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京都歴史研究会・代表
◆1月23日(土)15:00〜17:30
京都大学人文科学研究所
本館1Fセミナー室1にて
◇近世後期における水戸藩の儒教儀礼―[喪祭儀略]と[喪祭式]を中心に―
◇報告者:田 世民
(淡江大学副教授、京都大学人文科学研究所招聘准教授)
の講演会を聴講してきた!
中国や朝鮮でも、時代につれて仏教式の葬祭儀礼が普及し、
儒家知識人たちはそれに対抗するべく儒家伝統の喪祭礼の再興に務めた。
近世日本の場合、江戸幕府は寺檀制度を実施し、火葬を含めた仏教式の葬送儀式を、それぞれの菩提寺により仕切るよう制度化させた
。
その制度の下で、儒家の知識人たちの中で困難が起きた!。
「孝」を重んじる儒者にとっては、親の遺体を火葬にすることなど、全く許しがたかった。
よって、儒家知識人たちが朱子(1130〜1200)『家礼』(冠婚葬祭儀礼のマニュアル書)を忠実に受け止め、これを制約された時代の状況下で生かし、その方法を工夫しようと実践していった。
崎門派の浅見絅斎(あさみけいさい)は、自ら『家礼』の校訂出版や講義を行い、原則的立場を強調した。
火葬は論外であり、また異姓養子の禁止をも厳格に要求した。
(絅斎自身には実子がなかったが、敢えて学問の信念を貫き養子を取らなかった⇒この厳しさは、崎門派に共通する特徴である。)
水戸藩の二代藩主:徳川光圀(1628〜1700)は、藩主として自ら儒教的礼制を定め、藩を上げて儒教喪祭儀礼を実施した。
万治元年(1658)年、正室:泰姫の葬儀を儒礼で行った。
寛文元年(1661)、父親:頼房の葬儀も儒礼で行い、常陸久慈郡(現/茨城県常陸太田市)の瑞龍山に儒式の墓所を造営した。
その儒葬前後の様子は『慎終日録 威公』として記録
され、後の葬儀の参考となった。
2016/01/30 Sat 22:24 [No.240]
京都歴史研究会・代表
寛文2年(1662)、歴代藩主を祀る『祠堂』(家廟)を水戸城内に建てて、儒式祭祀を始めた。
光圀は寛文6年(1666)家礼に基づく喪祭儀礼を解説した『喪祭儀略』を和文で撰述させ、藩士らの墳墓を坂戸と常磐に授け、自葬儀祭を勧めた
これは光圀が権力者だから出来たことかも知れない
そして喪祭儀略は、写本として流通、改定増補を経て、水戸藩では近世を通じて儒教儀礼が行われ続けた
徳川斉昭(1800〜1860)は喪祭儀略を基に『喪祭式』を編纂、明治になって
斉昭の子、第11代(最後)の藩主:昭武(1853〜1910)によって出版された。
権威ある儒教喪祭儀礼マニュアル書が成立し、儀礼も執り行われてきたが、新しい時代の到来により終焉を迎えている
。
但し、神道式の葬儀『喪祭式』として、儒教の喪祭儀式が取り入れられ変化して、僅かに残り現在に至っている。
2016/01/30 Sat 22:26 [No.241]
京都歴史研究会・代表
【感想】
今まで私は、仏式の考え方で墓参りをしていて、神道や儒教の墓の形やしきたりが分かっていなかったので、少しは理解出来て、勉強になった。
講演後の懇親会に 急に参加させて頂き、和やかな中にも教授の皆様のお話を 真横で聴くことが出来て、それも貴重な体験になった。
その上、ほとんど夕食はご馳走になり恐縮した。
帰宅後、戴いた名刺からWikipediaで検索したら、凄いハイレベルの教授ばかりで、高校生の時は、赤点ばかりのアホな日本史答案をしていた私には、恐れ多いことだと感じた。
因みに、ご一緒した教授らは…
◆田 世民氏(台湾新北市の淡江大学副教授。京都大学准教授。)
◆高木 博志氏(日本の歴史学者。京都大学教授。専門は 日本近代史。天皇制度・文化史。)
◆山室 信一氏(京都大学人文科学研究所所長 。政治学者。元・衆議院法制局幹事。護憲派。
NHKスペシャル「シリーズJAPANデビュー」で実質的な皇統の廃絶を主張。)
◆岩城 卓二氏(京都大学人文科学研究所准教授。専門 日本近代史。)
2016/01/30 Sat 22:29 [No.242]