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杉さんぼく
弥生から古墳文化の発達と共に畿内を軸とした各地を結ぶ幹線を山道、海道という交通概念を生みました。
江戸時代になって、いわゆる、東海道や中山道等の五街道が整備され、その一つに奥州道中(白河までで、以北は仙台道、松前道に通ずる)があります。
奥州道中の道の奥(みちのく)、奥(道奥)としての「奥大道」の確定は古く、官道東山道、東海道が律令政府下で設定された事を嚆矢とします。
この官道を通じ、移住、文化交流が展開し、言語社会のコミュニケーションが図られ道の奥、奥州陸奥(みちのく)文化が築かれて行きました。
では古代統一国家が誕生する以前はどうだったのでしょう。
道が出来るのは、未知なる所に通ずる事からであり、地域形成の「ムラ社会」群落地域間の争いが繰り返されていた頃は、物資や人の交流はあるもにもせよ、その間を結ぶ未知なる道の整備が行き届く交通路(道)の概念はまだありませんでした。
やがて、古代黎明の中央政府が飛鳥時代から平安時代前期にかけて、大宰府へと通ずる山陽道を始めとした、計画的に整備・建設した道路または道路網を造ります。これを古代道(古代ハイウェイ)と言いました。
6〜12mの地方道、都の近辺は24〜42mの幅員がありました。
その路は、遣随使、遣唐使交流から得た、当時の隋・唐の道路制度に影響がなくもない直線であるのが特徴でした。
直線道路、つまり大路(横大路の名が今にとどむ)は、大和盆地にまず7世紀初頭から設造が始まり、やがて全国的な整備が進んで行ったようで、各地では今も発掘調査が行われていますが、遅々として歩まずとかです。しかし、8世紀末〜9世紀の平安時代初頭の行政改革により次第に衰退し、11世紀には廃絶したようで、今も昔も道路問題はあるんですね。
かくして古代から、やがて大化の改新を経て以降、日本全土統一の基準に律令制が制定されます。
この頃から、各地の統治や租税の徴収を円滑に行うために各地を結ぶ交通路が整備されて行ったのでしょう。
駅逓・伝馬などの駅制の発達による、宿場整備がなされて、奈良時代になると、多くの街道も整備されて行きました。
ちなみに、街道とは江戸時代の謂いです。
2015/07/31 Fri 20:07 [No.80]
杉さんぼく
伊勢本街道と伊勢詣りについて〜
★「伊勢に行きたい、伊勢路が見たい、せめて一生に一度でも」、と伊勢音頭でも唄われたように、神宮の鎮まる伊勢を目指す旅は、江戸時代の庶民が夢にまで見た憧れの旅だった。
その伊勢参宮の歴史は古く、鎌倉時代中期以降、神宮信仰の担い手であった御師の布教の力が大きい。
これにより全国的な広まりと共に、道の整備なども進み、旅のし易い環境が整っていった。
戦国末期には、織田信長の政策などによって各地の関所が廃され、参宮者の数も増加。更に、江戸時代になると、幕府主体の宿駅制度の制定や交通事情の改善に加え、経済的・時間的余裕を持つまでになった庶民層も大いに旅を楽しむことが出来、賑わいを増した。
そうした安定期の江戸時代にあっては、旅そのものがいわば娯楽であったから、伊勢詣りは最も人気の高い旅の目的地として確立するに到った。
村などの共同体で講を作り、積立金を元手に代表者が伊勢まで旅して参拝(代参)するというケースも全国的に見られた。
これが伊勢講である。
2015/10/13 Tue 14:49 [No.150]
杉さんぼく
また、約60年に一度、「参宮ブーム」現象が起こり、年間何百万人もの参宮者が伊勢参りをした。
これを「おかげ参り」と呼び、慶安3年(1650)、宝永2年(1705)、明和8年(1771)等があり、とりわけ文政13年(1830)に起こった「おかげ参り」はつとに有名である。
こういった人々を伊勢へと駆り立てる原動力には、神宮信仰はもとより、旅そのものへの憧れや、日常からの逃避が大いにあったのは否めない。
無論、十返舎一九の東海道中膝栗毛や、北斎に歌川広重の東海道五十三次等の影響もなくはない。
実際、講に属さない個人の参宮者も多く、関東、東海方面からの東海道を上り、四日市の日永追分で東海道と別れて、伊勢を目指すルートが挙げられる。
これは、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』などでも紹介されているルートで、「伊勢街道」「参宮街道」の別称もある。
これに対し、西国、関西方面からの参宮者が辿った道筋のほとんどが、大和(奈良)を経由するものだ。
大阪を経て、奈良から伊勢に至る道は複数あるが、最短コースが「伊勢本街道」と呼ばれる道である。
大阪の玉造稲荷神社を起点として、大和との県境にある暗峠を越え、奈良(猿沢池)から三輪、初瀬(ここまでは初瀬街道とも)、榛原、山粕、菅野、奥津、多気、津留、相可、田丸などを経て、宮川を渡って山田(伊勢)に到る約170kmの行程だ。
そもそも「伊勢本街道」は、神宮を伊勢に祀った倭姫命が、大和から伊勢へ向かった際に通った道といわれ、松本清張氏の小説「Dの複合」ではないが、北緯34度31分を貫くいわゆる「太陽の道」とも関連付けられることから、「神意に叶う道」として、西からの参宮者が多く利用した道であった。
2015/10/13 Tue 15:02 [No.151]
杉さんぼく
しかし、伊勢本街道は距離的に短い分、険しい山道が多く、これより北を走る北街道(青越え)の方が平坦であった為、参勤交代に使われたりして、次第に伊勢本街道の整備は怠られるようになり、利用者も減っていった。
明治時代に入り、一時は復興的に整備がなされるものの時既に遅く、鉄道の普及に伴い伊勢本街道は時代に取り残されてしまった。
かつては参宮者で賑わった旅籠も廃業に追い込まれ、今では沿道の人口も減って、過疎の一途を辿るばかりだ。
しかし、開発が進まなかった分、常夜灯や道標、旧旅籠の遺構、細くうねる様に続く道など、旧道の面影を随所に見ることが出来、旅人たちが目にした事の、往時の街道風情の名残りを今に留めている。
お伊勢七度、熊野へ三度、愛宕詣での月参り、朝熊詣らねば片詣り、お伊勢お多賀の子でござる…とやら、こんな里謡が今に生きる庶民旅、それが伊勢参り街道である。
2015/10/13 Tue 23:10 [No.152]