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京都歴史研究会代表
のんた撲斎サンの返信にエラーが出ましたので、以下、
代わりに貼り付けます。
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↓
幕末政治論集 ・日本思想大系岩波書店(1976年4月30日 第1刷発行)
塩谷世弘意見書(万延元年閏三月)
(中略)
一、権現様は、上杉浪人車丹波上仰を窺坐候ても、露顕の一命御助候巳に無之、迄食頭被仰付格別の大量、凡慮の及処に非ずと候得ば、火付盗賊の類いの極悪人と違ひ、其主人に忠義有之者に候得ば、法外の意にて御仁心可有之御義と奉存候。
扨水戸様御家来安島帯刀、茅根伊予之助、越前様家来橋本左内は、世上に称し候程の者にて、主人には忠義に相違無之候間、大法にて御処置被仰付候様にも御仁心被為在度義と奉存候。
然る処、帯刀切腹被仰付候とは乍申、"牢屋にて"非人首を打候由に御座候得ば、打首同様の御刑戮に相成候由。元来御仕置付は三奉行様より御伺に相成、御老中様より二三等も軽く御指図御座候由承及申候。
然る処、帯刀等御仕置に限り、御奉行様より御奉行様より御伺に相成候処、二三等も罪重く御指図御座候由。右様私意を以て御法を御枉被成候ては、服筈に御坐候。
依之、帯刀御処置一件に付、
遠島・追放・押込に相成候者共、二三等も御処置御宥免に相成候様有之度存候。
脚注
※"牢屋にて"…小伝馬町牢内での切腹には牢屋同心が介錯を勤めた。非人が首を打つとあるのは誤り。死罪も同様。
【水戸藩史料・上坤】からの引用
2015/07/25 Sat 20:49 [No.57]
京都歴史研究会代表
のんた撲斎氏の
返信にエラーが出ましたので、代わりにコピーで返信します。↓
↓
奥津希多世ママ様
肩書きは一応ありますが
史学会に在籍する前も不具合等を発見したら出版社、著者ともやりとりしてました。
自分は出版社へメールの他に必ず電話をします。電話相手の編集担当者が不相応と感じたら、上司に替わって貰い、主任、編集長等とコンコンと話した上で、不適当なまま未回答だと、ネット上で叩くぞ!と、半ば恫喝ですが。
それを恐れてか、おおよそは回答を貰えてます。
いつも、こんな感じで出版社とやりとりしてます。
余談でしたが…
2015/07/24 Fri 17:49 [No.56]
京都歴史研究会代表
のんた撲斎氏の投稿にエラーが出ましたので、代理で投稿致します。
以下↓、
7月21日に出版社へメール
貴社の刊行城○○彦氏著
吉田松陰『留魂録』
P233
安政の大獄では、以下の七名が安政六年に処刑された。
鵜飼幸吉八月二十七日獄門
鵜飼吉左衛門八月二十七日斬首
茅根伊予之介八月二十七日斬首
飯泉喜内十月七日斬首
橋本左内十月七日斬首
頼三樹三郎十月七日斬首
吉田松陰十月二十七日斬首
記載されてますが、八名の間違いです。
水戸藩家老の安島帯刀が幕命で切腹というかたちで処刑されてます。
処刑とは刑に服するという意味です。
『水戸藩末史料』
〇水戸藩安島帯刀處置の件
(中略)
水藩安島帯刀始各藩の有志處置せられる件
未八月廿七日有志者御處置
安政の大獄の處置なり
水戸藩
水戸家老 切腹 安島帯刀
死罪 茅根伊豫介
死罪 鵜飼吉左衛門
獄門 鵜飼幸吉
以下は省略します。
P263
○一八六○(万延一)年二月
松陰没後百ヶ日法要
P264
三月
桜田門外の変
↑
記載されてますが、これも誤りです。
一八六○年の三月十七日までは、正確には安政七年です。
翌日、三月十八日に万延と改元します。
私が虚言を発しているわけではありません。
まず、元号については貴社でも発行書籍としてあるかも知れませんが
私の所持本として
所功著
『年号の歴史』〈増補版〉雄山閣出版(平成8年3月20日発行)
米田雄介編
『歴代天皇年号事典』吉川弘文館
(平成25年4月20日、第9刷発行)
両氏が共に安政七年三月十八日に改元と記載があります。
指摘した元号(万延)への移り変わりは歴史研究家でさえも、多少なりとも誤記する方もおるようです。
元号の概念を理解した上で安政七年と表記している歴史研究家も勿論、おります。○○○○氏、○○○○○氏等
また、安島帯刀の切腹という史実については幕末に長けている方なら周知のことです。
水戸史学会
のんた樸斎
2015/07/23 Thu 16:10 [No.49]
京都歴史研究会代表
ママさん。
妙満寺に道成寺の鐘があるのは、豊臣秀吉が根来寺を攻めた際に
秀吉の家臣がこの鐘を見つけ
合戦でこの鐘を使い、清姫の怨念を解くために京都へ運んだそうです。
ところで、妙満寺には、花登 筺(1928年-1983)の墓がありますね。
芸能人も多くお参りされるようです。。
因みに花登筺というペンネームはイギリスの劇作家・バーナード・ショーから命名とか、本名は花登 善之助さんといいます。
桂小五郎像は、妙満寺ではなく市役所前の地下鉄入口を見てますね〜(笑)
2015/07/21 Tue 22:08 [No.46]
京都歴史研究会代表
杉さん
大阪天王寺
一心寺に高橋泥舟の碑が
ありましたね。
それから、
杉浦梅譚のたんは、サンズイ辺で杉浦 梅潭 ですね。
2015/07/21 Tue 21:47 [No.45]
京都歴史研究会代表
ずいずいずっころばし
の解釈
★昔、宇治から江戸の将軍に
[新茶]献上する為の
「お茶壺道中の一行」が、
(最大で人足1140人.馬161頭)たいそう
えらそうにして
通っていた。
その当時は、
まだ[斬り捨て御免]の時代
庶民は粗相の無いように、細心の注意を払っていた。
ある農家で、
[ずいきの胡麻味噌あえ]を作っていると、
お茶壺道中が来ると言うので、家の中に入り
戸をピシャリと閉めて(=トッピンシャン)やり過ごした。
子ども達は、両親に呼ばれても決して外に出てはならないと教えられた。
そしてお茶壺道中が通り過ぎると、やっと一息つけた
家の中で、息を潜めていると、米を齧っているネズミ
の鳴き声や、
井戸の近くで、茶碗が割れたような音まで聞こえてくる
◇以下、怖い別の解釈
ずいずい →どんどん
ずっころばし →すっ転ろばしゴマみそずい →ごますり接待茶壺 →お茶壺一行、 →大名行列
追われて →やってきたらトッピンシャン→戸をピシャン抜けたら →一行が通り抜 けたら
ドンドコショ →安心してどん どこ大騒ぎ
俵のネズミ →お役人たち
米食って →農家が汗水流 して作り上げ た米を取り上 げて
チュウチュウ
チュウチュウ →役人たちを小 馬鹿にする様おっとさんが
呼んでも
おっかさんが
呼んでも →たとえ親が呼 んでも、
行きっこ
な〜あ〜し〜よ→外へ出てはい けません。
井戸のまわりで→井戸は罪を背 負ったときの 身投げの場所お茶わん
欠いたのだあれ→慌て茶碗を割 ったのは誰
★本当は、怖い童謡より
何だか、番町皿屋敷みたいだ
2015/07/21 Tue 19:17 [No.42]
京都歴史研究会代表
> 恥ずかしながら、全く知らない人物でした。
>
> 紹介有り難う御座います。
2015/07/20 Mon 10:51 [No.35]
京都歴史研究会代表
恥ずかしながら、全く知らない人物でした。
紹介有り難う御座います。
2015/07/20 Mon 10:50 [No.34]