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京都歴史研究会代表
先祖は牧野 さま!
書き込み有り難う御座います
6/15に書いて下さってましたのに、返信が大変遅くなり失礼致しました。
『歴研記録』というタイトルの創刊号を昨年の9月に出しております。
現在の歴史研究会活動は、2〜3ヶ月ごとの講演会の開催と、会員同士の歴史勉強に励んでいるところです。
会報誌に関しては、全会員さんと相談の上、二号発行を考えていきたいと思います。
2016/06/26 Sun 15:45 [No.270]
京都歴史研究会代表
確かに
雲浜と書いてありますね。
こんなに分かりやすい雲浜の文字。何で間違えたのでしょうか?
聴く術(すべ)もないですけどね
2015/11/29 Sun 01:52 [No.202]
京都歴史研究会代表
mail
さて現在、周囲は廃材置き場のような少し不気味な雰囲気で、「築山之墓地」[正徳□年 利栄信女 三月十五日]と刻まれた石碑(墓)や、五輪塔の残欠石が置かれている。
江戸時代の文化年間(1804〜1817)の天皇陵調査では、
この塚は、後朱雀天皇・堀河天皇・二条天皇の三人の天皇陵の候補地とされ、
『文化山陵図』にも、この塚は描かれていて、
当時、塚は田畑の中にあって、盛り上がった墳丘の周りには水をたたえた溝があり、更に塚上には、大きな樹木があったことが分かる。
その後、天皇陵調査では・・・、衣掛(懸)塚は候補にも挙がらず、陵墓参考地にも成らず、
見離されている。
[聖域]扱いされても良い塚であったし、当時の貴重な遺構の可能性もあるが、
現在は、民家裏の瓦礫が積み上げられ、荒れ果てた場所なので
民家が立ち退きや、新たな建物が建てられるならば、
いつ破壊されてもおかしくない残念な塚なのである
私が衣掛(懸)塚に行ったのは、 2009年と2013年だったが、一昨日2015年11月11日、久し振りに衣掛(懸)塚を確認しに行って来た
一段と無残になり、神木の注連縄は無くなり、石碑は倒れていた
開発破壊だけは免れていたの
だが・・・
救いは、塚を囲む4〜5軒の民家の一人の女性が、掃き掃除をしていた事。
但し、女性にお尋ねしたところ、この塚を御守りしている人は誰一人いないと云う。
★参考文献新修京都叢書第三巻/黒川道祐著/(株)光彩社
図説天皇陵/別冊歴史読本52 2003年7月12日発行
(株)新人物往来社
2015/11/13 Fri 08:15 [No.196]
京都歴史研究会代表
mail
★京都市北区大徳寺の周辺・・
紫野(むらさきの)や北西の紫竹(しちく)は、
源義朝の別邸があって、常盤御前
が住んでいたという伝承により、源義経や母
常盤御前ゆかりの史跡が多い
。
船岡山の東麓(北大路通から三筋目)西に、建勲北中通り、
北区紫野下築山町に・・・
『常槃井(ときわい)』がある
常槃井は、『常盤化粧井』とも呼ばれ、常盤御前が化粧に用いた井戸と云われている。
現在、井戸は涸れているが、
「常槃井」と記した自然石が
背後に建ち、貼り紙も最近はられた。何故か…常盤の漢字が違っている?
しかしこれは、私が調べた
江戸時代の本雍州府志によると…
常盤御前の[常盤]ではなく、
鎌倉時代前期の公卿で西園寺公経の息子/西園寺 實氏(さいおんじ さねうじ)の…
通称/常盤井相國の事である事が分かった。
(常盤井宮(ときわいのみや)は、鎌倉時代から室町時代にかけて存在した宮家。)
だが、世間や観光本、ネット上も全て、常盤御前の井戸と伝わっている
(西洞院一条の[常盤井辻子]も常盤井相國の邸宅跡
)
さて、本題に入ろう
その「常槃井」の横から民家奥へ、細い路地を入っていくと、瓦礫が積み上げられた丸い塚がある。
常盤御前の着物が掛けられたという伝承から
『衣掛塚』『鏡塚』と呼ばれているこの伝承も、最近の後付けである
★数多くの史跡案内の衣掛塚ブログを見たが、
殆どが、[ころもかけづか]と呼んでいる
それは誤りで実際は、
[きぬかけづか]と読む。
江戸時代の地誌が、『絹懸塚』と記載されていたからである
(山州名跡志/巻之七[新修京都叢書]15、P.206、臨川書店、1994年二冊)
2015/11/13 Fri 08:10 [No.195]
京都歴史研究会代表
タイトルが 藤野斎でなく
藤木斎になってます。
誤植の訂正の仕方を知りたいですね〜。
2015/10/08 Thu 16:12 [No.149]
京都歴史研究会代表
京都歴史研究会を応援下さり、代表とも交流があった
(水戸史学会&東京龍馬会)所属
のんた樸斎さんが
一週間前9月24日(木)に急逝されました。
多分、脳梗塞が原因かと思われます。詳細は不明です。
天狗党の一人の
御子孫でもありました。
奇しくも、9月24日は
1877年(明治10年)
西郷隆盛、 満49歳没
桐野利秋、 満38歳没
村田新八、 満40歳没
西南戦争では、西郷の自決を見届けた後も、最後まで抗戦。戦死した日と、同じでした。
合掌
2015/10/01 Thu 23:28 [No.143]
京都歴史研究会代表
その理由を遡るならば、
鳥取城主池田氏が、切支丹信者であったことから…
その博愛の精神が生まれていることが分かる。
信仰は自由であると保証していたのだ。
※池田家は、池田信輝に始まった切支丹の流れを組む家柄である。
(※寛永9年(1632)から明治2年(1869)の廃藩置県までの約240年間、鳥取城主につき、因幡.伯耆32万石を治めた池田光仲とその子孫12代を鳥取(因州)池田家と呼び、鳥取藩(因州藩)の藩祖としている。
尚、光仲は徳川家康の曾孫にあたり、徳川幕府と深い関係から、藩主の名前は時の徳川将軍の名前から一字を貰い付けられている。(例/3代将軍:徳川家光→初代藩主:池田光仲))
池田家歴代の入信†は西洋の優れた物資.精神文化をいち早く取り入れ、一国の文化を高め、富国強兵を図った名君による思慮で、
結果、西国の将軍と勝せられるまでになっていた。
そんな、鳥取池田藩だからこそ、殉教者皆無、ゼロの
全国的に稀有の素晴らしい事実を生み出したのであった。
参考文献切支丹灯籠の研究/松田重雄著/(株)同信社発行
2015/09/27 Sun 19:33 [No.142]
京都歴史研究会代表
殺伐とした下克上の戦国時代、日本に伝えられたキリスト教は、精神文化面と物質文化の上に大きな影響を与えた。
その後、慶長17年(1612)春、
本多正純の与力:岡本大八と肥前(長崎県)の大名:有馬晴信の贈収賄事件が発覚し、両者が切支丹(キリシタン)であり、また徳川家康の旗本などにも信者がいることが判明岡本大八は火刑
。
この[岡本大八事件]を契機に、幕府は同年8月6日、
「伴天連(バテレン)門徒御制禁也。若有違背之族者忽不可遁其罪科事」と
全国的にキリスト教†信仰禁止を布告した。
継いで、慶長18年(1613)12月23日、僧:崇伝により伴天連追放文が起草され、神道.仏教.儒教の三教一致思想からなる「神国思想」によるキリスト教†排撃が宣言された。
慶長19年(1614)、切支丹大名:高山右近ら148名は長崎からマカオ、さらにマニラへ追放され、また各地で切支丹弾圧が始まった。
元和5年(1619)には、京都で52人、長崎で58人が火刑斬首
に処せられた(>_<)
元和8年(1622)露顕者は死刑、隠した者は同罪とした。
寛永3年(1626)から5年間、長崎奉行は切支丹を温泉岳の湯壺に投じ↓、その後も火刑
、穴吊しの刑等々、徹底的に禁教政策を行った!
寛永14年(1637)島原一揆がおこったが、翌年には訴人に対して褒美が渡され、以後、値上げをし、水も漏らさぬ体制を固めた。
このように禁教政策の両法令は、世界に類い希な残酷な取締りを続けていった!
さてこの時代、各藩では毎年次々に切支丹受刑者を出したが、何故か、鳥取藩だけは明治維新まで、一人の斬首者、磔刑者を出さなかった!
表向きは、取り調べ投獄はしたが、いずれも釈放して、入獄中も家族に扶助米.銀子を与え援助している。
これらは見逃せない事実である!
2015/09/27 Sun 19:29 [No.141]