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藤原改新
安島帯刀の苦悩余話を一つ。鵜飼幸吉が京都より持ってきた勅書(戊午の密勅)に江戸の水戸小石川藩邸は真実困惑した。幕府にも同日に勅書が到着し、老中の間部詮勝達はすぐに小石川藩邸にやって来て安島帯刀などと協議し、当面諸藩への回達は行わず、三家三卿だけ伝達するということで妥協した。しかし水戸藩としてはこの勅書を回達するかしないか、いずれは決めななくてはならない。幕府に逆らって回達することが可能か?天皇から下された勅書は水戸藩にとってはこの上なく尊いものであった。藩士達の多くは尊皇攘夷のコチコチであったから回達しないと決まれば、藩内の騒ぎはただでは済まないに決まっていた。(しかし、この勅書の内容は既に諸藩に知れ渡っていた。)水戸藩が回達しないと決めれば、尊攘の本家である水戸藩が鼎の軽重を問われることにもなる。
この様な状態で、水戸藩には三つの派閥に別れていた。昔斉昭に迫害された大身の士、或いは結城党の流れの人々は尊攘嫌い、幕府大切だから非回達主義。小石川藩邸を握っていた藤田党の中が二つ割れて、水戸藩は天皇にも幕府にも決して戈を取ってはならない。両者が不和になった時は飽くまでも平和的な道を貫くべきだとした。元藤田党であっても勅諚非回達に賛成した人達は尊攘鎭派と呼ばれた。久木直次郎、石河幹二郎などである。しかし尊攘派の多くは断然回達を主張した。老中達が朝廷の意志(攘夷)を尊重しないなら彼らを斥けるべし、井伊直弼や間部詮勝、高松藩(水戸の連枝)がなんと言おうとも勅諚はすぐに回達すべし、斉昭は蟄居を止めて小石川藩邸に移るべし、井伊はこれまで暴政を行ったのだから違勅の罪を鳴らして早速江戸城への登城を差し止めるべしと主張した。尊攘激派と呼ばれ、武田耕雲斎、高橋多一郎、金子孫二郎などである。
水戸藩にとって 安政の大獄(獄とは裁判のこと)は思いも寄らない厳罰だった。
鵜飼父子は勅許降下の策謀があるから死罪はやむを得ないとしても、安島帯刀と茅根伊予之介は明らかな冤罪である。彼らの罪状は二つあって、一つは一橋を養君にする運動を応援したこと、もう一つは薩摩藩士 日下部伊三次(勅許降下の張本人)の水戸降勅運動に同意したことである。前者について安島と茅根が画策したのは事実であるが、それは臣下として当然であって、死罪に当たるような罪過ではなかった。後者は濡れ衣であって日下部の運動は安島とは無関係、彼はむしろ迷惑に感じたほどだった。
2015/07/23 Thu 22:11 [No.52]
杉さんぼく
「…鵜飼親子江文通およふ処より、猶右之者共、京地ニ而種々奸計を廻らし、公武御確執ニも可及場合ニ到ル段、対
公儀不軽儀、右始末不届きニ付、切腹申付ル」
公儀不軽儀…確かにきつい申し渡しですね。
これに比べて、池内陶所の「…悔自訴いたし」とかで、「中追放申付ル」処分とは。
ちょっとずるいですね。
(参考-公用秘録2007/彦根城博物館)
2015/07/26 Sun 15:37 [No.62]
杉さんぼく
安島帯刀は、斉昭が藤田東湖の後継ぐ人間として信任していた家老だっただけに、惜しまれた。
井伊大老の思惑を忖度して死を決意してか、鏡に自分の自撮り肖像画を残しただけに、その思いや計り知れない。
切腹、自刃、丁重に死したと言う。
2015/08/05 Wed 20:01 [No.87]
杉さんぼく
安島帯刀、神戸で昭和2年に刊行された維新回天遺墨の非売品資料に、なぜか安藤帯刀となっていて、これは誤植ではなく編集著者(所蔵代議士)はそう思っていたようです。
安藤帯刀の名は、紀州藩の家老にその名があります。
島・藤、何れもトウと読むだけに、たまに間違いが見受けられます。
2015/08/14 Fri 05:41 [No.92]
杉さんぼく
幕末維新、息2人と共に親子で戦死して死んだ話では、中島三郎助がいるのが巷間知られています。
同じような話を、敦賀の水戸浪士墳墓から読み取れます。
それが、水戸石名坂の黒澤八十衛門、利八郎、新次郎親子です。
水戸藩尊攘改革派で、水戸藩から麻裃一代着用を許された八十衛門は、水戸筑波挙兵に利八郎、新次郎を伴って参加しました。
そして、西上長行路の敦賀という異郷の地で、八十衛門は斬首惨殺前に病死し、利八郎、新次郎は悲痛な惨殺の最後を遂げました。
その死後の家系は、八十衛門の女婿新介が跡を継ぎ、現在、水戸黒澤家の庭には三人の顕彰碑が建てられていると言います。
こうして親子での情熱ってすごくはありませんか。
敦賀の武田耕雲齊墳墓にその名前があれば、そんな感慨の供養にふけってみるのも悪くはありません。
ちなみに、天狗党由来。
斉昭の兄、八代藩主斉脩(なりのぶ)文化文政時代からのようで、斉昭の新伊勢物語には以下のように記されています。
江戸にては口慢者杯を天狗と申歟に承り候所、水戸にては義気有之有志の者を天狗と申候。…今日の暮(くらし)にも指及ながら…容易に人に出来不申事を致候を中々人の出来候事に無之、天狗に可有之と感心致候より、義気強く国家の為に忠を存候者は何れも天狗の仲間、是も天狗の仲間と申様に相成候義にて、天狗と申は拙老が国にては義勇のかへ名と申者にて、江戸にて申候とは相違に有之候…。
いわば、改革派の下級武士層集団でした。
かたや、諸生党。
水戸保守、佐幕派が藩校弘道館の諸生徒に手を廻して「諸生」の名で建言書を出した事から、諸生党と呼称されるようになったわけで、この代表が天狗党弾圧をし、逆に明治になってから、武田耕雲齊遺児などに惨殺された市川三左衛門です。
残念ながら、水戸浪士天狗党はいまだに子孫探しがリアルタイムで進んでいるようですが、諸生党子孫探しは捗らないこともあり、諸生党関連資料は多くありません。
うつ人も
うたる人も心せよ
同じ御国の
御民ならずや
あだみかた(仇味方)
カツも負くるも
哀れなり
同じ御国の人と思へば
(太田垣蓮月尼)
参考
幕末の日立(鈴木彰/郷土ひたち文化研究会1974)
2015/11/07 Sat 21:42 [No.188]