ、徳川に大坂の内情を知らせ、自らも脱出した。

 信雄の戦功から(家康の織田家を存続させる温情か)、元和元年(1615)、上野国甘楽郡(かんらぐん,群馬県)に2万石・大和国宇陀郡に3万石の領地を得た。

上野国小幡藩では養蚕など事業に務め、楽山園を造園(現代でも名園として知られる)。江戸後期、養蚕事業は地域の一大地場産業となり、明治期の富岡製糸場へと繋がっていく。

安土城近くの桑實寺は天智天皇の時代に建立され、養蚕が行われていた。信雄はそれを見て思いついた感がある。

やがて領地を子供らに分け与え、晩年は京都に移り、現:中京区西洞院三条下ル柳水町(りゅうすいちょう)に隠居した。

宇陀に出向くことはなく、能や茶の湯など優雅に暮らした。柳水町は正に、千利休が茶の湯に利用した[柳の水]の名水が出る場所だから。

寛永(1624〜1645)初年に、
北野五辻に転居して没した。
享年73歳。

若い頃の天正伊賀の乱や、
小牧・長久手の戦いでの失敗はあったが、信忠や信孝といった直情型の兄弟とは違い、世渡り上手だった。

2016/04/02 Sat 12:03 [No.255]

[ 編集 ][ 返信 ]Re^2: 織田信長の関係者たち

京都歴史研究会・代表

@織田信雄…続々…
上野国小幡藩では養蚕など事業に務め、楽山園を造園(現代でも名園として知られる)。江戸後期、養蚕事業は地域の一大地場産業となり、明治期の富岡製糸場へと繋がっていく。

安土城近くの桑實寺は天智天皇の時代に建立され、養蚕が行われていた。信雄はそれを見て思いついた感がある。

やがて領地を子供らに分け与え、晩年は京都に移り、現:中京区西洞院三条下ル柳水町(りゅうすいちょう)に隠居した。

宇陀に出向くことはなく、能や茶の湯など優雅に暮らした。柳水町は正に、千利休が茶の湯に利用した[柳の水]の名水が出る場所だから。寛永(1624〜1645)初年に、
北野五辻に転居して没した。
享年73歳。

若い頃の天正伊賀の乱や、
小牧・長久手の戦いでの失敗はあったが、信忠や信孝といった直情型の兄弟とは違い、世渡り上手だった。

生き残ったことで、
成功者だからだ。

◆信雄系列⇒上野小幡藩、宇陀松山藩、山形天童藩
◆有楽斎系列⇒戒重(かいじゅう)藩、後に岩田藩、芝村藩と改称、柳本藩
◆信包(のぶかね)系列⇒(丹波氷上郡の柏原藩)

信雄の五男:高長(たかなが)が、宇陀松山藩の第2代藩主。高長系織田家初代となり。

2016/04/02 Sat 12:07 [No.256]

[ 編集 ][ 返信 ]Re^2: 織田信長の関係者たち

京都歴史研究会・代表

@織田信雄ラスト、

◆信雄系列⇒上野小幡藩、宇陀松山藩、山形天童藩
◆有楽斎系列⇒戒重(かいじゅう)藩、後に岩田藩、芝村藩と改称、柳本藩
◆信包(のぶかね)系列⇒(丹波氷上郡の柏原藩)

信雄の五男:高長(たかなが)が、宇陀松山藩の第2代藩主。高長系織田家初代となり。

三男:信良が信雄の所領の一部、上野国で甘楽,多胡,碓氷併せて 2万石を分与され、その子孫は出羽国村山へ転封、この流れが、山形の天童藩で、最後の藩主/織田信学(のぶみち)は明治に子爵となり、天童県知事となった。

転封があったケースもあるが明治維新まで生き残った。
さらに信雄の娘:八重姫と家臣だった土方雄久の嫡男:雄氏を娶らせた。

雄氏は菰野藩初代藩主となり明治まで生き残る。

徳川は豊臣潰しをし、幼子の命をも躊躇せず奪った
しかし織田には気を遣い、
二代:秀忠ですら苦難の秀雄を救い、三代:家光は信雄を茶会に招くなど配慮を示した。

結果、信長の宗家は残っていないが、信長の血は脈々と生き続けている。
スケーターの人や、宗家と名乗って活動している人らは別として。

2016/04/02 Sat 12:15 [No.257]