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衣懸塚(きぬかけづか)A

京都歴史研究会代表 mail

さて現在、周囲は廃材置き場のような少し不気味な雰囲気で、「築山之墓地」[正徳□年 利栄信女 三月十五日]と刻まれた石碑(墓)や、五輪塔の残欠石が置かれている。

江戸時代の文化年間(1804〜1817)の天皇陵調査では、

この塚は、後朱雀天皇・堀河天皇・二条天皇の三人の天皇陵の候補地とされ、

『文化山陵図』にも、この塚は描かれていて、
当時、塚は田畑の中にあって、盛り上がった墳丘の周りには水をたたえた溝があり、更に塚上には、大きな樹木があったことが分かる。

その後、天皇陵調査では・・・、衣掛(懸)塚は候補にも挙がらず、陵墓参考地にも成らず、
見離されている

[聖域]扱いされても良い塚であったし、当時の貴重な遺構の可能性もあるが、

現在は、民家裏の瓦礫が積み上げられ、荒れ果てた場所なので

民家が立ち退きや、新たな建物が建てられるならば、
いつ破壊されてもおかしくない残念な塚なのである

私が衣掛(懸)塚に行ったのは、 2009年と2013年だったが、一昨日2015年11月11日、久し振りに衣掛(懸)塚を確認しに行って来た

一段と無残になり、神木の注連縄は無くなり、石碑は倒れていた

開発破壊だけは免れていたの
だが・・・

救いは、塚を囲む4〜5軒の民家の一人の女性が、掃き掃除をしていた事。
但し、女性にお尋ねしたところ、この塚を御守りしている人は誰一人いないと云う。

★参考文献新修京都叢書第三巻/黒川道祐著/(株)光彩社

図説天皇陵/別冊歴史読本52 2003年7月12日発行
(株)新人物往来社

2015/11/13 Fri 08:15 [No.196]