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京都歴史研究会・代表
西国街道は早くより交通が盛んな街道で、織田信長も度々通っている。
天正6年(1578)荒木村重が叛いた時や、それ以前にも石山本願寺合戦などの関係で通った。
浅野内匠頭は4回、茨木城主中川清秀の子孫の中川修理大夫も墓参りなどに利用していた。
江戸時代、中国、四国、九州方面の殿様(大名)が、郡山宿本陣を元禄9年(1696)から明治3年(1870)の175年間に、休憩1360回、参勤交代等の宿泊に2040回利用したと宿帳に記録されている。
ちょっと面白い話で、風呂を本陣ではなく、自分専用の風呂を持参する殿様がいたと云う。
殿様が使った箸や、便所の
上草履などは、出発されたら直ぐに折ったり、鼻緒を切って庶民が使わないようにした。
殿様が使われた物を庶民が使うと、勿体なくて手や足が腫れると云われた。
宿泊が殿様の奥方や姫
の場合は、女子で警護され、男子は一切近付け無かった。
但し、60歳以上は男性とは認め無かったようで(笑)、夜は彼ら
が警護した。
姫らは道中が退屈なので、ペットの犬や猫
を連れて来たと云う。
それらは非常に良く躾られていたらしい。
さて、他に宿帳からわかるエピソードとして…
・公道を避けお忍びで来た大名・親の死を知り明石から18里
(約72km)の道を1日で歩いた人・見舞いの途中で国元へ引き返 したワガママな大名など…様 々な事が起っている。
文久3年(1863)4月13日、芸州御家中、丹羽隆次郎良次の切腹事件もあった。
原因は奥方と奥女中の諍い(いさかい)の詰め腹を斬らされとか。
但し、宿帳には切腹と記載されたが、墓地借用証文には、急病吐血により相果てたとなり、武士の温情ある処置が成されている。
何故なら、当時、切腹となれば少なくとも減禄
悪くすれば、家名断絶となるからであった
昭和になり、郡山宿集落の共同墓地と接する郡山団地を造成中、偶々、地中から自然石の墓石が発見された。
その時、立会人の前田建設の○氏が、
「これは切腹した人の墓だ」と叫んだと伝わっている。
その後、自然石の墓石は茨木市の朝日寺(ちょうにち寺)で丁寧に供養され、毎年彼岸と盆には花が手向けられている。
参考文献:椿の本陣/17代本陣当主,梶 洸(かじ たけし)著/光陽書房発行
2015/11/01 Sun 20:05 [No.185]
京都歴史研究会・代表
のんた樸斎氏の資料より
◆天狗党の乱、幕府へ投降組
元和甲子之変 天狗諸生之乱参加者氏名事蹟抄より
天狗派
堀田相模守殿佐原陣屋ヨリ水野肥後守御預替
『打越貞助』
↑回天忠魂塔碑に名前がないので、刑罰として、閉門か追放か送り寄せ。
◆尊王攘夷思想の大日本史編纂『打越直正(樸斎)』
貞享3年(1686)、那珂湊船手方[米川秀勝]の子として誕生。14歳の時、光圀の抜擢で格留付列史館見習となり、三宅観瀾に師事。
正徳5年(1715)、[打越家]の養子となって家督を継ぎ、享保12年(1727)には小納役に進み、
彰考館総裁を兼ねた。
世に出回ってる7割ぐらいは、安積澹泊(水戸を代表する儒学者/水戸黄門の格さんモデル)の死を持って「大日本史編纂が低迷する」と記載されてるが、
水戸史学会では樸斎の死を持って低迷するとある。
この偉大な打越直正(樸斎)と、天狗党の一人:打越貞助が、
2015年9月25日に急逝された
「のんた樸斎氏」のご先祖に
あたる。
ゆえに、のんた樸斎氏は、幕末史に詳しく、水戸史学会会員となり、歴史を大日本史編纂のようにリアルな活動で記して行ったのだと思う。
2015/11/01 Sun 05:54 [No.184]
京都歴史研究会・代表
それでも、遥か京都を目指して天狗党は、当時京都にいた一橋慶喜(斉昭の七男。後の15代将軍)の援助で、朝廷に尊王攘夷を訴える為、元:家老の[武田耕雲斎]を総大将とし(11月1日)、1000名余りの大部隊で出発した。
だが、天狗党の後を、幕府の追討軍が追いかけていた。
やがて追討軍に包囲されて、
耕雲斎ら823人が加賀藩に投降した(12月20日)。
慶応元年(1865)1月、敦賀(つるが)の鯡倉に監禁され、
2月、大量処刑が行われた。
■斬罪352人。
・武田耕雲斎、元治2年2月4日(1865年3月1日))没
・藤田小四郎、元治2年2月23日(1865年3月20日)※4月7日に慶応と改元)敦賀の海岸で刑死。享年24歳
■遠島137人。
■水戸藩渡し130人。
安政の大獄でも、死罪となったのは8人だけだったが、この大量処刑により、死体は山となった
当時の様子を薩摩藩の大久保利通は日記に「このむごい行為は、幕府が近く滅亡することを自ら示したものである」と記している。
2015/11/01 Sun 05:49 [No.183]
京都歴史研究会・代表
◆安政7年3月3日(1860)
桜田門外の変
大老:井伊直弼を襲撃殺害した事件。
◆文久2年1月15日(1862)
坂下門外の変
老中:安藤信正を襲撃した事件。安藤は負傷
↑上記いずれの事件も、水戸浪士が中心に引き起こした事件だ。
全国で尊王攘夷運動が激しくなる中、藤田小四郎(東湖の4男)を中心とする水戸藩の尊王攘夷の若手急進派が決起
元治元年(1864年)3月27日、水戸藩の尊王攘夷派による筑波山挙兵とそれを契機に争乱が起こって行く。 攘夷の実行を幕府に迫り、筑波山(茨城県)で兵を挙げたのだ。
この水戸藩の尊王攘夷派は
『天狗党』と呼ばれた。
水戸藩こそが、尊王攘夷思想の発信地。
2代藩主:徳川光圀が始めた歴史書「大日本史」の編纂を通じて形成されたのが尊王攘夷思想で、1829年に藩主となった9代藩主:徳川斉昭の時代だった。
斉昭は学者:藤田東湖(とうこ/1806〜安政2年10月2日(1855.11.11)午後10時頃に発生した安政の大地震没)他、下級の武士を登用し、質素倹約・海防と軍備の充実・藩校弘道館の設置等々、積極的な藩政の改革を行った。
やがて、ペリー黒船来航から斉昭は幕府の政治にも関わるようになり、斉昭と東湖は、全国の尊王攘夷派に影響を与えていった
。
そののち、東湖亡き後を継いだ息子の藤田小四郎(1842年-元治2年2月23日(1865年3月20日))ら天狗党が起こした筑波山挙兵は失敗に終わった
この天狗党の行動は、皆から無謀と思われた。
何故なら、倒すべき江戸幕府は地理的に近く、逆に、頼るべき京都は遠過ぎたからだ。
2015/11/01 Sun 05:48 [No.182]
京都歴史研究会・代表
早、来月のフォーラムとなりました。
ハガキや メール連絡は
新聞社以外は済ませました。
台風が来なければ良いですね。
2015/08/06 Thu 08:31 [No.88]