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のんた樸斎氏の資料より

京都歴史研究会・代表

のんた樸斎氏の資料より
◆天狗党の乱、幕府へ投降組
元和甲子之変 天狗諸生之乱参加者氏名事蹟抄より
天狗派
堀田相模守殿佐原陣屋ヨリ水野肥後守御預替
『打越貞助』
↑回天忠魂塔碑に名前がないので、刑罰として、閉門か追放か送り寄せ。

◆尊王攘夷思想の大日本史編纂『打越直正(樸斎)』
貞享3年(1686)、那珂湊船手方[米川秀勝]の子として誕生。14歳の時、光圀の抜擢で格留付列史館見習となり、三宅観瀾に師事。
正徳5年(1715)、[打越家]の養子となって家督を継ぎ、享保12年(1727)には小納役に進み、
彰考館総裁を兼ねた。

世に出回ってる7割ぐらいは、安積澹泊(水戸を代表する儒学者/水戸黄門の格さんモデル)の死を持って「大日本史編纂が低迷する」と記載されてるが、

水戸史学会では樸斎の死を持って低迷するとある。

この偉大な打越直正(樸斎)と、天狗党の一人:打越貞助が、

2015年9月25日に急逝された
のんた樸斎氏」のご先祖に
あたる。

ゆえに、のんた樸斎氏は、幕末史に詳しく、水戸史学会会員となり、歴史を大日本史編纂のようにリアルな活動で記して行ったのだと思う。

2015/11/01 Sun 05:54 [No.184]

Re: のんた樸斎氏と天狗党の悲劇

京都歴史研究会・代表

それでも、遥か京都を目指して天狗党は、当時京都にいた一橋慶喜(斉昭の七男。後の15代将軍)の援助で、朝廷に尊王攘夷を訴える為、元:家老の[武田耕雲斎]を総大将とし(11月1日)、1000名余りの大部隊で出発した。

だが、天狗党の後を、幕府の追討軍が追いかけていた

やがて追討軍に包囲されて、
耕雲斎ら823人が加賀藩に投降した(12月20日)。

慶応元年(1865)1月、敦賀(つるが)の鯡倉に監禁され、
2月、大量処刑が行われた。
■斬罪352人
・武田耕雲斎、元治2年2月4日(1865年3月1日))没
・藤田小四郎、元治2年2月23日(1865年3月20日)※4月7日に慶応と改元)敦賀の海岸で刑死。享年24歳

■遠島137人。
■水戸藩渡し130人。

安政の大獄でも、死罪となったのは8人だけだったが、この大量処刑により、死体は山となった

当時の様子を薩摩藩の大久保利通は日記に「このむごい行為は、幕府が近く滅亡することを自ら示したものである」と記している。

2015/11/01 Sun 05:49 [No.183]

のんた樸斎氏と天狗党の悲劇

京都歴史研究会・代表

◆安政7年3月3日(1860)
桜田門外の変
大老:井伊直弼を襲撃殺害した事件。

◆文久2年1月15日(1862)
坂下門外の変
老中:安藤信正を襲撃した事件。安藤は負傷

↑上記いずれの事件も、水戸浪士が中心に引き起こした事件だ。

全国で尊王攘夷運動が激しくなる中、藤田小四郎(東湖の4男)を中心とする水戸藩の尊王攘夷の若手急進派が決起

元治元年(1864年)3月27日、水戸藩の尊王攘夷派による筑波山挙兵とそれを契機に争乱が起こって行く。 攘夷の実行を幕府に迫り、筑波山(茨城県)で兵を挙げたのだ

この水戸藩の尊王攘夷派は
『天狗党』と呼ばれた。

水戸藩こそが、尊王攘夷思想の発信地。
2代藩主:徳川光圀が始めた歴史書「大日本史」の編纂を通じて形成されたのが尊王攘夷思想で、1829年に藩主となった9代藩主:徳川斉昭の時代だった。

斉昭は学者:藤田東湖(とうこ/1806〜安政2年10月2日(1855.11.11)午後10時頃に発生した安政の大地震没)他、下級の武士を登用し、質素倹約・海防と軍備の充実・藩校弘道館の設置等々、積極的な藩政の改革を行った。

やがて、ペリー黒船来航から斉昭は幕府の政治にも関わるようになり、斉昭と東湖は、全国の尊王攘夷派に影響を与えていった

そののち、東湖亡き後を継いだ息子の藤田小四郎(1842年-元治2年2月23日(1865年3月20日))ら天狗党が起こした筑波山挙兵は失敗に終わった

この天狗党の行動は、皆から無謀と思われた。
何故なら、倒すべき江戸幕府は地理的に近く、逆に、頼るべき京都は遠過ぎたからだ。

2015/11/01 Sun 05:48 [No.182]

のんた樸斎さん急逝

京都歴史研究会代表

京都歴史研究会を応援下さり、代表とも交流があった

(水戸史学会&東京龍馬会)所属
のんた樸斎さんが

一週間前9月24日(木)に急逝されました。

多分、脳梗塞が原因かと思われます。詳細は不明です。

天狗党の一人の
御子孫でもありました。

奇しくも、9月24日は
1877年(明治10年)
西郷隆盛、 満49歳没
桐野利秋、 満38歳没
村田新八、 満40歳没
西南戦争では、西郷の自決を見届けた後も、最後まで抗戦。戦死した日と、同じでした。

合掌

2015/10/01 Thu 23:28 [No.143]

Re^2: 大河ドラマ『花燃ゆ』便乗書籍に遺憾

のんた樸斎

著者からの返信メール
本日、7月23日

のんた樸斎 さま

 拙著をお読みいただき、ありがたく御礼申し上げます。

 「吉田松陰『留魂録』」の内容に関し、
 丁重なご指摘・ご意見を賜り、ありがとうございました。

 編集担当者が不在だったこともあり、
 版元が不適切な対応をした由、本日、
 編集担当者から連絡を受けたので、
 苦情を呈しておきておきました。

 私は前々から、読者の方々から手紙や
 メールがあったときは、私が直接やりとりする
 ので、知らせてほしいとといってあるのですが、
 なかなか、そうしない版元や編集プロダクションが
 増えています。

 今回は、これまでの経緯から、私の見解を
 のんた樸斉さんに転送してもらうよう依頼しました。

 ご質問・ご指摘の件については、そこに
 記させていただきましたので、お目通しください。

 私は、ある月刊誌に「危機管理」をテーマに
 2年以上も連載しており、いずれ、
 単行本化する予定でいますが、本件に関しては、
 メールのやりとりから察するに、
 のんた樸斎さんからの指摘に関する応対姿勢に問題が
 あった節も感じられます。
 つまり、版元の対応は危機管理に失敗したわけで、
 紺屋の白袴のたぐいであり、恐縮至極です。

 今般は、いろいろ貴重なご教示を賜り、
 今後の執筆に活かしていく所存です。

 暑さ厳しい折から、ご自愛くださいますように。

城○○彦
〒○○○−○○○○横浜市○○○○○○○○○○○

2015/07/23 Thu 19:35 [No.51]

Re: 大河ドラマ『花燃ゆ』便乗書籍に遺憾

のんた樸斎

出版社からの返信メール
本日、7月23日

水戸史学会
のんた樸斎

おはようございます。
致○出版社編集部の○○○○でございます。

昨日、『吉田松陰「留魂録」』の著者・城○○彦先生に
のんた樸斉様からのご質問内容を転送し、今朝、下記のご返信が届きました。

城○先生から直接、のんた樸斎様宛てに感謝の意も込めて
別途、ご返信させていただきたい、アドレスを教えてほしい、とのことでしたので、
のんた樸斎様のアドレスをお伝えしてあります。

また、取り急ぎ、今回は下記のメールを送っていただきたいとのことでしたので、
転送させていただきます。

ご査収を賜りますよう、なにとぞよろしくお願い申し上げます。

致○出版社 書籍編集部 ○○○○

水戸史学会
のんた樸斎

◇ご質問の件

このたびは、拙著をご精読賜り、御礼申し上げます。
版元を経由してご質問いただき、ありがとうございました。
以下に、執筆時のことなどをお伝えする次第です。

◆元号については、昭和と平成が変わった時代を知っている
人間として、決して軽く考えて書いてはおりませんが、
ご指摘のような誤解を読んでいただいた方に与えてしまった
とすれば、お詫びするしかありません。

今回、知り合いの編集者の依頼で、他社から出版される
天皇家の本の執筆にかかわりました(ただし、
名前はだしておりません)が、改元については、
古代天皇から今日に至るまで、そのつど悩みました。
できれば、何月何日改元ときちんと書くべきですが、
昭和のように年明け早々に年号が変わる年もあれば、
12月になって変わった年もあり、ややこしいことこの上なく、
紙面の制約上、そうできないこともしばしばです。

改元があった年の年号は文献によってまちまちなので、
松陰本でも、そのつどチェックはしたつもりですが、
紙面の都合上、割愛されるケースが多く見られます。

そういう問題もあるにしろ、今回のご指摘を受け、
今後は重々、気を配りたいと思います、

◇私は「斬首=首を切られた=処刑」として表現したのが、
誤解を招くことになったようです。
しばり首(絞首刑)も含めて「処刑」と現代風に表現したのですが、
改めて考えてみると、現代では「処刑=死刑」ですが、
日本語とみると「刑に処す」と読め、
入牢、遠島も含まれかねない広範な刑のニュアンスが感じられ、
曖昧な日本語ではあります。

のんた樸斎さんが引用している『水戸藩末史料』にもあるように、
「死罪」という罪名もあり、執筆時は、
「斬首」とするか「処刑」とするか「死刑」とするかなど、
ずいぶん悩んだ末に「処刑」としたのですが、
当時は、「処刑」を「刑に処す」と読まれるかもしれない
というところまで深く考えることはなく、
現代語的な意味の処刑として使ってしまいました。

「斬首」とすべきだったかもしれません。
そうしておけば、誤解を生じることもなかったわけで、
以後はそのようにしたいと思います。

「切腹」には処刑によるものと自害によるものがあるので、
これも難しい表現になります。
「斬首」は自分の手ではやらず、司直の手による処刑であり、
切腹には自害もあるので、これもずいぶん迷いました。
きちんと分けて書いた方が明確で、親切かもしれません。

処刑関連では、
「獄門」については、処刑の後、さらし首となるので、
斬首とする書き方も間違いではないと考えたことも、
しばしばです。

いずれにしろ、ご指摘を真摯に受け止め、
今後の執筆の糧としたいと思います。

城○○彦

以上、城○先生からのメールでございます。
なにとぞよろしくお願い申し上げます。

〜 「人間学」を探究して36年 〜
===================================================
株式会社 致○出版社

書籍編集部 ○○○○
===================================================

2015/07/23 Thu 19:27 [No.50]

大河ドラマ『花燃ゆ』便乗書籍に遺憾

京都歴史研究会代表

のんた撲斎氏の投稿にエラーが出ましたので、代理で投稿致します。
以下↓、
7月21日に出版社へメール
貴社の刊行城○○彦氏著
吉田松陰『留魂録』
P233
安政の大獄では、以下の七名が安政六年に処刑された。
鵜飼幸吉八月二十七日獄門
鵜飼吉左衛門八月二十七日斬首
茅根伊予之介八月二十七日斬首
飯泉喜内十月七日斬首
橋本左内十月七日斬首
頼三樹三郎十月七日斬首
吉田松陰十月二十七日斬首
記載されてますが、八名の間違いです。

水戸藩家老の安島帯刀が幕命で切腹というかたちで処刑されてます。
処刑とは刑に服するという意味です。
『水戸藩末史料』
〇水戸藩安島帯刀處置の件
(中略)
水藩安島帯刀始各藩の有志處置せられる件
未八月廿七日有志者御處置
安政の大獄の處置なり
水戸藩
水戸家老 切腹 安島帯刀
死罪 茅根伊豫介
死罪 鵜飼吉左衛門
獄門 鵜飼幸吉
以下は省略します。
P263
○一八六○(万延一)年二月
松陰没後百ヶ日法要
P264
三月
桜田門外の変

記載されてますが、これも誤りです。
一八六○年の三月十七日までは、正確には安政七年です。
翌日、三月十八日に万延と改元します。
私が虚言を発しているわけではありません。
まず、元号については貴社でも発行書籍としてあるかも知れませんが
私の所持本として
所功著
『年号の歴史』〈増補版〉雄山閣出版(平成8年3月20日発行)
米田雄介編
『歴代天皇年号事典』吉川弘文館
(平成25年4月20日、第9刷発行)
両氏が共に安政七年三月十八日に改元と記載があります。
指摘した元号(万延)への移り変わりは歴史研究家でさえも、多少なりとも誤記する方もおるようです。
元号の概念を理解した上で安政七年と表記している歴史研究家も勿論、おります。○○○○氏、○○○○○氏等
また、安島帯刀の切腹という史実については幕末に長けている方なら周知のことです。
水戸史学会
のんた樸斎

2015/07/23 Thu 16:10 [No.49]

Re: 会の発足おめでとうございます♪

京都歴史研究会代表 mail

(水戸史学会&東京龍馬会)所属
のんた樸斎 さん!

お祝いメッセージ有り難う御座います

頑張って、フォーラムを遂行したいと思います。

2015/07/04 Sat 18:48 [No.5]

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