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京都歴史研究会・代表
ところで「朝茶会」の茶頭(さどう)をしたのか?。
信長の三人の「御茶頭」のうち、今井宗久、津田宗及の二人はその日は堺にい、賓客の徳川家康、穴山梅雪一行の接待をしていた。
そして不思議なことに、残る一人の千宗易は、何故か暫く行方不明になる。
そこで茶頭として考えられるのが、長谷川宗仁(そうにん)である。長谷川宗仁が「本能寺茶会」に居合わせた可能性は高い。信長に仕えながら「本能寺の変」を羽柴秀吉にいち早く通報したというのが通説化しつつある。(後年は秀吉の寵臣になる)と
そして、博多の豪商の二人島井宗室、神谷宗湛を茶会に招く仲介役として浮かぶのが千宗易である。
5月28日少庵(千宗易の養子)の宛てに出した千宗易直筆の手紙が残っている。「…上様御上洛との由、承った。播州(秀吉)はどうなっているのか?情報わかり次第、早々に連絡請う。」…と。
書状を少庵に出して、本能寺茶会を千宗易が知らないわけがない。。
本能寺茶会を勧めていた宗易は、6月10日前後に尼崎で中川清秀(茨木城主)と会って、漸く、消息を表す事になる。
2016/04/23 Sat 17:03 [No.262]