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杉さんぼく
安政5年(1858)、いわゆる戊午(ボゴ)が水戸藩に朝廷(梅田雲濱建白書には朝庭)から下ります。
この解説、解読が維新夢クラブのK君が活字起こししましたから、秋の雲濱生誕200年で配付します。
乞うご期待!
2015/07/15 Wed 06:13 [No.8]
京都歴史研究会代表
戊午の密勅(ぼごのみっちょく)
幕府の将軍継嗣問題の決定や、安政五か国条約の違勅調印を快く思わなかった第121代孝明天皇(1831〜1867)は、幕府および水戸藩へ
安政5年(1858)8月8日付け勅諚(ちょくじょう)を下した。
戊午は安政5年の干支で、
前例を破って朝廷から水戸藩に内密に下されたので「戊午の密勅」という。
水戸藩へは8月7日深夜…左大臣近衛忠煕(ただひろ)から水戸藩京都留守居:鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)に手交され、諸藩へ伝達せよという添書が付けられていた。
この異例の勅諚には、条約調印をめぐる幕府の対処の仕方を批判し、水戸藩の攘夷推進を促していたが、これを知った幕府は
、水戸藩に諸藩伝達を禁じた。
水戸藩ではこの勅諚伝達の
可否を廻り意見が分かれ、
翌年、朝廷が幕府の求めに応じて勅書返納を沙汰するに及んで政治問題化した。
天皇の幕府・諸藩に対する政治的所信初の公的な表明と取れる[戊午の密勅]は、朝廷が積極的に政治関与を示したもの位置付けられ!
大老:井伊直弼に[安政の大獄]の弾圧を決意させる発端となった
…2015年9月4日(金)、
私は京都アスニーセミナーの講座を受けてきた。
『井伊直弼と安政の大獄』
京都女子大学文学部教授
母利 美和(もり みわ!ではなく男性の教授:もり よしかず)
彦根城博物館学芸員をされていたので、井伊直弼には詳しく著書も多いらしい。但し、水戸の人には、よく思われていないとか?(笑)
安政の大獄で、梅田雲浜を最も重要(幕府にとっては危険)人物として(安政6年9月7日)、一番に捕まえた井伊直弼を 私は良くは思っていない
しかし歴史は、敵味方の両方の立場から見なくてはならないから、
先月、彦根に行き、井伊直弼展も観て来たし、今回の講座も聴講して来た。
口の堅かった梅田雲浜、論ずれば歯が立たなかった為、江戸送りにしたという。
(安政6年9月13日(1859/10/9)獄死)
吉田松陰は連座しただけで、
戊午の密勅とは、何ら関係ない人物であり、たまたま、捕らえみたら、言わなくても良い
老中首座である[間部詮勝(まなべあきかつ/1802〜1884)の暗殺]を企てていた事を自白しての死罪だった(安政6年10月27日)。
2015/09/11 Fri 07:21 [No.123]
京都歴史研究会代表
さて、この講座のレジェメで、彦根城博物館所蔵
戊午の密勅の写しのコピーを戴いた。
また、安政の大獄での処分リストも初めて見た。
これには、評定所(老中1名.寺社奉行.勘定奉行.町奉行.大目付.目付)が諮問決定した処分リストに、それより重い[死罪]の言葉などを付箋紙で貼り付けられたものだった。
例えば、吉田松陰は、初めは
「流罪」判決が「死罪」となっている。
井伊直弼が貼ったと伝わる、
罪を一段以上重くした書き換えだったが、母利美和教授が言うには、井伊直弼ではなく、井伊直弼と皆で決定した罪状という。。
因みに安政の大獄/主な処分者…
◆安政6年4月22日:前関白/鷹司政通、鷹司輔煕、前左大臣/近衛忠煕、前内大臣/三条実万⇒落飾(出家)。前武家伝奏/東坊城聡長⇒永蟄居。
青蓮院宮(久邇宮朝彦親王)⇒隠居永蟄居。
◆安政6年8月27日:
徳川斉昭⇒国許永蟄居。
水戸藩主/徳川慶篤⇒差控。
徳川慶喜⇒隠居・慎。
◆安政6年8月27日:第一次断罪水戸藩家老/安島帯刀⇒切腹。
京都留守居役/鵜飼吉左衛門⇒死罪.鵜飼幸吉⇒獄門。
藩士茅根伊予之介⇒死罪。
鮎沢伊大夫・小林良典⇒遠島。池内大学⇒中追放。
勘定奉行/川路聖謨(かわじとしあきら)⇒罷免.隠居差控。
◆安政6年9月6日
前老中/堀田正睦(ほったまさよし/佐倉藩主)⇒隠居。
◆安政6年9月10日
前老中/松平忠固⇒隠居。
◆安政6年10月7日:第二次断罪橋本左内・頼三樹三郎・飯泉喜内⇒死罪。
大覚院門跡家臣/六物空万⇒遠島。
◆安政6年10月27日:第三次断罪
吉田松陰⇒死罪。
◆安政6年12月16日
茅根伊予之介の息子/熊太郎⇒遠島。
※これにて処分終了。
だが、その翌年、安政7年3月3日、
井伊直弼(1815〜1860年3月24日)は、安政の大獄の報復を受けるような形で、
桜田門外において暗殺された
2015/09/11 Fri 07:23 [No.124]