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のんた樸斎
自分は福島在住で京都の史跡めぐり等が
中々、出来ません。
杉さんぼくさんの尽力により
自分は梅田昌彦氏と電話で3、4回ぐらい
会話したことがあります。
開催予定の『梅田雲浜生誕200年mini見に記念フォーラム』へも
参加してみたいとは思いますが願い叶わず
当地にて、フォーラムが無事に遂行し得る事を応援してます。
京都歴史研究会の活動内容等を参考にしたいので
誠に勝手ながら拝読させて頂きます♪
末尾なれど
京都歴史研究会の今後益々の御活躍を心から応援します♪
(水戸史学会&東京龍馬会)所属
磐城住人・のんた樸斎
2015/07/04 Sat 08:50 [No.4]
京都歴史研究会代表 mail
(水戸史学会&東京龍馬会)所属
のんた樸斎 さん!
お祝いメッセージ有り難う御座います
頑張って、フォーラムを遂行したいと思います。
2015/07/04 Sat 18:48 [No.5]
京都歴史研究会代表
京都歴史研究会を応援下さり、代表とも交流があった
(水戸史学会&東京龍馬会)所属
のんた樸斎さんが
一週間前9月24日(木)に急逝されました。
多分、脳梗塞が原因かと思われます。詳細は不明です。
天狗党の一人の
御子孫でもありました。
奇しくも、9月24日は
1877年(明治10年)
西郷隆盛、 満49歳没
桐野利秋、 満38歳没
村田新八、 満40歳没
西南戦争では、西郷の自決を見届けた後も、最後まで抗戦。戦死した日と、同じでした。
合掌
2015/10/01 Thu 23:28 [No.143]
京都歴史研究会・代表
◆安政7年3月3日(1860)
桜田門外の変
大老:井伊直弼を襲撃殺害した事件。
◆文久2年1月15日(1862)
坂下門外の変
老中:安藤信正を襲撃した事件。安藤は負傷
↑上記いずれの事件も、水戸浪士が中心に引き起こした事件だ。
全国で尊王攘夷運動が激しくなる中、藤田小四郎(東湖の4男)を中心とする水戸藩の尊王攘夷の若手急進派が決起
元治元年(1864年)3月27日、水戸藩の尊王攘夷派による筑波山挙兵とそれを契機に争乱が起こって行く。 攘夷の実行を幕府に迫り、筑波山(茨城県)で兵を挙げたのだ。
この水戸藩の尊王攘夷派は
『天狗党』と呼ばれた。
水戸藩こそが、尊王攘夷思想の発信地。
2代藩主:徳川光圀が始めた歴史書「大日本史」の編纂を通じて形成されたのが尊王攘夷思想で、1829年に藩主となった9代藩主:徳川斉昭の時代だった。
斉昭は学者:藤田東湖(とうこ/1806〜安政2年10月2日(1855.11.11)午後10時頃に発生した安政の大地震没)他、下級の武士を登用し、質素倹約・海防と軍備の充実・藩校弘道館の設置等々、積極的な藩政の改革を行った。
やがて、ペリー黒船来航から斉昭は幕府の政治にも関わるようになり、斉昭と東湖は、全国の尊王攘夷派に影響を与えていった
。
そののち、東湖亡き後を継いだ息子の藤田小四郎(1842年-元治2年2月23日(1865年3月20日))ら天狗党が起こした筑波山挙兵は失敗に終わった
この天狗党の行動は、皆から無謀と思われた。
何故なら、倒すべき江戸幕府は地理的に近く、逆に、頼るべき京都は遠過ぎたからだ。
2015/11/01 Sun 05:48 [No.182]
京都歴史研究会・代表
それでも、遥か京都を目指して天狗党は、当時京都にいた一橋慶喜(斉昭の七男。後の15代将軍)の援助で、朝廷に尊王攘夷を訴える為、元:家老の[武田耕雲斎]を総大将とし(11月1日)、1000名余りの大部隊で出発した。
だが、天狗党の後を、幕府の追討軍が追いかけていた。
やがて追討軍に包囲されて、
耕雲斎ら823人が加賀藩に投降した(12月20日)。
慶応元年(1865)1月、敦賀(つるが)の鯡倉に監禁され、
2月、大量処刑が行われた。
■斬罪352人。
・武田耕雲斎、元治2年2月4日(1865年3月1日))没
・藤田小四郎、元治2年2月23日(1865年3月20日)※4月7日に慶応と改元)敦賀の海岸で刑死。享年24歳
■遠島137人。
■水戸藩渡し130人。
安政の大獄でも、死罪となったのは8人だけだったが、この大量処刑により、死体は山となった
当時の様子を薩摩藩の大久保利通は日記に「このむごい行為は、幕府が近く滅亡することを自ら示したものである」と記している。
2015/11/01 Sun 05:49 [No.183]
京都歴史研究会・代表
のんた樸斎氏の資料より
◆天狗党の乱、幕府へ投降組
元和甲子之変 天狗諸生之乱参加者氏名事蹟抄より
天狗派
堀田相模守殿佐原陣屋ヨリ水野肥後守御預替
『打越貞助』
↑回天忠魂塔碑に名前がないので、刑罰として、閉門か追放か送り寄せ。
◆尊王攘夷思想の大日本史編纂『打越直正(樸斎)』
貞享3年(1686)、那珂湊船手方[米川秀勝]の子として誕生。14歳の時、光圀の抜擢で格留付列史館見習となり、三宅観瀾に師事。
正徳5年(1715)、[打越家]の養子となって家督を継ぎ、享保12年(1727)には小納役に進み、
彰考館総裁を兼ねた。
世に出回ってる7割ぐらいは、安積澹泊(水戸を代表する儒学者/水戸黄門の格さんモデル)の死を持って「大日本史編纂が低迷する」と記載されてるが、
水戸史学会では樸斎の死を持って低迷するとある。
この偉大な打越直正(樸斎)と、天狗党の一人:打越貞助が、
2015年9月25日に急逝された
「のんた樸斎氏」のご先祖に
あたる。
ゆえに、のんた樸斎氏は、幕末史に詳しく、水戸史学会会員となり、歴史を大日本史編纂のようにリアルな活動で記して行ったのだと思う。
2015/11/01 Sun 05:54 [No.184]