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  1. [110] 中世までの京都では道路を通とは言わず『大路(おおじ)』『小路(こうじ)』と呼んでいた。平安京の条坊制という都市計画では大路が幅8丈(約24メートル)、小路が同4丈(約12メートル)ときっちり区画されていた。その後、自然発生的に人々が通と呼ぶようになり、江戸時代までに定着したようだ。東西と南北でなく幅で区別していたからである。古来、縦横の呼び方を分けていなかったから、通に統一されたのだろうか。> 続き通と筋 藤原改新 2015/09/04 20:33
    1. [111] そうでしたね!
      平安京の道路は、大路と小路が有りましたね。
      自分が使った資料では、大路10丈・小路4丈だったので、
      会報の投稿「鴻臚館」では、大路・小路の分け目なく、
      [道は10丈]  と書いてしまってます。
      失敗してますが、宜しくです。
      Re:藤改御中
      木曽 武 2015/09/06 10:33
    2. [145] 日本紀略は、平安時代に編纂された歴史書で、六国史の抜粋と、六国史以後後一条天皇までの歴史を記す。範囲は神代から長元9年(1036年)まで。

      『続日本紀』は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る  ・・・・ >> 続き
      通と筋
      杉さんぼく 2015/10/06 06:32

[ 編集 ][ 返信 ]通と筋

藤原改新

中世までの京都では道路を通とは言わず『大路(おおじ)』『小路(こうじ)』と呼んでいた。平安京の条坊制という都市計画では大路が幅8丈(約24メートル)、小路が同4丈(約12メートル)ときっちり区画されていた。その後、自然発生的に人々が通と呼ぶようになり、江戸時代までに定着したようだ。東西と南北でなく幅で区別していたからである。古来、縦横の呼び方を分けていなかったから、通に統一されたのだろうか。
大阪は南北に広がる上町台地から西へと発展したのが要因だとみる。上町台地の北端には石山本願寺があったが焼失し、豊臣秀吉が大坂城を築いた。大坂城から西へ開発が進み、中央大通など東西に伸びる道と町並みが同時につくられた。長堀通や千日前通も、町と一緒に西へ伸びていったという。通とは町そのもの。一方、筋はあくまである場所へ向かう道のりであり、通とは別物だった。堺筋、心斎橋筋などは堺や心斎橋へ行く道ということだ。御堂筋はもともと北御堂と南御堂へ向かう短く細い道だった。御堂筋の北側はかつて淀屋橋へ続く道ということで淀屋橋筋と呼ばれていた。
京都へ戻り、古い史料では現在の新町通は町尻小路、町小路、町尻通などの呼び方が混在。市場が立ち並び、人が集まる栄えた町だった。
徐々に発展し、新しい道路ができた大阪と違い、すでに区画整備された平安京が1200年間に姿を変えながら、自然発生的に既存の道路の呼び名が定まっていったのが京都といえそうだ。

2015/09/04 Fri 20:33 [No.110]

[ 編集 ][ 返信 ]Re:藤改御中

木曽 武

そうでしたね!
平安京の道路は、大路と小路が有りましたね。
自分が使った資料では、大路10丈・小路4丈だったので、
会報の投稿「鴻臚館」では、大路・小路の分け目なく、
[道は10丈]  と書いてしまってます。
失敗してますが、宜しくです。

2015/09/06 Sun 10:33 [No.111]

[ 編集 ][ 返信 ]通と筋

杉さんぼく

日本紀略は、平安時代に編纂された歴史書で、六国史の抜粋と、六国史以後後一条天皇までの歴史を記す。範囲は神代から長元9年(1036年)まで。

『続日本紀』は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。

この史書に記載あるアテルイ(?〜延暦21年8月13日[802年9月17日])の時代より以前、中央国家は、辺郡(近夷郡)と蝦夷支配の拠点として、城柵造営するが、その際に奥大道を整備した、とされています。

従って、奥大道官道は城柵や官衙(かんが)を結ぶ征夷の道であったのかも知れません。

733年、出羽柵が秋田に遷置され雄勝郡が築かれ、737年には多賀城と出羽柵の直通路を開くために大野東人が遠征しています。
この目的が26年後達成され、出羽柵に通じる陸路、6つの駅が置かれ、796年に伊治城と玉造塞間に1駅、804年に志波城と胆沢郡間に1駅が置かれて、アテルイ征夷に伴う官道整備の一環がなされて行きます。

奥大道が、道路として奥州道中となるには幾多の海道諸駅の廃止再編などがありながら、未知の奥から、北方の交易に鉄などの物資の流入で、蝦夷集団の政治的成長をも促す結果をもたらして行きました。

北海道を含む日本海沿岸の夷地は本来出羽国の管轄地で、秋田城、雄勝城は辺郡(近夷郡)に組み込まれた蝦夷を含め、多数の蝦夷の支配拠点であった訳です。

アルテイから少し時代を上る、越国国守の阿倍比羅夫による北征(658年-660年)は、蝦夷に対する貢納支配を目的に、三年間に三度行われて、秋田市以北の齶田(秋田)・渟代(能代)・津刈・渡島(北海道)の蝦夷相手でした。
とはいえ、アルテイのような戦闘があったのではなく、早くからこの地域各地の蝦夷は、古代国家と個々の話し合い接触があったとされています。

となれば、奥大道の果たす道の役割もあながち、戦いの道でもなかったのかも判りません。

で、道路の「道」「路」の違い、使い分けが分かりますか?

2015/10/06 Tue 06:32 [No.145]