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京都歴史研究会・代表
<京都歴史研究会10月講演会>
【安政の大獄】発端から悲劇の結末へ─
◆演目:水戸藩京都留守居役 鵜飼吉左衛門、幸吉父子と安政の大獄について
◆日時:平成28年10月15日(土)
13時〜16時30分
◆会場:京都アスニー/3階
第2研修室
京都市中京区聚楽廻松下町
◆入場無料、予約無し
先着60名までは資料配布あり
◆講師:鵜飼 裕(鵜飼吉左衛門の玄孫)
ゲスト:梅田昌彦(梅田雲浜の玄孫・元大阪芸大教授)
◆内容:京都留守居役の鵜飼吉左衛門・幸吉父子が、孝明天皇から水戸藩宛の勅書を受け取りました。(戊午の密勅)
内容は幕政改革や、大老・井伊直弼排斥を促すものでした。
幕府を超えて直に水戸藩に下された為、これが引き金となる大粛清(安政の大獄)により、鵜飼父子は死罪となりました。
何故、鵜飼父子は死なねばならなかったのか!?
その無念の死の真実を、157年後の現代、御子孫の鵜飼 裕さんが訴えます。
◆補足解説:鎌田泰弘(安政の大獄の原因、戊午の密勅の重要人物[日下部伊三治]の話)
◆主催:京都歴史研究会
2016/09/16 Fri 07:08 [No.277]
京都歴史研究会・代表
歴史研究会の機関紙
「歴研記録」の二号発行が
年内は中止になりましたこと、お詫びとともにご報告致します。
会員の皆様に募っておりました文章は、しばらくあたためて保存して頂ければ幸いです。
二号は、その会員様の文章と講演会レジュメと活動報告等々を纏めて、同人誌のような機関紙として、三年以内には発行したいと思います。
そして、その「歴研記録・二号」は世間に認めてもらいたい等の野望も持たず、学術書でもない機関紙にします。
ただ歴史好きな者が集まって、拙い文章でも、「想像と真実」「供養と顕彰」が詰まった輝く内容を目指したいと考えています。
平素より誠にお世話になっておりますが、これからもどうぞ宜しくお願い致します。
そして管理人様、貴重な時間を割いて頂き申し訳御座いませんでした。二号を発行するからには良い物をというお気持ちは十分解っております。
期待に添えませんでしたこと、お詫び申し上げます。
掲示板を作成して下さり、本当に有り難う御座いました。
2016/09/15 Thu 22:37 [No.276]
京都歴史研究会・代表
黒船来航を機に日本は開国、鎖国は終わりを告げた。
しかし江戸時代、日本は鎖国をしていなかった。
そんな鎖国令なる制度もなかったと、教科書に掲載の江戸幕府の外交政策の『鎖国』の用語は、
『士農工商』と同じく、死語となり、消えることになるかも知れない。
「太平の眠りを覚ます
上喜撰(じょうきせん)
たったしはいで
夜も眠れず」
嘉永6年6月3日(陽暦1853'7'8)、米国東印度艦隊(ペリー艦隊の黒船)来航!
この時、幕府は日本人の海外渡航を禁じ、
@朝鮮(対馬藩が交渉)
Aオランダ,中国(長崎出島が窓口)
Bアイヌ(松前藩が交渉)
C琉球(薩摩藩が交渉)
以外の海外と交渉しない、先祖伝来のシキタリ『祖法』だとして、ペリー艦隊を追い返そうとした。
だが、この祖法は、以前の教科書に記載されていた江戸時代の初めからあった鎖国令制度ではなかった。
実は、寛政の改革で有名な、
老中:松平定信が、寛政4年(1792)に来航したロシア船へ対応した『祖法』だったのである
祖法
◇通信なき国の船は召し取り、打ち払う国法が古くからある。
◇通信なき国王からの国書は往復を許さない原則がある。
『鎖国』という言葉も、享和元年(1810)オランダ商館の医師ケンペルの書いた日本誌という本が訳された時(オランダ通詞:志筑忠雄訳)
『鎖国論』と通称で名付けられたに過ぎなかった。
確かに江戸時代後半に一部の国に対して、鎖(とざ)していた時期はあったが、
鎖国なる言葉、制度もなかった。
参考文献:日本の歴史/新・真実発売:ファミマ・ドット・コム
2016/08/28 Sun 21:21 [No.274]
京都歴史研究会・代表
歴研記録・第2号発行の件について、会員さんらと話し合い、承諾を得ましたので、
2016年内か来年早々発行することに決まりました。
まずは全会員の歴史文章・感想文を募ります。
ですから2号は盛り沢山の内容になると思います。
では、経過はまた報告致します。
2016/07/19 Tue 07:14 [No.272]
京都歴史研究会・代表
<京都歴史研究会7月講演会>をご案内致します。
◆演目:インパール作戦の真実
◆日時:平成28年7月24日(日)
13時〜16時30分
◆会場:河原町五条下ル
ひとまち交流館 京都 3階第5会議室
◆入場無料、予約無し
先着60名までは資料配布あり
◆ゲスト:谷 祥二(欠席の場合あり)
※予備講演:杉さんぼく
◆司会進行:岸野亮哉(僧侶写真家)
第二次大戦で最も悲惨な戦場といわれたインパール作戦。
京都府・陸軍第15師団として
作戦に参加し、補給なき過酷な戦いから、わずかに生き残った兵士がいました。
その生き証人の一人、当時23歳の谷祥二さん(96歳)が、戦後76年目の今、京都の地から悲惨な戦争の真実を語ります。
貴重な歴史証言を未来に伝えるために…。
是非、皆さまの心にご記録下さい。
※谷さんの体調を考慮の上、出演中止の場合、杉さんぼくの講演に変更します。
◆主催:京都歴史研究会
2016/07/19 Tue 07:05 [No.271]
京都歴史研究会・代表
ところで「朝茶会」の茶頭(さどう)をしたのか?。
信長の三人の「御茶頭」のうち、今井宗久、津田宗及の二人はその日は堺にい、賓客の徳川家康、穴山梅雪一行の接待をしていた。
そして不思議なことに、残る一人の千宗易は、何故か暫く行方不明になる。
そこで茶頭として考えられるのが、長谷川宗仁(そうにん)である。長谷川宗仁が「本能寺茶会」に居合わせた可能性は高い。信長に仕えながら「本能寺の変」を羽柴秀吉にいち早く通報したというのが通説化しつつある。(後年は秀吉の寵臣になる)と
そして、博多の豪商の二人島井宗室、神谷宗湛を茶会に招く仲介役として浮かぶのが千宗易である。
5月28日少庵(千宗易の養子)の宛てに出した千宗易直筆の手紙が残っている。「…上様御上洛との由、承った。播州(秀吉)はどうなっているのか?情報わかり次第、早々に連絡請う。」…と。
書状を少庵に出して、本能寺茶会を千宗易が知らないわけがない。。
本能寺茶会を勧めていた宗易は、6月10日前後に尼崎で中川清秀(茨木城主)と会って、漸く、消息を表す事になる。
2016/04/23 Sat 17:03 [No.262]
京都歴史研究会・代表
博多の豪商:島井宗室が5月中旬から京都に滞在していたが、6月初旬博多に向けて京都を立つと、信長に知らされた。ところが、これこそ信長を京都におびき出すための「罠」だった。
援軍を要請する羽柴秀吉の早馬により「天下布武」達成の最後の決戦、西国制覇のため自らも軍勢を率いての出陣を決意したところ、明智光秀、筒井順慶の軍が上洛する前に一足早く京都に赴き、ぜひとも「楢柴肩衝」の話だけはつけておきたい信長だった。
当時、茶会を開いたり、茶道具収集は武士の権力を表すステータスであったし、無論、政治に茶道を利用した信長は(御茶湯御政道)
この島井宗室が持つ楢柴肩衝を手に入れたかった。
そのため千宗易から島井宗室に連絡をさせ、「六月朔日なれば、上様の御館(本能寺)に参上仕る」との確約を得たのであろう。
こうして信長は安土城から38点の「大名物茶器」を運んで「楢柴肩衝」の茶入欲しさに5月29日の大雨の中、無防備な形で、本能寺に入ってしまったのだ。(38点の「大名物茶器」に関して、「本能寺の変」より11年後の文禄二年(1593)、堺の茶人の宗魯によって筆録「仙茶集」の中に「島井宗室宛て長庵の道具目録」あり)
この初夏の茶会は、当時の慣習としては当然「朝茶会」であった。島井宗室、神谷宗湛たちが茶道具の名器を十分湛能してから、信長へ表敬訪問に来た近衛前久など公卿41名と商人がやってきた。(これは山科言経日記に、関白以下大臣、前職までの公卿名が記され、宮廷がそっくりそのまま本能寺に移動したかのような様子が判る。)
2016/04/23 Sat 16:47 [No.261]
京都歴史研究会・代表
<5月歴史講演会のご案内>
◆平成28年5月15日(日)14:00〜
◆場所:京都市中京区西洞院三条下ル柳水町75
◆会場:京の黒染屋/馬場染工業(株)TEL075-221-4759
◆演目:名水が語る京都の歴史
〜お茶と貴人の名水を中心に〜
◆講師:水文化研究家,カッパ研究会世話人
鈴木 康久(みちひさ)氏
◆柳の水説明:京都歴史研究会 代表 吉平 裕美
※馬場染工業の建つ西洞院三条下ルの地は、崇徳上皇、千利休、織田信雄、加藤清正…数多くの名だたる人物が関わった場所で、今も名水「柳の水」が湧き出ています。
講演会後は、その歴史人物らに思いを馳せながら、彼らも飲んだ同じ「柳の水」を、たっぷり味わって帰って頂きたいと思っています。
宜しければ、お立ち寄り下さい。
主催:京都歴史研究会
http://mb1.net4u.org/bbs/1109/article/id1
連絡(5月のみ使用)
:09038488284
※次回講演会の予告
平成28年7月24日(日)13時〜
ひとまち交流館 3階第5会議室
―インパール作戦の敗走と、
鳥羽伏見の戦いの同一性―
講演:谷 祥二(作戦生存兵士96歳)
予備講演:杉さんぼく
2016/04/23 Sat 16:12 [No.260]