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藤原改新
神戸にある湊川神社(楠公さん)の御祭神は楠木正成、子正行及び、弟正季以下一族十六柱並びに菊池武吉である。楠木正成は元弘元年(1331年)9月に後醍醐天皇の命を受け、鎌倉倒幕の兵を挙げ、執権北条氏の大軍と戦った。奇策智謀に優れ、鎌倉幕府を崩壊に導き、「建武中興」に大きな功績を立てた。しかし、まもなく足利尊氏が背き、一度は九州へ敗走したが、再び勢力を盛り返して京都に攻め上がってきた。正成は子正行に後事を託して桜井の駅で別れ、湊川で迎撃した。敵は数万に対して、味方は七百余騎、激戦の末、衆寡敵せず。延元元年(1336年)5月25日、「七生滅賊」を誓って、弟正季以下一族の人々と共に、殉節を遂げた。元禄5年(1692年)徳川光圀(水戸黄門)は、家臣の佐々宗淳(助さん)を遣わして碑石を建て、光圀みずから表面の「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字を書き、裏面には明の遺臣朱舜水の作った賛文を刻ませた。この墓碑建立によって、幕末から維新にかけて、頼山陽・吉田松陰・真木和泉・三条実美・坂本龍馬・高杉晋作・西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文などは、皆この墓前にぬかづいて報国の至誠を誓い、国事に奔走したのである。
2015/08/14 Fri 21:15 [No.94]
杉さんぼく
近藤勇、号東州の知られざる和歌。
殷箕子
かくれても臣てふ道を
つくしたる
ことはしらべの名にのこりけり勇
「勇は平素の対談には声の低い人で笑窪があって、なつかしい人であったといふ。誰に学んだか知らぬが、うたも作り詩も作った。字を得候、号を東州と云うたやうである。京都にあって…夜は遅くまで書を読み、字を習ったといふ。…京都に上がる前には拙く且稜があったが、上手くなり且圓くなった。…」(医師で国文学者・井上通泰解説)
ついでながら、意外な教養人だった近藤勇の和歌、親族宮川隆司氏鑑定済みの和歌を二首紹介しておきます。
夢
ぬばたまのゆめにてみれば
もろこしも
枕のやまのあたりなりけり
勇
小楠公
よしの山花と匂はむあづさ弓
引かへさじのきみがことの葉
勇(宮川照司所蔵)
湊川神社まで詣でた龍馬といい、小楠公を詠う尊王だった近藤勇といい、やはりあの時代には南朝の微臣楠氏は想われていたのですなあ。
2015/09/07 Mon 08:20 [No.113]
京都歴史研究会代表
昔の教科書では
建武の中興でしたが
現在は…
建武の新政と教えてますね。
中興の意味が判りにくいのかも知れません。
2015/09/08 Tue 07:35 [No.114]
杉さんぼく
今や国文化財となった京博の有名な、「世の人はわれをなにとも…」の詠草ですが、共に載る「湊川にて 月と日のむかしをしのぶ みなと川 流れて清き菊の下水」の和歌は、龍馬がまだ湊川神社(明治5年創建)ではなかった頃の湊川に詣で、菊水紋を見てこの歌を大楠公墓碑の墓前に捧げました。
菊の下水とは、後醍醐天皇から下賜された菊水の家紋を持つ楠正成に関連するのは間違いありません。
湊川の水、即ち、楠正成が菊の御紋の下に働いた故事に倣い、幕末維新の時代までその志が清く流れている、自分にももちろんそんな菊水が流れている、我がなす志ざしもまたそうだ…祖母は五代目直澄の妻で、父直足は万葉学者鹿持雅澄門下でもあってか、土佐南学和歌学が、この龍馬の和歌に吐露されています。
確かに龍馬は、湊川の「嗚呼楠子之碑」の前に立っていたのです。
ちなみに、その前史たる真木保臣は嘉永5年(1852)5月25日の楠公祭に際し、「かかる身になりてさこそと思ふ哉 たぐへて見んは畏かれども」
と歌を残しています。
萬延元年(1860)5月25日のその日その時には、「平保臣清酌庶羞の奠を以て謹みて楠公の神霊を祭る…」と墓前に酒と美味を供えて楠正成公の神霊を祀り、祭文を捧げてもいます。
残念ながら、安政5年(1858)土佐来訪の水戸藩士住谷寅之助をして龍馬を、「撃剣家、事情迂闊、何モ不知トゾ…」と記しています。
この時期の龍馬は江戸修行時代を終えて帰高していました。
龍馬24歳、真木保臣46歳、まだ思想的には若く幼い。
むべなるかな。
2015/10/06 Tue 06:31 [No.144]
藤原改新
大阪阿部野にある阿部野神社の御祭神は、北畠顕家と『神皇正統記』を著した父の准三后北畠親房である。北畠顕家は建武の新政下において、義良親王を奉じて陸奥国に下向した。足利尊氏が叛したため西上し、新田義貞や楠木正成らと協力してこれを京で破り、九州に追いやった。やがて任地に戻るも、尊氏が再挙して南北朝が分立するに及び、再びこれを討とうとして西上し、鎌倉を陥落させ、上洛しようと進撃した。その後、伊勢、大和などを中心に北朝軍相手に互角に戦い一進一退を繰り返したが、遂に和泉国堺浦 石津に追い詰められ、奮戦の末に討ち取られて戦死した。延元3年5月22日、21歳。
北畠顕家は若年ながらも文武両道に優れた人物である。何よりも現実を見つめ、後醍醐帝を諌めた諫奏文『顕家諫奏文』は名文書として有名である。建武の親政における天皇の政治の矛盾、一部側近らの横暴を厳しく批判していた。
又、「北畠鎮守府将軍起つ」の知らせに奥州の土豪、武士が続々参軍、白河の関を越える時には総勢10万余騎の大軍となり、疾風枯葉まく進撃を続けた。顕家軍の先頭には北畠氏の定紋「割菱」と親房が孫子の兵法を学んで作り、京都から送った「風林火山」の旌旗が風にはためいていた。
疾如風徐如林侵
掠如火不動如山
兵法書『孫子』にある「疾きこと風の如く 徐かなること林の如し 侵掠すること火の如く 動かざること山の如し」この軍旗と菱の定紋は戦国の名将、武田信玄率いる甲州軍団の専売特許ではない。約260年も前に顕家の率いる、北畠軍団が掲げていたのである。
2015/10/16 Fri 07:35 [No.166]